それはどこにでもある彼岸・弐 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

禁じられた終わらない遊び

 私は、トイを飲み込んだ後、波紋一つ立てないその沼のような深い水面をしばらく呆然と眺めていた。
 為す術もない気持ちで、ただただ見ているだけだった。
 しかし、ずっとそうしているワケにもいかない。
 施設に戻って、救援を求めれば、トイを助け出すことができるかもしれない。
 万に一つだろうが、可能性があるならば、やってみるべきだ、と私は感じた。
 だけど、そこで私はトイの言葉を思い出す――施設の職員が今日に限って、屋外に私達を連れ出した理由は何か? という問いかけ。
 もし仮に、これが施設の職員が意図した計画なのであれば、トイを助けてくれるどころか、私はただ単に独房のような自室に、強制送還されるだけかもしれない。
 じゃあ飛び込んで、トイを助けるべきだろうか?
 ダメだ……私、泳いだことない……泳げないや……。
 そもそも泳げたところで、子供一人を丸々と呑み込む、どこまで深いかわからない沼に飛び込んで、トイを引き上げることなんてできるとは思えない。
 つまり、今、沼に飛び込むのは、トイとの心中自殺みたいなモノを意味するんだろう。
 一瞬、そうしてもいいんじゃないか、と思った。
 でも、でもそれは……私の手を払いのけるようにしてまで、一人で沈んでいった、トイの気持ちを裏切ることになるんじゃないだろうか……。
 なんてことはない、こういう急展開に直面して、ちゃんと行動出来たのは、トイだけだったってことだ。
 私は、単なる頭でっかちだった。
 ただの耳年増だった。
 実際の行動なんて、何一つ起こすことが出来ずに、ただ、色々と考える振りをしているだけの無様な少女――それが私だった。
 結果、トイが沈んでから数分が経過してしまった。
 トイの生命を助けるのは、どう考えても不可能になった。
 そして、それでもどうしたらいいのか、延々と考え続けているしかない私の目の前で――沼の水面が揺れた。
 ぶくぶくと、気泡のようなものが浮かんできて、私は、ありえないもしもの可能性に縋りたい気持ちになった。
 だけれど、そうやって這い上がってきたのは、当然、トイなんかではなかった。
 というか、這い上がってきたモノ、アレは何なんだ?
 何と形容すればいいんだ?
 少なくとも、これまで見たことはないし――そもそも生物なのか疑わしいモノではあった。
 それは泥だ。
 蠢き、生きているように、今、沼から這いずり上がってきた、泥の群れ。
 そうとしか形容出来ない。
 どうやら、鉱石のような黒色のものも混じり込んでいるようだが、どこをどのように見ても、まるでアメーバかスライムみたいに動く、泥のような生き物としか言えない……。
 それは、私の傍にまでやって来て、うごうごと蠢きながらも、這いずるのを止めた。
「えっと……」
 思わず首を傾げてしまう。
 これは――逃げた方がいいのか? 私の気持ちとしては、今はトイを失った悲しみに、存分に浸りたいという気分で一杯一杯なんだけれど。突然現れた泥生物へのリアクションをどう取ったらいいのかわからなくて、何だか行動の指針を失ってしまった。
 そして、私が戸惑っている隙を狙うようにして、その泥の生き物は、突然姿を変えていた。
「――は?」
 それは、トイだった。
 トイにしか見えない、そんな人間の男の子の身体に、その生物は突然変身したのだ!
「……は、はぁ?」
 いや、変身したのだ! とか言われても……何? これ、喜んだ方がいいの? どうなの?
 意味がわからない。様々なことが。
 自分が今の状況に、どう考えたらいいのか、どう感じたらいいのか、混乱だけが私を支配している。
「やぁ、よくやったね」
「――うわっ?!」
 突然、肩を叩かれて、振り向くと――いつの間にかいたのか、施設の職員がそこにいた。
 まぁ、私はずっとあわあわと戸惑い通しだったから、いくらでも背後を取る機会はあっただろうけれど。
「君が、ここまでの成果を見せてくれるとは――正直予想の外だったよ。
 君はちゃんと、君自身が、『特別』であることを証明した。自分の身体を捧げて、おかしくなって、私達が特別になることに貢献するだけでなく――自分自身もちゃんと特別になった」
 パチパチ、と手を叩く施設の職員。
「え、えっと……トイは?」
「ああ、識別番号× × × × × のことか。いや、君も見てただろう? 彼は――特別にはなれなかった」
「…………」
「死んだよ」
 私は、目の前が真っ暗になったような気がした。



 目の前が真っ暗になったような気分になったとしても、実際に視界が暗転したワケじゃない。
 私は、気を失ったのではないのだから。
 だけれど、私は、それ以上現実を目に入れたくなかった。
 それこそ、いっそ――泥のように眠りたかった。
 うずくまり、目を閉じた私に、しかし文字通り上から、降るように施設の職員が語りかけてくる。
 うるさい。
 もうどうでもいいでしょ。
 黙っていてよ。
 そういう私の心の声は、考慮されることなく。
 施設の職員はその口を閉じない。

「君はいつか、『我々』に言ったことがあったよね――自分達は、どのような地点を最終目的地として、期待されているのか。その時、君には、君達をおかしくして、特別にするためだ、と答えたっけね。また別の時には、より正確に、君達をおかしくすることで、得たデータから、『我々』が特別になるためだ、そんな風に答え直したんだったか。しかし、君は、君自身が『特別』になった。いわば特例だよ。だから、私は教えてあげよう――『じゃあどのような方法によって、君はおかしくされようとしていたのか』、その情報を、君に補完してあげよう」
「…………」
 黙って。私が望むのはそれだけよ……頭が混乱しているの。頭が痛いの。身体が重いの。
「とはいえ、どんな科学技術が使われていたのか、どんな科学技術『以外』が使われていたのか、その具体的な手法を説明したところで、君にはチンプンカンプンだろう。だから、もっと本質的な話をしよう。君達を『おかしくする』快さ――ある種の『気持ちよさ』の根源について、話そう。どうだね? 君。いつだって、私達が君達に施す実験は、どこか心地いいものだっただろう?」
「……だから、それが何?」
「はは……やっと喋ったね。反抗的な態度だ――まあいい。人間の快楽というのは、常に欲望と共にある。ある種の欲望が叶えられると、人間は『気持ちよさ』を覚える。そして、人間には抗いがたい欲望が、三つある。食欲。性欲。睡眠欲。いわゆる三大欲求というヤツだ――君も聞いたことくらいはあるだろう」
「……あるけど」
「それはつまり、『生きるための欲望』と言えるだろう。生き残るための人間の『本能』だ。しかし、それとはまったく逆の性質を持つ、三大欲求に対してたった一つで吊り合ってしまうような――そんな欲望がある」
「な、なによ……それは」
 喘ぐように喋る。
 何でこの男は、もったいぶったような喋り方をするのだろう。
「いや、だから『死ぬための欲望』だよ。自殺願望だとか、希死念慮みたいなものかな」
「そ、そんなの……正常な人間の、欲望じゃ、ないでしょっ……」
「いやあ、正常だよ。細胞は日々自殺している。それはアポトーシスと呼ばれる、遺伝子に組み込まれたプログラムとしての死だよ。また、すべての細胞は癌化の可能性がある。そして、人間は毎日眠るだろう? 睡眠はある種の擬似的な死だ――死んだばかりの人間は、眠っている人間と、区別がつかない」
「そんなの屁理屈よ」
「これ以上、合理的な理屈もないんだけどなぁ……だって、じゃあ人間はなんで百パーセント死ぬんだい? 生きていたいなら、ずっと生きていればいいじゃないか。それをしないのは、そうしたくないからだ」
「…………」
 この男とこれ以上喋っていても、仕方ない気がしてきた。
「人間は生きているべきだとか、死にたくないんだ、とかよく言うじゃないか。でもそれは遺伝子的に正確じゃない。すべての人間は、そこそこ寿命まで生きたら、全員死にたいんだよ。三大欲求は好みもあるけれどねぇ――人によって強弱があるもんだけれどさ。しかし、死への欲求は、誰にとっても等しい。人間は最終的に死ぬ。そしてそれはね――永遠の眠りにつくように、自分の身体という一切のしがらみや苦しみから解放されるということで――とても気持ちいいことなんだよ」
「…………」
 施設の職員の言うことは何一つ気に入らない。
 しかし一番気に入らないのは――
「そして、君はそんな『死の快楽』の末に、こうして一つの力を獲得したというワケさ」
 ――こんな奴らの理屈通りに、身体を弄られ、そして思い通りにされてしまった、自分自身だ。
 私は、もう喋るのも考えるのも鬱陶しくなって、それこそ身体が思うようにいかないくらい苦しいから――足を放り出して、身体の左側を下にして、寝転んだ。
 胎児のように、少し丸まる。
 もう何も考えたくないっていうのに、それでも私の頭の中には、ぽつりぽつりと思考の断片が浮かび上がってくる。
 そして、怖くなった。
 私は、生と死の境目を、どうやら踏み越えてしまった――泥の生き物が変化したように見えたトイ、あれは一体『何』だ?
 わからない……なにも、わからない……。
 ただ、心を重苦しくするような、心の声がただ一つだけ、自分の中で響くのを聞く。

 ――そう、私は禁忌を犯してしまったのだ。

 そう、私は、してはイケないことをしてしまったのだという重苦しい罪悪感だけが、心をただ浸していった。

研究レポート

 私の手元には、私の供述や施設の職員の検証等を元にした『研究レポート』がある。

『識別番号■■■■■(以下被験体A)が発見した新種の生物を、[muds]と名付ける』

 ちなみに勿論、この名前は私が付けたワケではない――私はトイの姿をした[muds]をただ単純に『トイ』と呼んでいる。
 この名前についても、例の(とは言っても毎回相手の容姿は違うのだが)施設の職員が色々と嬉しそうに喋っていた。
 なんでも泥というのは『不加算名詞』なのだと言う。
 簡単に言うと、『泥は数えられない』ということなのだそうだが――私には、そこからよくわからない。
 泥は団子状に丸めたら、数えられるのでは?
 よく外の世界の子供は、そうやって砂場で水を使って遊ぶと聞いたんだけれど。
 まあ、そういう私のツッコミは脇に置いておいて、数えられないモノであるところの泥は、複数形にならない。
『泥ども』みたいなことは言わない――そういう外国の言語上は成り立たない表現を、普通はつかないはずの『s』を、あえてつけることで、『ありえない存在』を表現したかった、とのことだった。
 よくわからない……というか、そういうのは施設の職員同士でやってくれ、と思う。
 子供に(しかも義務教育過程を経ていない子供に)、嬉々として語ることじゃあないでしょそれ……。
 義務教育課程を経ていないのは、そもそも施設の責任だしさ……。

『[muds]は基本的には蠢く不気味な泥の群れのようにしか見えない。まさしくその外見は、[muds]と言い表すのが相応しい。
 しかし、被験体Aが[muds]に働きかけると、この生物に変化が現れる。
 当初、この変化は、被験体A以外に観測できなかった。
 脳波の異常の観測により、彼女が獲得した特異性を認めただけだった。
 だが、彼女から繰り返し証言を得ることで、[muds]に何が起こっているのかを私達は把握した。
 [muds]は彼女にとってだけは、識別番号× × × × × (以下被験体B)として認識されている。
 そのように――見えている。
 いや、視覚だけではなく、触覚にすら働きかけるらしい。
 つまり、被験体Aは、被験体Bとして認識される[muds]に、触れることができるのだ。
 勿論、それを俯瞰して見れば、[muds]に被験体Aが指を突っ込んでいるようにしか見えないのだが。
 だが、彼女には、泥に触れているという感触ではなく、人間の肌に触れているという実感があるワケだ。
 悪趣味な私達の中の一人が、それでは被験体Aと[muds]に生殖行為を促してみたらどうか? という提案をしてきた。
 なかなか踏み入った、禁断の領域の行為だと言えるだろうが――現段階で、この貴重なサンプルに重篤な損害を及ぼす可能性のある提案をする時点で、私達に相応しいとは言えない。
 彼をその後、目にすることはなくなった』

 こうやってちょくちょく、施設の内情を入れてくるのやめてくれないかな。

『[muds]は如何ようにして、このように被験体Aの認識に、被験体Bを投影しているのだろうか。
 これには、ある種の電気的信号を用いていることがわかっている。その詳細については、目下研究中である』

 どうせこれ、私に対してだけ書いたレポートなんだろうから、正直に『もう私達にはすべてわかっているが、お前には知る権利がない』とかなんとか、書けばいいのに。

『しかし、これでは[muds]は、ただ単に被験体Aにリアルな空想を用意しているだけと言える。
 被験体Bに見える[muds]は、被験体Aのイマジナリー・フレンドと、どのような差異があるのだろうか?
 このような疑念は、[muds]に対する再現実験による驚愕の結果によって、覆されることになる。
 被験体Aは、[muds]と自分以外に対しての人間の脳の『紐付け』すらも可能な能力がある、というのが判明した。
 つまり、『紐付け』すればどんな人間でも、被験体Aと同様の、ある種の幻覚を見ることが出来る。
『紐付け』によって、現れる幻覚には、制限がある。
 幻覚として現れる人間は、既に亡くなっている必要があった。
 それ以外、思慕の情を測られるだとか、愛着の度合いによって現れるかどうかが変わるといったような――まるで幽霊のような条件はない。
 [muds]には感傷的な制約は存在しない。
 死んでいて、呼び出したいと思った人間なら、どのような対象でも、幻覚として登場させることができた。
 ただ、[muds]と人間の脳を『紐付け』した場合、その解除は難しいようだ――現段階では、貴重なサンプルである[muds]を死滅させるような行為は、出来る限り避けたいという事情もあるが――[muds]との物理的な距離を遠ざけたくらいでは、この『紐付け』は解除されない。
 いつの間にか、幻覚が傍にいるのだという。
 つまり、[muds]の引き起こす幻覚症状には、[muds]本体があるかどうかは関係ないということになる――彼らが人間とある種の電気信号を通信しているというのなら、それは少しばかりの距離くらいでは阻止できない可能性が高い。
 未だ、それを遮断する『素材』のようなモノも発見出来てはいない』

 ふうん……施設の職員でもわからないことってあるんだ。
 こちらに対しては、素直に私はそう思えた。
 読んでいる内に気付いたのだけれど、やっぱり私にとって、施設の職員達は逃れ得ない絶対的な存在であるせいか、彼らが何でも知っているような錯覚に陥っていた。

『ともあれ、これは素晴らしい成果である。
 どのような展開にするかはこれから検討するにしても、限定的なカタチだとしても、死者との再会を願う人間ならいくらでもいるだろう――そして、もしその人間が、唸るような金を余らせている暇人であるとしたら――これはサービス・パッケージの考案が捗りそうである。
 金がなくて困るということはないが、あるならあるで『我々』には無限の使い道を考案する能力がある』

 そこまで読んで、私はうんざりした。
 こんなことまで、どうして私に知らせてくるか? 答えは明白だ――巻き込もうとしているのだ。その金持ち向けパッケージの一部として、私を。

『最後に[muds]という存在の本質に言及しておこう。
 なぜ、[muds]は、死者の姿形を真似るのか?
 そこにはやはり『死』が関係しているのだろう。
 この施設内を満たす、種々の薬物――それは『死への欲望』によって、子供達に変質を促すモノだった。
 しかし、その薬物溜まりである穴に、新種の生命は発生した。
 つまり、『我々』の知恵は、子供達だけではなく、環境にすら働きかけていた、ということだ。
 [muds]は穴から外に出ることを経験した。
 薬液外でもその生存には容易であるようだ。
 また、[muds]がどんなエネルギー代謝を行って、生存しているのかは不明だ。
 もしかすると、植物の『光合成』ように、太陽光を体内で変換している可能性もあるが、ほぼ密閉状態にある室内でも、[muds]がその蠢きを止めた例はない。
 あるいは、生物とは違う形態を持つ存在なのかもしれない。
 存続にコストがほぼ掛からないというのも、パッケージ化には魅力的な点だ。
 この成果に感謝しよう――そして、被験体Aに賛辞を送ろう。
 なあ。被験体Bの死は、決してムダではなかっただろう?
 君は、その死を経験することにより、新しい能力を見出したのだから。
 やはり――身近な被験体の死を経験することにより、脳の新しいチャンネルを開くという、私の仮説は、間違っていなかったということだ――』

 最後にぶち上げられたとんでもない爆弾に、私は憤り、興奮し、混乱し、その『研究レポート』をクシャクシャにして丸めると、床に叩きつけた。
 気持ちが収まらない。
 全然、落ち着かない。
 やっぱり、あの日、トイが立てた推測は間違っていなかった――普段絶対に出してもらえない屋外に出されたということを、もっと重く捉えるべきだった。
 私が――愚かだった。
 身体が震えてきた。
 苦しみに涙が滲みそうだった。
 ふと、顔を上げると、[muds]――私には『トイ』に見えるそれが、ゆらゆらと身体を微動させ、ただこちらを見つめていた。
「アンタなんか、アンタなんか、全然トイじゃないんだから……」
 私は力なく呟いた。
 しかし、結局、いつものように『トイ』の身体に縋りつき、涙を零した。
 なんだか、こうしていると落ち着く……全ての思考を放棄してしまえるような、泥沼のような安寧。
 それはまるで眠るような。
 まるで『死』のような。

優遇されても自由のない玉座

 施設にはこんな場所があったんだ――もう何度も来ているこの場所に、初めて来た時、私はそんなことを思ったのを覚えている。
 もちろん、識別番号で認識されるところの? 被験体でしかない私が、施設の全容を知っているワケなんてないんだけどね~?
 なんて、皮肉めいたことも浮かんでしまうけどね。
 それにしたって、独特の場所だった。
 この何と呼称されているかもしらない『施設』は、何となくだけれど、科学のようなものを基準にしていると思っていた――だけれど、その場所はどこか神聖さのようなモノを感じさせる。
 いや、違う――神聖さの『演出』を目指している、って感じか。
 相変わらず、材質不明の謎の白い建材で壁や床が天井が構成されているのは、施設全体と同じだが――どこか、そこは祭壇、のように見えた。
 人間が上に目一杯上に手を伸ばしたくらいの、大きな段差がいくつか積み重ねられ、その上がステージのように、ちょっとした広間になっている。
 そこまでは細かい階段によって登ることが出来た。
 広間には、八本の柱で支えられた屋根のある建築物がある――それは、外の世界が『世界遺産だ』とかで観光に行くという、ギリシャのパルテノン神殿っぽい感じがしなくもない。
 だけれど、その『っぽい』っていう部分が案外、印象の占める範囲としては大きい。
 材質が、プラスチックとまでは言わないけれど、近代的な安っぽさがある感じがする。
 歴史を感じるというよりは、そういう歴史ある建造物を模してでっち上げた、という質感があった。
 この施設を管理している組織には、科学的ではなくて、宗教的な、あるいはカルト宗教っていうの? そういう前身があったのだろうか。
 なくはないという気がする――すべて、想像でしかないけれど。
 私が『能力』を発現させている以上、自分の内側にまで入り込まれているワケで、もう否定してもどうしようもない段階に来てしまっている気がするが、この施設が使っていた薬物らしきモノが『死への欲望』をトリガーとして人間に作用するというのも、なんだかそれらしい。
 宗教は、恐らくだけれど、身近ではあるけれど、生きたまま経験することが不可能である――そんな死の世界を語り、人間の心に付け入るような気がするから。
 もちろん、そこで語られるのがホントのモノなのかどうかは、死んでみないとわからないが。
 この施設の前身で語られる『死後の世界』は案外ホンモノだったのかな――私に芽生えた力が、一応、現実に影響を及ぼす以上。
 しかし、すべてが私の想像を元にした考えなので、そんなことは考えても、意味がない。
 祭壇風のその場所について、視線を戻すとすれば、そこは、前身のモノであろう建築物にプラスして、今は豪奢な装いが為されている。
 祭壇に続く階段には、漆黒で足音の響かないカーペットが、一段一段に敷かれている。
 また、祭壇上の神殿には、その内部に更に入れ子構造のように、豪奢な天蓋付きのベッドが設置されていた。
 それは最初に来た時からそうだった。
 施設の職員が言うには、「客層に相応しい環境の提供――演出と言ってもいいけどね。まぁ、ドレスコードとそうは変わらないさ」とのことだ。
 ドレスコード、後でネットで調べたところによると、豪華絢爛の世界の住人に必要とされる服装を指すそうだ。
 調べるまでもなく、初回から、『お客様』と接した時にそれはわかったけどね……。
 施設の職員とは、まるで別種の世界の空気感を感じた。
 どこか、間延びしていて、緊張感がないような、ぼんやりとした空気感。
 そのくせ、私やこの施設に対しては、心の奥底では蔑みを感じているのがわかった。
 そして、どこか皆、ふくよかだ。
 痩せている人は、ただ一人を除いてこれまで来ていない。
 今回の『お客様』は、真っ白な服を来たふくよかな女性だった――胸やお腹に脂肪がたっぷりとある。
 顔も丸みを帯びていた。
 彼女は階段を億劫そうに登り(それを付き人に代わらせることはできないか、下で施設の職員に尋ねていた)、私のいる祭壇へと登ってくる。
 そう、申し遅れましたけれど、お客様。
 そうです、私こと、ソギが僭越ながら――『司祭』の役目を務めさせていただいている人間になります――まぁ、そんな自己紹介を口に出すことはしないんだけれどね。
 天蓋付きベッドの上で、私は優雅に女の子座りをしていた。
 説明や解説はこちらで行うので、お前はただ謎めいた笑みでも浮かべていろというのは施設の職員の弁だ。
「それでは、こちらの神の子に、死した魂についてお伝えください」
 神妙な顔、なんてレアな施設の職員の表情はここでしか見られないよ! ……見てどうするんだ。
 そして、『神の子』って言われる度に、私はむず痒い気分になる。
 イエスキリストかよって感じ……軽々しく世界最大の宗教の救世主と同じ称号を与えたりすると、逆に安っぽくなるでしょうに。
 そういうところが謎の新興宗教っぽさを醸し出していると、私は感じていたが――しかし、施設の職員に、そのことをアドバイスめいたカタチで伝えることなんて、もちろんしなかった。……どうせ聞かないでしょ。
 ちなみに、私の傍には、『トイ』――つまり、私に寄り添う[muds]がいる。もう私とはセットのようなものだ。どれくらいセットかというと、女子トイレにも付いてくるくらい。
 いやぁ、ホントに初回は個室の中にまで付いてくるから困った。
 それを徐々に、扉の前で待ってもらうように、そして、女子トイレの前で待ってもらえるように、と距離を広げていったのだ。
 あれはホントに赤面モノのエピソードだったなぁ。
 こっちは本気で恥ずかしかったのに、というか恥ずかしいとかそういうレベルじゃない問題なのに――『トイ』の方はずっと平静そのものの顔をしていたっけ。
 ムカついたなぁ――同時にやっぱり、『トイ』は[muds]であり、トイそのものではないことを実感した。
 『トイ』の反応が違うというより、私の感じ方が違うのだ。
 もし仮にトイが女子トイレに侵入してきたら、往復ビンタした上に絶交したであろう確信が私にはあるが、しかし、『トイ』にはどこか、『ホンモノじゃないから、仕方ないか』『人間じゃないから仕方ないか』、そういう諦めみたいなモノを抱いていたのは事実だ。
 とまれ、私がそんなことを思い出して、ちらっと『トイ』に目をやったところで、ふくよかな女性は、いよいよ覚悟を決めて得体の知れない『神の子』に、何がしかを語ることにしたらしい。
「……あれは、あれは三日前のことでしたの。まだ、葬式の手配もしていないんですよぉ――私の息子は、亡くなりました。
 最近、どうも様子がおかしいとは思っていたんです。
 夜、帰るのも遅いし――それに一度、万引きで警察に補導されたんですのよ!
『次はうまくやる』だなんて言っていて、私、心配していました。
 それで、夜遊びの途中で、交通事故で――そう、事故です。
 別に何か悪い遊びをしていただとか、何かの事件に巻き込まれたとかではないから、私も安心しましたけれど――いいえ。そういう問題じゃありませんよね……。
 息子は死んだんです……食事もこの三日、ロクに通らず……」
「――わかったわ」
 私はそれ以上の話を遮るように、端的に答えた。
 あまり余計なことを喋るな、と施設の職員に念押しされているものの、別に返事までするなとは言われていない。
 最低限の応答くらいは必要だろうし、それくらいは看過される。
 それにしても、なんだかうんざりとしてきた……。
 [muds]は、対象の人間が死後の人間を強く想っていれば、ちゃんと『紐付け』を行う。
 だから、死後の人間を強く悼んでいるのなら、こういうエピソードトークはまったく必要ないのだ。
 もし仮に、こういう話が、私に仕事のやりがいを感じさせてくれるものだったら、私も別に構わないんだけれど――これまでのケースでは、ほぼ決まってウンザリさせられてきた。
 まぁ、これもサービスパッケージの一環なんだからしょうがないんだけれどさ……。
 とはいえ、このふくよかな女性も、ただのそこら辺の小娘でしかない私に、『息子が死んでいるのに、その死んだ原因が家柄に悪影響を受けないかをむしろ気にしている』とか、『そのでっぷりとした体型を見るに、ホントに三日間、食べることを我慢できたか疑わしい』みたいな見下しを受けたくはないだろうに。
 いや、まぁ、そういう感情を表に出したりはしないけどさ……これもお仕事だしね。
 私は本心を口にせず、施設の職員に用意されたセリフを喋ってから――微笑む。
「あなたの魂は、あなたの子の魂と通じています。これからその繋がりを、私が見えるようにします」
 なんだかトイが死んでから、すべてがどうでもよくなってしまって、表情を作ることは、結構、簡単なことになってきた。
 そして、私はふくよかな女性と[muds]の『紐付け』を行った。
 天蓋付きベッドの下に潜む[muds]の一部がするりと抜け出し、女性の傍に人の高さくらいの柱のようなモノを形作る。
「ああ……マサキ……!!」
 それは女性にだけは、その『マサキ』という息子そのものに見えているんだろう。
 それがどんな少年なのかは、私にもわからなかった。
 私には、女性が柱の周囲に腕で作った輪で囲むようにして、彼女だけに見える『マサキ』を抱きしめているのであろう姿が映るだけだ。
 それにしても『マサキ』っていうのはどういう字を書くのかな――両親に名付けられた名前というモノへの憧れをぼんやりと感じながら、その日の仕事は終わった。

 この仕事を始めてから、私は以前より、優遇された環境に身を置くことになった。
 私が普段暮らしている個室は、前よりずっと広いモノになり、『トイ』と暮らすにもまったく不自由しない。
 以前の部屋は、白い素材でできた無機質な家具が配置されていたが、今回の部屋には私の希望により、外の世界の家具が並べられていた。『所狭し』とまで言うと言い過ぎだけれど、必要十分以上に並べられているのは間違いがなかった。
 外の世界への憧れが強かった私は、とにかくその空気感のようなモノを感じたくって、取りあえず家具を色々と取り揃えてみたかったのだ。
 タンス(中身は全部同じ被験体服)、本棚(何冊かだけの本がその内容物)、カラーボックス(崩れそうだけれど崩れないバランスで積み上げてある)、大きな姿鏡(そう、鏡の使用を許可されるようになった!)、テレビ(ただし映らない)、冷蔵庫(何も入ってない)、食器棚(多少は食器がある)、ぼんやりと明るい(まるでトイのぼんくらさを連想させるような)間接照明もいくつかムダに吊り下げてあった。
 ベッドも大きめのサイズのモノが二つ置いてある。
 まぁ、[muds]って眠らないらしいんだけれどね。
 今も私はベッドにうつ伏せに寝転がっているんだけれど、『トイ』はその傍らに立っている。
 寝ている時にも、ずっとこちらをほぼ無表情で見つめているワケだから、最初は気恥ずかしかったり、夜中に起きてしまった時は不気味だったりしたものだが――もう慣れた。
 どうやら、やっぱり私は『トイ』を――[muds]を、視覚的、触覚的に人間と同様に見えるとはいえ、人間とは別モノと捉えているのだろう。
 コミュニケーションができない、というのが案外大きいだろうか。
 私の能力が、これ以上進むようなことがもしあれば――[muds]と話すことももしかしたら可能になるかもしれないが。
 今のところは、死人と同じ風体をした生きた人形、という域を出ない気がする。
 ともあれ、それとずっと一緒に暮らしているんだから、感情移入は……するけれど。
 私は、『トイ』がいる側とは別の方に顔を向けて、『仕事』をする度に思い出す、二人目の客のことを思った。

 その客は、その他の多くの客とは違って、太った外見をしていなかった。
 逆に極端に痩せており、枯れ木のような身体をしていた。
 栄養失調を疑うくらいの、生きているのがどこか不思議であるかのような、そんな生気のなさを感じた。
 生きながらにして、死を纏っている。
 その印象は、何も彼女が全身を黒衣で覆っているから、生じたというワケではないのは明らかだった。存在自体から発する空気感のようなモノなのだ。
 どこか初めて見た瞬間から私は、『この人ほど、[muds]が相応しい人間はいないだろうな』と感じていた。
 その姿から、死を連想するからだろうか。
 いや、結果から言えば、彼女が死人を人生を賭するほどに求めていたからだろう。
 彼女は言った。
「どれだけお金があっても――何の意味もない。
 お金でもできないことはある。お金にはできないことの方が多いわ。
 どんなにお金を集めても、どれだけ身を削るように仕事をしても、ただただ虚しいだけだった。
 私は一目、彼に逢いたい。
 それができるなら、すべてを捨てても、構わない」
 断言した。
 私はそれに圧倒されるように、何の応答もすることもなく、すぐさま[muds]を『紐付け』した。
 その時、[muds]が震えたような気がしたのだ。それがなぜなのかは、私にもわからない。
 怯え? ――いや、歓喜、だろうか。
 [muds]に、そんな感情めいたモノがあるかどうかなんて、わからないけれど……。
 そして、[muds]が像を形成した瞬間の、女性の表情を私は忘れられない。
 彼女の表情は、一瞬、虚無に堕ちた。
 一目でわかった。
 [muds]は彼女の期待に応えられるものではなかったのだ。
 急激な罪悪感のようなモノに襲われ、床に手をついてでも謝罪をすべきだという衝動に私は襲われた。
 しかし、その次の瞬間、彼女はボロボロと涙を零していた。
「――あなたに、会いたかったっ」
 人間というのは、これだけ僅かな時の間に、感情を凝縮できるのかというほどに。
 彼女は諦め、嘆き、喜んだ。
 感涙し、くるくると踊り、その場に崩折れた。
 それは狂人のような振る舞いにも見えたかもしれない。
 しかし、そう感じた人間は、人間的な情や想像力がないと言っていい。
 施設の職員は目を背けていたから、きっと非人間的人間なんだろうな。
 私は――その女性に、はっきりとした好感を抱いた。
 すぐさま女性は、[muds]を連れて、階段を駆け降りてしまった。
 会っていたのは実際、大した時間の長さではなかっただろう。
 けれど、その短い時間が、私の人生の中でも色濃い情景を、胸に刻んでいた。
 彼女を追う[muds]の挙動が、駆け下りる彼女に合わせるように機敏だったのが、なんだか印象的だった。

 私には、あれだけの想いを抱ける相手が、人生の内で見つかるだろうか?
 かなり難しいと言わざるを得ないだろう……少なくとも、トイとはあれだけの情を築き上げたとは到底言えない。
 積み重ねた時間なのか……それとも、自分で選択して出会った相手ではない、ということが大きいのか。
 どっちにしろ、もうトイとの時間は積み重ねられない。
『トイ』との時間は、トイと過ごすのとは、また別物だから。

「それにしても、環境は良くなったとはいえ、自由とは言えないわよね~」
 私は切なくなってしまった気持ちを誤魔化すように、わざと呑気さを装って、そんな独り言を言ってみる。
 背中の方の『トイ』に話しかけたようなシチュエーションではあるが、どうせ返答はない。
 私の元に来るお金持ちの客達は、きっと『自由』なんだろう。
 多分、私はお金持ちというのを、投資か何かで儲けるとか、資産があるとかで、『働く必要が基本的にない』人だとみなしていた。
 普通、外の世界では生きていくのにお金が必要だそうで、だからこそ賃金を得る労働が必要になる。
 しかし、資産があれば働く必要がない。
 労働しなくても生きていくことができる。
 正確に言えば、働くことも働くことも自由に『選択』できる――何でも自分の好きなようにできる。
 それが私のイメージする『自由』である。
 まぁ、世間知らずの私のことですから、これは子供の空想に近いお金持ち像なんでしょうけれどね。
 ともかく、私の定義の中では、今の私は自由ではないのだった――所詮は狭い籠の鳥だ。
 施設の職員に、仕事のタイミングも管理されて。
 今も自由には出られない、ちょっと広い部屋の中。
『トイ』と一緒に――二人きりだけ。

 そして、その時。
 声が聞こえた。
 耳の鼓膜を震わせてではない――頭の中に、自分の思考と交じるように。
 しかし、確実に、自分のモノとは区別できるカタチで。

「――自由」

 その言葉の意味を確かめるように、ポツリと呟いた声は、続けてこう言った。
 トイの声でこう言った。
「『自由』。その言葉の定義は難しいけれど、君の心は自由だよ、ソギ。
 今でもきっと――そう信じれば、君の心は自由なんだ」
 私は驚愕の中で――どうして今まで、応えてくれなかったということに憤りを覚えた。
 ホントに――本当に、『気に入らない』ヤツだ――

「……『トイ』? 『トイ』なの?」

「そうだね――君がそう呼ぶのなら。
……僕は、『トイ』だ。
僕が、『トイ』だよ」