南イタリア回想録 ☆ 新ローマ法王フランチェスコと800人の殉教者達 @オトラント(ソレント)
こんばんは☆
骸骨や残酷なお話など、苦手な方は
こちらでお止め下さい
さて、今年の2月アレパパが連れて行ってくれたソレント半島の町
otranto(オトラント)...
こんなに具合が悪くなったのは超久し振り!と言うくらいに
本当に具合が悪く
残念ながら、現地で治る気配もなく
辛うじて、初日の夜は中を拝見したかったカテドラルの
正面までは、お散歩で行けましたが...
翌日は寝たきりで、参拝する事は出来ませんでした
こちらのカテドラルには
床のモザイク装飾が有名な他
martiri di otranto(マルティーリ・ディ・オトラント)
オトラントの殉教者達と呼ばれる方々が祀られています
特に野蛮な殺され方をされてしまったのは
死を持って信仰を貫く様に即した
高齢の大司教ステファノ・ペンディネッリでした。
大司教の身体や頭部は、新月刀でバラバラにされ
兵士は頭部を槍に突き刺し、町の通りを通ったそうで
またオトラントの隊長は生き裂かれたとか...
8月14日、アフメット・パシャは
生存者約800人を縛らさせ
ミネルバの丘の近くで斬首する為に
彼らを無理矢理連れて行かせました。
処刑される者の親戚達は
処刑に強制的に立ち会わさせたそうで
最初に斬首された人はアントニオ・プリマルドという
オトラント人達の長でした。
言い伝えによると、断頭された後の彼の身体は
オトラント人の最後の殉教が終るまで
死刑執行人達がの努力して倒そうとしても
直立したままだったそうです。。。
さて、宗教やイエスの為に亡くなった者達は
殉教者と呼ばれ
認められれば、聖人になる事もあるのです...
こんなに大勢の殉教者達も
1人1人に聖◯◯と名前は無いですが
例えば、イエスが生まれて間もなく
ヘロデ王に「幼子は皆殺せ」と殺されてしまった
子供達は最初の殉教者達とされている様に
オトラントの虐殺された彼らも
聖人にいつかなるのかなぁ...と思っておりましたら
先日5月12日の聖人を認定する聖列式で
新ローマ法王フランチェスコにより
オトラントの殉教者達は聖人となりました。
オトラントは小さな町で
夫アレさんは「1度行けば十分だよ」と言っていますが
alexは、一瞬でも良いので
また行かないと、気が済まなくなりました...
オトラントの旅行記は
ブログテーマ『イタリア国内旅行(puglia)』 ☞ こちら
イエスの為に虐殺されてしまった子供達のお話は
『幼児大虐殺の日』 ☞ こちら
骸骨や残酷なお話など、苦手な方は
こちらでお止め下さい
さて、今年の2月アレパパが連れて行ってくれたソレント半島の町
otranto(オトラント)...
こんなに具合が悪くなったのは超久し振り!と言うくらいに
本当に具合が悪く
残念ながら、現地で治る気配もなく
辛うじて、初日の夜は中を拝見したかったカテドラルの
正面までは、お散歩で行けましたが...
翌日は寝たきりで、参拝する事は出来ませんでした
こちらのカテドラルには
床のモザイク装飾が有名な他
martiri di otranto(マルティーリ・ディ・オトラント)
オトラントの殉教者達と呼ばれる方々が祀られています
何故にそんなにも殉教者達が出てしまったかと言いますと...
1480年7月28日、約18,000人もの兵士達を乗せた
90隻のガレー船、40隻の小型ガレー船と
1480年7月28日、約18,000人もの兵士達を乗せた
90隻のガレー船、40隻の小型ガレー船と
他の船を合せ約150隻...
アルバニアのヴロラという町から
当時オスマントルコ帝国の皇帝、メフメト2世の海軍が
オトラントの城下に現れたのです
メフィト2世
オトラントは、精力的に攻撃に抵抗しましたが
当時、人口たった6000人のこの町の住民達は
もはや爆撃には対向出来ませんでした。
現に翌日の29日には
オスマントルコ帝国のモノになっても仕方がないと
守備兵も住民達もオトラントの町を放棄しましたが
オスマントルコ側の政治家
ジェディク・アフメット・パシャが降伏するかと訪ねた所
オトラントはそれを拒否...
その為にオスマントルコの砲兵は、砲撃再開
攻撃開始からの15日後の8月11日
アフメット・パシャは
防御を突破して城を征服する様、最終攻撃を命じ
アルバニアのヴロラという町から
当時オスマントルコ帝国の皇帝、メフメト2世の海軍が
オトラントの城下に現れたのです
メフィト2世
オトラントは、精力的に攻撃に抵抗しましたが
当時、人口たった6000人のこの町の住民達は
もはや爆撃には対向出来ませんでした。
現に翌日の29日には
オスマントルコ帝国のモノになっても仕方がないと
守備兵も住民達もオトラントの町を放棄しましたが
オスマントルコ側の政治家
ジェディク・アフメット・パシャが降伏するかと訪ねた所
オトラントはそれを拒否...
その為にオスマントルコの砲兵は、砲撃再開
攻撃開始からの15日後の8月11日
アフメット・パシャは
防御を突破して城を征服する様、最終攻撃を命じ
女性や子供達は奴隷にされながら
15歳以上の全ての男性が殺されました。
いくつかの歴史研究によると
オトラント周辺のサレント半島の他の地域の犠牲者も含めて
死者は約12000人出たそうで
約5000人もの人が奴隷にされてしまったとか...
それでも尚、悲劇はまだ続きます...
15歳以上の全ての男性が殺されました。
いくつかの歴史研究によると
オトラント周辺のサレント半島の他の地域の犠牲者も含めて
死者は約12000人出たそうで
約5000人もの人が奴隷にされてしまったとか...
それでも尚、悲劇はまだ続きます...
生存者と聖職者はステファノ・ペンディネッリ大司教と共に
祈る為にカテドラルに避難
アフメット・パシャは
彼らにキリスト教の信仰を放棄するよう命じましたが
彼らはたじろぎもせず、それを拒否。
アフメット・パシャは彼の軍と
カテドラルを突破し、生存者達と聖職者達を捕獲。
彼らは全て殺され、建物は教会であるのに
軽蔑の印として、厩にされたとか...
祈る為にカテドラルに避難
アフメット・パシャは
彼らにキリスト教の信仰を放棄するよう命じましたが
彼らはたじろぎもせず、それを拒否。
アフメット・パシャは彼の軍と
カテドラルを突破し、生存者達と聖職者達を捕獲。
彼らは全て殺され、建物は教会であるのに
軽蔑の印として、厩にされたとか...
特に野蛮な殺され方をされてしまったのは
死を持って信仰を貫く様に即した
高齢の大司教ステファノ・ペンディネッリでした。
大司教の身体や頭部は、新月刀でバラバラにされ
兵士は頭部を槍に突き刺し、町の通りを通ったそうで
またオトラントの隊長は生き裂かれたとか...
8月14日、アフメット・パシャは
生存者約800人を縛らさせ
ミネルバの丘の近くで斬首する為に
彼らを無理矢理連れて行かせました。
処刑される者の親戚達は
処刑に強制的に立ち会わさせたそうで
最初に斬首された人はアントニオ・プリマルドという
オトラント人達の長でした。
言い伝えによると、断頭された後の彼の身体は
オトラント人の最後の殉教が終るまで
死刑執行人達がの努力して倒そうとしても
直立したままだったそうです。。。
さて、宗教やイエスの為に亡くなった者達は
殉教者と呼ばれ
認められれば、聖人になる事もあるのです...
こんなに大勢の殉教者達も
1人1人に聖◯◯と名前は無いですが
例えば、イエスが生まれて間もなく
ヘロデ王に「幼子は皆殺せ」と殺されてしまった
子供達は最初の殉教者達とされている様に
オトラントの虐殺された彼らも
聖人にいつかなるのかなぁ...と思っておりましたら
先日5月12日の聖人を認定する聖列式で
新ローマ法王フランチェスコにより
オトラントの殉教者達は聖人となりました。
オトラントは小さな町で
夫アレさんは「1度行けば十分だよ」と言っていますが
alexは、一瞬でも良いので
また行かないと、気が済まなくなりました...
オトラントの旅行記は
ブログテーマ『イタリア国内旅行(puglia)』 ☞ こちら
イエスの為に虐殺されてしまった子供達のお話は
『幼児大虐殺の日』 ☞ こちら
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