こちらへも投稿
今年の夏
ご招待旅行で柏崎に一泊しました。
ちょうど番神堂の裏にあるとあるホテル(すぐわかっちゃうか)
ここから眺められる刈羽柏崎原発はきれいでした。(苦笑)
むかし作業員としてずいぶん通ったところなのでなつかしく思いました。
で番神堂といえば日蓮さんが佐渡から流れ着いた場所(本当は別の場所を目指したが)
日蓮さんと言えば、日蓮宗(当たり前だのクラッカー)
そに日蓮宗から連想するのが創価学会という事は凡人のボクには当然の連想
ところが、下記の記事を昔とりこんでいたのをきょう見付けたので
モッタイナイので(モッタイナイ教信者だから)
よく岡田茂吉師の医学論を紹介しているボクとしては、いちおう関連性があるのだ。
まあ、くっつければどうにもなるのだが。
大本と言えばいろいろな宗教家を輩出
岡田茂吉もだが、成長の家の教祖さんやその他たくさんゾロゾロと・・
かたや日蓮さんの系統もゾロゾロと・・・
なんだかゾロゾロと書くとゴキブリ扱いしていると批判を浴びるのが怖いので
たくさん、たくさんでて来ました
と改訂。
そんな事はとにかく、この記事は非ジョーに面白いと思ったのは
みんな、みんな,ゾロゾロと繋がっているんだなあ~~
と妙に感心してしまったのだ。
それにしても越後は面白い土地である。
日本の本州の縮図的地形でもあるし
東北、中部、信越、北陸・・・・いろんな分野でお仲間にもなるし、
そうでなくもある。
しかも全国天気予報を暴NHKで見ていると
どうもこの権だけは他所と違う事が多いのである。
やっぱ、越後は変わっている
そこに産まれて住んでるボクも変わっているのは当たり前だのクラッカー
転載の前にお詫び
この記事は現在つかわれておりません。
したがって、無許可転載です。
記事の真偽はもちろん!このブログと同様「セルフサービス」で
呑むも良し、呑まないもよし。
当店では強制的な飲酒を控えさせて戴いています。
下記の強調文字や色つき背景はボクの仕業です↓
ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
新潟県柏崎市と言えば・・・
新潟県柏崎市(正確には柏崎市刈羽郡荒濱村)と言えば創価学会の初代会長、牧口常三郎の出生地だが、この常三郎とココでは何かと話題に挙がった京都の大本の上田喜三郎(後の出口王仁三郎聖師)が腹違いの兄弟だという説がある。(w
テレビで地震で崩壊してた立派な寺の映像を見たんだけど
あれって何ていう寺かな?知ってる人がいたら教えてくださいまし。(w
◆ とくダネ!
新潟地震「なぜ、もう勘弁して!」
2007/7/17 コメント トラックバック
台風の直撃を免れたと思ったとたん大地震。「とんだ3連休になってしまいました」と小倉キャスターの第1声で、新潟中越沖地震(マグネチュード6・8)を1時間10分にわたり特集した。
今朝7月17日午前8時の時点で、最も被害の大きかった柏崎市、刈羽郡刈羽村を中心に死者9人、行方不明1人、けが人903人、家屋の全半壊307戸。
番
組は、リポーターの緒方昭一、大村正樹などが柏崎市に入り被災地をルポしたが、映像を見ていると、ペチャンコに潰れた家は古い瓦屋根の家屋が目立つ。その
下敷きになって亡くなられた方は70歳以上の高齢者ばかり。道路がいたるところで寸断され、JR信越線の柏崎駅ホームには脱線した車両も。
43年前の1964年の新潟地震(M7・6)を体験した新潟出身の歌手、小林幸子さんが「なぜ、もう勘弁して!」と悲鳴を上げたという。ここ3年内に、04年10月23日の中越地震(M6・8)、今年3月25日の能登半島地震(M6・9)、そして今回の3回目だ。
溝
上恵東大名誉教授によると、頻発する地震の共通点は、北陸から佐渡沖の海底に潜む活動中の地層の割れ目「活断層」にあるという。ユーラシアプレート、北米
プレート、太平洋プレート、フィリピンプレートの4つのプレートが押し合いへしあい、限界に来てこの地域の活断層にひずみができたとか。
ここらは海岸線に並行していくつもの活断層があるが、今回は断層の左右が上下に動いた直下型の逆断層地震という。
一
方、地震のメッカである東京電力の柏崎刈羽原発の6号機で使用済み燃料プールの水があふれ、施設内の排水溝を通じて海に流出した。3号機の建屋の脇の変圧
器で火災も発生した。作家の室井佑月は「東電は想定外だったとしているが、もっと最悪の想定をしておくべきでは?」と批判した。
番組最後に、小倉が「取材は強力でしょ。どういう方法で入ったのか不思議だが、6班入った」。これに応えて前田忠明も「バッと集中して投入する機動力はありますね」と"自画自賛"のきらいはなくもないが、大事件が発生した時の取材瞬発力は認める。
http://www.j-cast.com/tv/2007/07/17009369.html
そう言えば朝鮮総連偽装売買問題と後藤銀行関連のVIVID東京の深沢サロン界隈で名前が挙がった世界救世教の岡田茂吉も元は大本だな・・・(爆w
第5回 大日本皇道立教会
■偽物
昭和20年(1945年)――終戦の年の秋、10月14日。
北朝鮮平壌市営運動場に集まった多数の群衆の前に、ソ連軍当局に伴われて金日成が現われた。抗日戦の英雄・金日成将軍をひと目見ようと集まった群衆たちは、その姿を見てざわめいた。
「あれは偽物じゃないか!」
伝説の英雄・金日成将軍といえば80歳を過ぎた白髪の老人のはずなのに、現れたのは髪を短く刈った33歳の背広姿の青年だったのだ。
じつは金日成という伝説上の将軍は昭和初期に活躍した人物で、生きていれば相当な老人だ。だがもう一人、昭和初期に活躍した金日成という男がいる。こちら
は夜盗のリーダーで、捕まって死刑を宣告されている(その後逃亡)。また、抗日戦で金日成と名乗る青年がいたことも確かだ。だが金日成青年による抗日戦の
話も、どうも辻褄が合わないところがある。大東亜戦前に日本軍襲撃事件が2カ所で同時に起きているのだが、遠く離れた2カ所に金日成が現れて日本軍を襲撃
したというのだ。これは大将軍・金日成が「縮地術(地面を縮める術)」を使ってなし遂げた偉業と説明されている。
また当時、抗日ゲリラ
戦を行う者はしばしば偽名を使っていた。本名で活動してバレてしまえばそこまで。本物の活動家であれば偽名を通すことが当然。それは悪いことではなく、英
雄的行為につながるものだとの認識もあった。金聖柱が「金日成将軍」となっても問題がないとうい下地があったと考えても良い。
さらに――。
情報が豊富な都市部ではなく、噂話しか流布されない地方では、金日成将軍が若返ろうが別人であろうが、噂が勝手に成長し巨大化していくのだ。
江戸幕府の支配する文政(1818潤オ1830年間)の頃、青森県下北郡大畑に槇玄範という医者がいた。
槇家は代々、この地で医業を営んでいる名家だった。だが、文政年間に活躍した槇玄範は非常な変わり者だった。上等な着物を着て外出する。たまたま出会った
ぼろ着をまとった旅人と着物を交換して悦にいるとか、貧乏人に大金をポンと投げ出すとか、かと思えば平気で借金をして返さないとか、まあ奇人変人の類だっ
た。しかもこの医者、ついには医業を放り出し、画家になるといって放浪の旅に出てしまった。それでも薬の調合だけは見事にできたらしい。旅の先々で薬を調
合しては旅費としていたと伝えられる。
さて。時代は変わって明治の初期。青森県下北郡大畑に槇玄範という医者がいた。この槇玄範、いささか変わり者で、着ていた着物を他人と代えてしまうとか、何日間も行方知らずになってしまうとか……。そして医者の癖になぜか絵を描くことが大好きだったという。
槇玄範の偽物である。
いや、偽物というと語弊が生じる。2代目・槇玄範とでも言うべきか、あるいは別人・槇玄範と言うべきなのかもしれない。とにかく下北郡大畑には50年くら
いの時代を越えて二人の槇玄範が存在した。金日成が何人か存在したのと変わりはない。そして恐らく――調べようがないのだが恐らく、二人の槇玄範の言行が
相乗効果のように膨らみ、正体不明の不可思議な人物像を今日に伝えているのだろう。
だがこの2代目・槇玄範には別の名があった。別の名というのもおかしい。本当の名だ。その名を上田吉松という。
上田吉松のいちばん上の子が上田キ一郎(喜一郎)。の3番目の子が上田キ三郎(上田喜三郎)。キ三郎はその後、出口家に婿養子となり、出口王仁三郎と名乗るようになった人物である。
上田吉松は大阪で笹川良一をつくった後、青森県下北郡に流れて槇玄範を名乗ったのである。
この物語を考えるときに、頭に入れておく必要がある「流れ」がある。京都府亀岡から大阪へ、そして青森県下北郡へと旅をした道筋だ。明確に言うなら、亀岡
と東北を結ぶ日本海側ルートの問題である。遥か古代から連綿と、原日本人がもっていた東北と畿内との回路を想起してほしい。そしてもう一つ。上田一族のこ
とだ。
■常三郎とキ三郎
上田キ一郎、上田キ三郎の父・上田吉松。本紙『謎学の旅』に何度となく登場している皇道神秘主
義の巨人。上田吉松は一般的には9人の子をつくったとされる。だがほんとうは9人どころではなかった。――英雄、色を好む。流石に皇道神秘主義の巨人だと
感心しても良いのだが、どうやら上田吉松には何らかの目的があったようだ。目的があったからこそ、吉松は一生懸命に子供をつくった。
また上田吉松は放浪癖があったとされるが、その放浪先は亀岡、京都市、大阪市から金沢、糸魚川、柏崎、新潟、酒田、秋田、青森だった。
明治4年(1871年)7月12日、京都府亀岡で上田吉松の3男・上田キ三郎が誕生した。これより1カ月以上も前の明治4年6月6日に、新潟県柏崎市(柏崎県刈羽郡荒濱村)で双子の兄弟が誕生している。弟のほうは後の牧口常三郎。創価学会の初代会長だ。常三郎、キ三郎の二人――創価学会の初代会長と大本教の巨人は、腹違いの兄弟だったと考えられるのだ。
そんなバカな話があるか! と叱られそうだ。この辺りを検討してみよう。
牧口常三郎の戸籍上の父は渡邊長松。母はイ子(いね)。幼名・長七、後の常三郎は7歳のときに叔母(長松の妹)の嫁ぎ先である牧口善太夫の家に養子に出されている。
養子に出された理由は、「父親不明のため」。
――実は、漁師として漁船に乗ることが多かった父・渡邊長松は、常三郎(長七)が生まれるずっと前から行方不明になっており、常三郎を生んだ直後に、イ子は行方不明の亭主と離婚している。つまり常三郎の本当の父は、戸籍からは把握することができない。
牧口常三郎の本当の父は上田吉松なのではないかという噂は、初めから存在していた。イ子の亭主は行方不明であり、そのイ子と上田吉松が非常に親しい間柄
で、二人でいるところをたびたび目撃されているからだ。――DNA鑑定など行われたわけではない。あくまでも噂でしかない。
牧口常三郎(長七)は14歳のときに北海道の小樽に向かっている。
彼が生まれた柏崎県刈羽郡荒濱村(現新潟県柏崎市)は漁業を生業とする者がほとんどで、牧口家でも魚網を作っていたがあまり芳しくない。荒濱村は江戸時代
以前から日本海を行き来する中継地であり、松前藩ともつながりがあった。開拓盛んな新天地・北海道に行けば何とか食べていけるかもしれない――そう考えた
長七(常三郎)は明治18年(1885年)に小樽に向かった。14歳のことである。
当時、北海道最大の都市だった小樽で、長七(常三
郎)はまず小樽警察署の給仕になり必死で働いた。勤勉で真面目な努力家であった長七は小樽警察署長(兼小樽郡長)から認められ、4年後の明治22年
(1889年)に北海道尋常師範学校へ入学することになる。さらに4年後には、師範学校の生徒でありながら同時に付属小学校のクラスを担任することにな
り、名を常三郎と変えている。
尋常師範学校を卒業し、明治29年(1896年)に文部省検定試験に合格した常三郎は、28歳の若さで北
海道尋常師範学校付属小学校の主事事務取扱(校長)に就任する。そして時代が20世紀に入った年――明治34年(1901年)に31歳の常三郎は、妻
(24歳)、子供(4歳と3歳)を連れて上京する。そして明治42年(1909年)から昭和7年(1932年)までの約24年間、東京の各小学校の校長を
歴任している。
この間、明治43年には文部省嘱託として地理教科書の編纂に従事していた常三郎は、新渡戸稲造や柳田國男などと親交を深めている。さらに大正9年(1920年)に東京の西町尋常小学校校長だった当時49歳の常三郎は、20歳だった戸田甚一と出会っている。戸田甚一は常三郎に見込まれて西町尋常小学校の臨時代理教員に採用されたことになっているが、ここに不思議なつながりが見えてくる。
戸田甚一。後に戸田城外、さらに戸田城聖と名を変え、創価学会第2代目の会長になったこの人物。父の名を逸見十郎太という。
父・逸見十郎太は、明治4年(1871年)6月6日に、新潟県柏崎市(柏崎県刈羽郡荒濱村)で生まれている。戸籍上の父の名は渡邊長松。母はイ子(いね)。双子の兄として生まれた逸見十郎太は、7歳のときに石川県の逸見家に養子に出されていた。
牧口常三郎の甥こそが戸田城聖だったのだ。
ここで多少脇道 に逸れる。
創価学会3代目会長の池田大作の幼名は太作。
初代会長の双子の 兄の名は十郎太。この「太」は穴太に以来すると考えて間違いないだろう。京都府亀岡市にある穴太寺は西国第21番札所として知られる
が、この院主の姓は代々「穴穂」である。穴太寺には安壽姫と槌世丸(厨子王)の守り本尊だった6センチほどの黄金像が祀られている。ご本尊は運慶作の1
メートル像。
■法難
牧口常三郎は明治34年(1901年)、31歳のときに上京している。常三郎は上京から27年後の昭和3年(1928年)6月、57歳になった直後に日蓮正宗に入信。その秋には戸田甚一も日蓮正宗に入信している。
さらに2年後の昭和5年(1930年)11月18日、牧口常三郎は『創価教育学体系』全5巻の第1巻を刊行している。この刊行を以て「創価学会の創設」と
され、学会では今でもこの日を創立記念日にしている。ちなみに『創価教育学体系』全5巻は、2巻しか刊行されていない。
牧口常三郎が著
した『創価教育学体系』第2巻目に有名な「価値論」がある。この「価値論」のお陰で、常三郎を折伏した日蓮正宗・三谷素啓と絶縁。その後、常三郎は、中野
の日蓮正宗65世・日淳上人(堀米泰栄)のところで信仰に励む。だが常三郎が在家信者「創価学会」の設立を求めた頃から上人とも対立するようになる。こう
した対立の後に、昭和12年(1937年)、東京・麻布の菊水亭で「創価教育学会」の発会式が行われた。「創価学会」ではなく、創価教育を進める会としての出発だった。
その後、戦時下の昭和18年(1943年)7月に牧口常三郎は、治安維持法違反、並びに不敬罪容疑で逮捕、投獄され、翌昭和19年11月18日に獄中で死亡している。
創価学会では牧口常三郎(他計21名も含む)の逮捕は、国家神道を精神的支柱として戦争を遂行しようとする軍部政府による思想統制、さらには皇大神宮の神札をまつるようにとの勧告に対する圧力と考えている。
また一部には、彼らの逮捕は、創価学会の前身であった「大日本皇道立教会」が南朝系天皇を奉る団体であったため弾圧されたとの説も流されている。
「大日本皇道立教会」についてはすでに『謎学の旅』第3回「天誅組」の最後のほうで触れているので是非読みなおしていただきたい。この団体が南朝系だった
との説は、正直なところ疑問だらけで、どうしてそんな推測が出来上がったかは不明だ。ただ、もし仮に「大日本皇道立教会」が南朝系だったとして、なぜ「創
価教育学会」のメンバーだけが逮捕され、秋月左都夫(皇道立教会副会頭・読売新聞社長)や児玉誉士夫は逮捕されなかったのか?
――まあ、正直なところ、推測をすることは自由だし、奇妙な推測がやがてとんでもない正解にたどり着くことだってある。この程度の推測なら、目鯨たてて非難することもないのかもしれない。
なぜ牧口常三郎以下が逮捕、投獄されたのか。それは軍部政府による思想統制以外の何ものでもなかった。
これを事実と認めたうえで、創価学会の前身とされる「大日本皇道立教会」について考えてみたい。だが、その前に、創価学会理事長(後の第2代会長)戸田城外(城聖)が書いた文書をここに記しておく。じっくり、心に留めてお読みいただきたい。
「一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り皇祖天照大神、皇祖神武天皇、肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すること。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱わざる様、敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること。」
■大日本皇道立教会
『大日本皇道立教会』の創設は大正元年(1911年/正式届け出は大正3年)のこと。その初代会長は中山忠英だった。中山忠英とは、天誅組首謀者・中山忠光の忘れ形見である。再度になるがここに「大日本皇道立教会設立発起人」の名を列挙してみる。
大隈重信(総理大臣)
二条基弘(公爵・貴族院議員)
土屋光春(男爵 陸軍大将)
大炊御門幾麿(侯爵・貴族院議員)
一木喜徳郎(文部大臣)
安楽兼道(警視総監)
黒田清綱(子爵・御歌所所長)
大迫尚敏(子爵・ 陸軍大将)
渡辺千秋(伯爵・宮内大臣)
花山院親家(侯爵・従四位)
服部一三(兵庫県知事)
姉小路良子(権典侍)
北小路随光(子爵・掌典長)
難波宗美(蹴鞠家元)
大久保利武(大阪府知事)
伊知地幸介(男爵・陸軍中将)
中山忠英が「大日本皇道立教会」の会長になったのは、彼が52歳(53歳説あり)のときだった。そして会長の下に会頭と副会頭を置いている。
ちなみに初代会頭は土方久元・宮内大臣、83歳。副会頭は千家尊福・出雲大社宮司、73歳。
ここで疑問が生まれなかったらおかしい。
日本中の有名人を集合させた「大日本皇道立教会設立発起人」名簿。
そして、会頭・副会頭として83歳の長老・宮内大臣に73歳の出雲大社宮司。
彼らを押し退けて、名も地位もない中山忠英が、なぜトップの座に就いたのか?
しかも「大日本皇道立教会」は、中山忠英以降、中山忠英以外には誰も会長の座に就くことがなかった。「大日本皇道立教会会長」というポストは、中山忠英だけのために用意されたものだったのだ。
忠英が会長を退いた後の、大日本皇道立教会会頭、副会頭の名を以下にあげておく。
2代目会頭 四条隆愛(従二位勲三等)
2代目副会頭 三嶋弥太郎(子爵・正三位勲一等)
3代目会頭 四条隆徳(侯爵・正四位勲四等)
3代目副会頭 秋月左都夫(正三位勲一等)
まだご理解いただけないだろうか?
――この国の本質に関わる大問題がここに潜んでいる。その深奥を、まだご理解いただけないだろうか?
以下に「大日本皇道立教会」設立当初の「綱領」を記しておく。熟読を期待する。
・『大日本皇道立教会』綱領要約
「我が国體は皇祖皇宗一系の連綿たる伝統に導かれ、君・臣・民(キミ、オミ、タミ)三身の関係で成る構造は世界の諸国と趣を異にする。以て忠孝を学び、以て尊皇愛国の精神を振興すべきであり、その働きが本会の目的である。」
戸田城聖が書いた創価教育学会の趣意書を再度以下に記す。
「一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り皇祖天照大神、皇祖神武天皇、肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すること。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱わざる様、敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること。」
※いよいよ謎の本質に迫ってきたようにも思える。
だが、謎の本質はもっと奥にある。
原初の創価学会が求めたものは、絶対に別な次元にあったはずだ。
創価学会初代会長・牧口常三郎は、その人生において永遠に真摯な求道者だった。彼は東京に来て以来ずっと教育の現場にいたが、そのなかにかなりの数の特殊
学校が存在していた。非差別や同和といった地位も力もある場所にいたわけではない。皮膚病やトラホーム(眼病)を患って虐げられていた、一段と差別されて
いた人々のところに牧口常三郎はいたのだ。
そうした彼の存在と、「創価教育体系」とはどんなつながりがあるのか? ――つながりなど皆無なのだ。つながっていたのは逸 見十郎太だけである。
戦後間もない昭和23年(1948年)に、東京大学名誉教授・江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝説」を提出した。――東北アジアを席巻していた騎馬民族集団
が紀元4世紀頃、朝鮮半島の南端から九州へと渡来し、ついに西日本一帯から邪馬台国を初めとする倭国を滅ぼし、畿内に攻め上がって大和王朝を建立する
――。
当初、デタラメだらけのこの仮説は、仮想理論があちこちで破綻するいっぽう、戦後相次いだ考古学上の発見がこの説を支持する方向に向かった。
この事実は、「万世一系」の皇譜に疑問符を投げかける――どころの問題ではない。
だが同時に、愛国者といわれる人々も偏狭な右翼と呼ばれる人々も、いよいよ真剣に真摯な立場から真実を見つめなければならない立場に立ったと言って良いだろう。
神武天皇とは何者だったのか。そして第10代・崇神天皇とは何で、第15代・応神天皇までの間に何があったのか? いや、もっと根源的には、神武の前のウガヤフキアエズ朝とはそもそも何なのか?
「大日本皇道立教会」とは、その根源的な問題に対する回答を求めた団体だったのではないのか?
謎は、まだ謎のままである。
そして――この不定期連載の最後の答えを今のうちに言っておく必要があると考え、ここに答えを示しておく。
回答者は、唯一、あなただけである。■
TITLE:
DATE:2009/11/10 21:47
URL:http://antikimchi.seesaa.net/article/48126323.html
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
上記のURLは消滅しています
勝手に転載して申し訳ありません。謝々
追記
ネット上に見られないので再登録
再追記
そういえば、途中で異常気性になった元所属の会長さん
二代目戸田さんと剣道で練習相手になったという。
会長さんの方が強くてポカポカやっていたと自慢してたなあ
日蓮さんの系譜と大本の系譜が奥の奥で繋がっていたというのは
ほんと、シナリオ書いている奴の顔が見たい!
あ、コワ~~~い
からやめとこ。