根岸英一氏ノーベル賞受賞記念シンポジウム | Akucchanが世界をゆく

根岸英一氏ノーベル賞受賞記念シンポジウム

 去る7月13日、日経新聞が主催する、根岸英一パデュー大学特別教授のノーベル賞シンポジウムに参加してきました。クロスカップリング反応という有機物質の合成法でノーベル化学賞を授与された、根岸教授による講演と、日本の新しい産業を生み出すために必要なことを考えるパネルディスカッションの2本立ての構成。3時間たっぷりと充実したお話を聞くことができました。ちょっと遅くなってしまったのですが、レポートします。

【概要】

「化学の未来 ~ノーベル賞シンポジウム~ 化学が創り出す新産業革命」
日時:2011年7月13日(水)13:30~16:30
場所:経団連会館 国際会議場
プログラム:
第1部 基調講演「人生も世界も化学で変わる」
     根岸英一氏(米国パデュー大学特別教授)
第2部 パネル討論「5つのCで新産業創造を」
     (パネリスト)
     根岸英一氏(米国パデュー大学特別教授)
     北澤宏一氏(科学技術振興機構 理事長)
     柴崎正勝氏(微生物化学研究会 常務理事)
     (司会)
     永田好生氏(日本経済新聞社 科学技術部編集委員)
http://www.nikkei-events.jp/nobel/


【第1部】 基調講演「人生も世界も化学で変わる」

 根岸氏がノーベル化学賞を受賞するに至る人生の歩みと、その経験を元に将来の化学はどのような可能性があるのかが語られました。1時間と長めの時間が設けられていましたが、内容が面白かったので、とても短く感じられたほどです。

・ イントロダクション クロスカップリング反応について (高橋保氏(北海道大学教授))
  根岸氏の講演に先立って、高橋氏からクロスカップリング反応について、ビデオ映像を使った説明が行われました。パラジウムという金属を触媒として使うことで、従来では成しえなかった有機物質の合成に成功したことが、非常にわかりやすく解説されました。

・有機化学の研究のはじめ
  少年時代、根岸氏はラジオ工作が好きなことがきっかけとなり、理工系の学問の道を志しました。大学には電気工学を学ぼうとして入学したものの、入学後、新しい物質の発見ができる高分子化学の方が面白いと思い、化学の道に入りました。学生時代、帝人の奨学金をもらいながら、勉強をしていたことがきっかけとなり、帝人の基礎研究所に就職。しかし仕事に就いてみると、大学で学んだ化学の基礎がまだまだ弱いことに気づき、大学でもう一度勉強しなおしたいと考えた末、1960年、フルブライト奨学金の奨学生として、ペンシルバニア大学留学しました。
 留学期間中に当時、最先端で難しい学問であった量子化学(Quantum Chemistry)を深く勉強したことで、化学の原理がよくわかり、よく見えるようになったそうです。このとき同じ日本のノーベル化学賞受賞者(1981年)、故福井謙一氏の電子軌道に関する理論が勉強に役立ったそうです。
 根岸氏は、化学の理論は得意で、ペーパーのテストはよくできたのですが、実験が苦手でした。とくに有機合成の実験は、複雑な操作が多く、面倒くさいと思っていました。有機合成の化学反応をもっと簡単に効率的にできないか、と考えぬいたことが、クロスカップリング反応の発見に至るきっかけとなったそうです。

・クロスカップリング反応の発見
  ペンシルバニア大学留学中の1962年、有機金属化合物の合成を研究していた、パデュー(Purdue)大学のブラウン(Brown)教授に出会います。この出会いがその後の研究人生に大きな転機となりました。1962年から65年、帝人に戻ってメーカーの研究者に戻りますが、基礎研究の道に戻りたいという気持ちが強くなり、1966年からパデュー大学にポストドクター研究員として2年間、さらに助手として4年間働きました。このとき有機合成には、遷移金属を触媒に使うことが有効であると気づいたそうです。
 従来、有機化合物を構成する元素は、H(水素)、C(炭素)、O(酸素)、窒素(N)など10~12種の元素に限られており、この組み合わせで合成できる物質の数は限られていました。
 一方、現在118種まで存在している元素の周期律を眺めて、このなかから放射性物質(人体に影響)、不活性ガス(反応が起こりにくい)、重金属(人体に影響)の3つのタイプの元素を取り除くと、約70種の元素が、物質の合成に使えるように見えてきます。これだけ多くの元素が物質の構成要素として使えるようになれば、新しい機能をもつ有益な物質がどんどん作れるようになる。ベンゼン環にホウ素(B)が結合した物質から始めて、遷移金属、とくにパラジウム(Pd)を触媒として使うことが、安全で効率的な化学合成につながると信じて、研究を続けた結果、クロスカップリング反応の発見に至りました。

・新しい化学産業の方向性
  根岸氏は化学合成の一つの方向性として、YESというキーワードを挙げていました。これは、Y(Yield:歩留まり)、E(Effciency:効率)、S(Selectivity:選択性)の頭文字を取ったもの。さらにE(Economy:経済性)、S(Safety:安全性)を加えて、YEESSとしてもよいそうです。
 要するに、新しい機能をもつ物質を、経済的に効率よく、さらに人体や地球環境にやさしく、合成することが望まれるということで、クロスカップリング反応というのは、正にこの方向性の代表となるものであるということでした。
 例えば、クロスカップリング反応の触媒として使われるパラジウムは、1グラムで2,000円前後の価格なので、1kgで200万円もします。この物質が消費材として1度きりしか使えなかったら、この化学合成はとても高価な手段となってしまいます。しかしクロスカップリング反応では、反応サイクルに無限にリサイクルできます。100万円の材料が1度きりしか使えなければ、不経済ですが、100万回リサイクルできれば、1回の費用はたったの1円です。このようなリサイクルが可能な点が、この反応の大きなメリットの一つです。
 また化学合成は、選択的で安全でなければなりません。化学合成には目的となる主生成物のほかに、副生成物もできます。まず主生成物が選択的(Selectivity)に、高い歩留まり(Yield)で合成される必要があります。また仮に副生成物が毒性をもつような危険なものであれば、人体や環境に与える影響が懸念されます。したがって安全(Safety)な化学反応でなければなりません。
 こうした主張の上で、根岸氏は、パラジウムを含むDブロック遷移金属が今後、化学合成により活躍するのではないか、と提言をしています。21世紀は世界中で、エネルギー、食料、医薬、など多くの問題を抱えていますが、Dブロック遷移金属による化学反応の魔法の力(Magical Power)を使えば、新しい機能性材料の創造によって、多くの問題の解決に至るだろう。最後に「化学で世界は変わる」という言葉で締めくくりました。

【第2部】
 
根岸氏による熱い講演に続き、パネル討論では「5つのCで新産業創造を」というタイトルで、北澤宏一氏(科学技術振興機構 理事長)、柴崎正勝氏(微生物化学研究会 常務理事)の2名がそれぞれの仕事に関して発表を行った後、根岸氏を含めた3名のディスカッションが行われました。
5つのCとは、
①ケミストリー(Chemistry)~化学
②カーボン(Carbon)~炭素
③キャタリスト(Catalyst)~触媒
④コンビナトリアルサイエンス(Combinatorial Science)
~多種多様な化合物を短期間で自動合成し、有望な新薬候補や機能性素材などを探索する技術を基本として、その応用が期待され、かつ技術基盤となる科学分野
⑤コンカレント(Concurrent)~設計から製造・利用・廃棄に至るまで各部門の業務を並行的に処理し、優れた製品を短期間で開発するものづくりの考え方
の略です。非常に多くの内容が語られたので、ここではポイントのみといたします。

・「21世紀化学への期待」(北澤宏一氏)
  北澤氏は、いくつもの研究テーマの中から、とくに推進したいテーマとして、人工光合成を挙げました。植物が炭素(CO2)と水(H2O)から、ブドウ糖を生成する光合成反応は、食料やエネルギーを合成する、重要な自然の化学反応です。実は光合成反応のメカニズムは、まだ十分に理解されていないので、北澤氏としてはまず、光合成の完全解明を進めた上で、さらに人工的に光合成反応を起こし、食料やエネルギーを生成するテーマに取り組みたいと語っていました。
 また3.11の東日本大震災を経て、原子力エネルギーに対する大きく依存していたエネルギー政策は転換せざるを得ません。太陽光エネルギーを電気-化学変換で、エネルギーを蓄える電池の研究にも期待したいとも語られました。
 個人的には、人工光合成は挑戦的で非常に夢のある研究テーマだと思います。JSTは国の研究促進機関として研究費の助成を行う立場ですが、その夢の実現に向かって走る多くの研究者が出てくることに期待したいです。

・「不斉触媒の創製と感染症との戦い」(柴崎正勝氏)
  柴崎氏の専門は感染症の予防薬の開発です。クロスカップリング反応に代表される化学合成法は、薬の合成にも広く応用されているそうで、抗がん剤のシスプラチン、抗パーキンソン病薬などの合成でも使われているそうです。タミフル(オサルタミビル)の合成には、天然原料である八角の成分から反応を開始して、10回程度の化学反応を経て、薬が完成するそうです。天然原料には存在している材料の資源が限られているため、安定供給のために、完全に人工な合成方法の開発が進められているそうです。柴崎氏はそのパイオニアであり、タミフルのほかにも、クロスカップリング反応を含めた触媒反応を利用して、高効率な抗ウィルス薬の開発を進めています。
 触媒反応によって作られる物質は、電池などに使われる材料に限らず、こうして多くの病気の治療に役立つ薬になっていることは、よく知らなかったことなので、非常によい勉強になりました。

・パネルディスカッション
  3名がそれぞれの立場から、主に化学の力を国力として、どのように日本が産業を発展させていくべきかが語られました。
 根岸氏はDグループ遷移金属を触媒とした化学合成によって材料の開拓を進めることに力点を置いていました。
 北澤氏は基礎研究には、好奇心重視(Curiosity-driven)の研究と方向性重視(Vision-driven?(筆者注:このように北澤氏が言及したわけではなく、筆者がCuriosityに対して相対させるため補った。))の2つのアプローチがあるとした上で、前者が純粋科学的に自然現象の原理解明を重視する一方で、後者は社会に良い影響を与えるための研究であると説明。社会問題を解決する基礎研究として、後者の研究が発展していくことに力を入れたいと語りました。
 柴崎氏は北澤氏の挙げた人工光合成に期待を表明しました。また膨大な研究開発費のかかる抗ウィルス薬の研究は、海外のグローバルな大企業がリスクをかけて進めている一方で、日本の医薬業界は及び腰になっており、国内の医療の衰退につながると危惧を示していました。
 議論を総じて見ると、日本の科学力は十分に世界のトップレベルを維持しており、これはもっと誇って良いことだという点、しかし将来に向けて科学技術をどのように発展させるのか、どのように社会に成果を還元するのかという視点(ビジョン)に欠けており、そのような教育活動や政策の実施が重要であるという点が共通して主張されたことだと思います。

【まとめ】
 
 当日、私が取った講演メモと、以下に挙げる参考資料などを元に、講演会の内容をレビューしました。私は光通信装置の設計をするエンジニアで、化学、とくに有機合成というのは、まったくの専門外で、わからない点も多かったのですが、高校までに学習した化学の知識で多くの点は理解できました。触媒を利用した化学合成というのは、正に現代の錬金術ともいうべき方法だと思いました。もちろん金(Au、または財貨)を直接、合成するわけではありませんが、社会に役立つ物質を合成する化学反応の方法を生み出す研究は、今もこれからも人間社会に多くの実りをもたらすであろうと期待をもちました。
 根岸氏も、ノーベル化学賞を共同受賞した鈴木章教授も、このクロスカップリング反応に関する基本特許を取得していません。そのため、この反応は多くの研究機関、企業に広く活用され、電子産業から医療産業まで広い領域で、新しい機能をもつ有機化学物質の合成に貢献することができたそうです。これは正にLinuxなどのオープンソースの概念に共通するものだと思いました。世の中に本当に役立つ基本的なアイデアは、一部の企業や個人で独占されるべきではなく、公共の知の蓄積として社会に還元されるべきという考え方は素晴らしいと思いました。科学者としてのスピリッツ(魂)を見た思いがしました。
 最後にこのような素晴らしいシンポジウムで講演されたパネリストの方々をはじめ、シンポジウムを企画、運営された日経新聞のスタッフのみなさんに感謝したいと思います。ありがとうございました。

【参考資料】
 
(書籍)
夢を持ち続けよう! ノーベル賞 根岸英一のメッセージ/根岸英一
¥1,260
Amazon.co.jp
講演前に一読しました。根岸氏のこれまでの人生の歩みについて書かれており、講演の半分以上の内容はこちらにより詳しく書かれています。科学技術に携わる科学者、技術者にとっては、研究者スピリットを養うのに適した一冊だと思います。

(ホームページ)

・北海道大学科学技術コミュニケーション教育研究部門(CoSTEP)
 「ノーベル化学賞・鈴木章名誉教授を取材した映像作品の公開」
http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/costep/news/article/83/

根岸氏とノーベル賞を共同受賞した鈴木章北海道大学名誉教授の受賞記念映像。パラジウム触媒をカニに例えたクロスカップリング反応の説明はわかりやすい。

・化学者のつぶやき
 「【速報】2010年ノーベル化学賞決定!『クロスカップリング反応』に!!」
http://www.chem-station.com/blog/2010/10/2010-6.html
昨年のノーベル化学賞発表時の速報解説。専門の化学者による解説だけに詳しく説明されています。