1932 アルファロメオ8C2300 | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

1932 アルファロメオ8C2300

1932 ALFAROMEO 8C2300

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ミラノを中心としたイタリア北部ロンバルディア地方の有力起業家集団が新時代の地場産業として立ち上げた自動車メーカーのALFAだったのだが、程なくして経営難に陥ったことで資本家のニコラ・ロメオがその経営に参画すると同時に車名をALFAROMEOと改めた。ちなみにニコラ・ロメオはハイパフォーマンスカーとレースに対して極めて理解があったこともあり、ここからのアルファロメオのラインナップは非常にレーシーなモノが多くなって行くこととなった。


ここで新生アルファロメオにおいて極めて重要な役割を果たしたのが新たにGPレースを戦うニューマシンの開発に当たってワークスドライバー&チーフテストドライバーとして雇用されたウーゴ・シヴォッチという人物だった。彼はもともとCMNというメーカーでテストドライバーを勤めていたのだが、新体制となったアルファロメオでその力を十分発揮できるとみるや、同じくCMWでテストドライバーを勤めていたエンゾ・フェラーリという若者をアルファロメオに誘った。なおシヴォッチは最初のGPレースカーだったの開発後、デビューレースの直前に事故死してしまうのだが、彼の功績はその後も継続することとなった。


実のところシヴォッチの死後に大きな働きを見せたのが他でもないエンゾ・フェラーリであり、彼は個人的な友人であった名メカニックのルイジ・バッツィと後に天才設計者と呼ばれることとなるヴィットリオ・ヤーノという二人の実力者を大メーカーのフィアットからアルファロメオに引き抜くという離れ業を見せた。そしてヤーノはこれ以降、アルファロメオを代表する名車を次々と生み出すこととなる。


ヤーノはワークスGPレースカーの開発を行う傍らで、市販モデルの設計も精力的にこなしていった。そしてその作品には、小排気量、ハイメカニズムという当時のGPレースカーの設計が見事に反映されていた。その具体化こそが、1927年のミラノショーで発表した6C1500だった。1500ccという当時としては極めて小さな6気筒エンジンを搭載していたこのマシンは、何よりもベベルギアシャフト駆動によるSOHCというハイメカニズムが採用されていた。驚くべきことは、この精密機械の様なエンジンを搭載した当初のシャシーはスポーツカーでは無く通常のセダンだったということ。実のところ、スポーツカー用ユニットとしてはギアトレイン駆動DOHCヘッド仕様が準備されており、このエンンを搭載したシャシーは、後にスポルトという名で登場することとなった。またスポルトの進化版としてシュペルスポルトという名の軽量仕様も市販レーサーとして少数販売された。バリエーションはメカニカルーパーチャージャー付きと自然吸気の2つがあった。


6C1500は後に排気量を1750cc、さらには1900ccへと高め、第二次世界大戦前のアルファロメオにおける主力生産車として君臨した。ただしその生産台数は、最も多かった仕様でも1000台ちょっとといった具合にハッキリいって大量生産には程遠い状態にあった。つまり初期のアルファロメオにおける基本コンセプトこそは、優秀な製品を確かな品質管理のもとでユーザーに届けることこそが重要であり、そのためには生産台数が限られた物となることも止むを得ないというスタイルに他ならなかったということである。


一方、この6Cシリーズが様々なバリエーションで生産されていた1931年、ヤーノは新たなフラッグシップというべきスーパースポーツカーをリリースすることとなった。これが今回紹介する8C2300である。アルファロメオとしては初の最初から2シータースポーツカー専用シャシーを与えられたモデルである。ちなみに専用設計とはいえこのシャシー自体はどちらかというと平凡な手堅い設計だったものの、エンジンはギアトレイン駆動DOHC直列8気筒スーパーチャージャー付きという精緻を極めたもの。


8C2300は基本的に全車ベアシャシーで生産され、カロツェリア・ツーリングの手で軽快なスパイダーボディを架装された仕様が大部分を占めていた。もちろんその性格を鑑みた場合、レースへの参入を目指していたことはいうまでもなく、スポーツカーレース仕様は1931年から1934年にかけてル・マン4連勝を飾り、さらにはモンツァという名のGPレースカーバージョンは、1929年12月に独立し、セミワークスとしてアルファロメオの主要なレース活動を請け負っていたエンゾ・フェラーリ率いるスクーデリア・フェラーリの手でGPレースを戦った。8C2300は後に8C2600、そして8C2700と排気量をアップしていったが、このシリーズの生産台数は全部合わせても188台に過ぎず、ワークスレーサーに近いスペシャルチューンが施された派生型に至ってはいずれも数台というオーダーだったと言われている。


なお1934年には6C系の新型として6C2300がデビューを飾った。このマシンは極めて多くのバリエーションと共に1930年代後半におけるアルファロメオの主力モデルとなった。その基本的なバリエーションを列記しただけでも、ツーリスモ、グランツーリスモ、ペスカラ、コルト、ルンゴ、ミッレミリア等等。さらに1939年にデビューした排気量アップ型の6C2500は、第二次世界大戦中には生産の中断を余儀なくされたものの、戦後わずかの期間で再生産体制を確立し、戦後のアルファロメオをとりあえず担う存在としてボディを一新しつつ1952年まで生産された。その最終型はフレッチア・ドーロと呼ばれた豪華なスーパースポーツセダンである。