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職業 フリーランスライター 得意分野は乗物全般、自転車から原潜まで守備範囲は広大。特に好きなモノは古いレースカー、古いヒコーキ、古いフネ、古いキカイなどなど。最近多い原稿分野はメカ解説とミリタリーヒストリーもの。年間数回にわたって欧米の乗物関係マニアックイベントを取材している。現在「アメ車マガジン」(ぶんか社)において「アメリカンクラシックス」を、「グレートメカニックDX」(双葉社)にて「珍メカ博物誌」を連載中。


趣味は取材の過程で収集した乗物関係Tシャツコレクション。現時点で300点以上を集めている。


ツイッターにおいても絶賛つぶやき中

https://twitter.com/akiyabuki


なお、ブログへのリンクはフリーですが、記事本文の著作権は全て矢吹明紀が、写真の著作権についても特に記載が無いものについては全て矢吹明紀が所有しておりますので、文章や写真のみを抜き出しての転載はお控え下さいますようお願いします。原稿執筆、取材、写真レンタルなどのオーダーは以下のメールアドレスまで。



akiyabuki@hotmail.com


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2010-07-04 00:59:06

1932 ロールス・ロイス ファントムII ヘンリーロードスター

テーマ:ヨーロッパ車

1932 ROLLS-ROYCE PHANTOM II HENLY ROADSTER

乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

第一次世界大戦が終了ししばらく経った1919年の夏、ロールス・ロイス社においてジェネラルマネージャーを務めていたクロード・ジョンソンはアメリカ出張から帰国した。この旅行の目的はアメリカ市場におけるロールス・ロイス車の安定供給のため、アメリカに工場を設けるための事前調査というもの。ロールス・ロイス自体は早い時期から市場からの要求に応えてアメリカへと輸出され、シャシーで輸出された一部はアメリカのコーチビルダーによりボディを架装されている例もあったが、当のアメリカは高級車に対する関税が厳しく、特に高価だったシルヴァー・ゴーストは販売価格という面でアメリカ車に対して極めて大きなハンデを背負わざるを得なかった。またこの時点でロールス・ロイスのメインファクトリーだったダービー工場のキャパシティは完全にパンクしており、輸出分も含めて1年半分以上のバックオーダーを抱えていたことも海外生産を決心する理由の一つだった。


こうした種々の問題をクリアするには、それまで対米輸出に振り向けられていた個体の生産をアメリカ国内で行う以外に解決策は見当たらず、出張から帰国てから間もなくの1919年9月22日に至り、クロード・ジョンソンはアメリカ国内の資本家に対して、ロールス・ロイスの対米進出計画を公表し資本家を募ることとなった。そしてここで共同経営者に名乗りを上げた人物は3名いた。L.J.ベルナップ、ヘンリー J.フラー、そしてJ.E.アルドレッドである。いずれも高名な銀行家であり、ベルナップはウェスタン・エレクトリックの発電所建設へ、アルドレッドはカミソリメーカーのジレット社への投資で銀行家としての名声を獲得した人物だった。


さて、程なくして合意を見たロールス・ロイスUSA計画は、次なる段階としてメインファクトリーを設けるための候補値の選択に入った。ここでまず候補値となったのがニューヨーク郊外のスプリングフィールドである。スプリングフィールドにはメリットが3つあった。第一に周辺は陸軍工廠を初め重工業が集中している地帯であり、熟練労働者や下請け企業といったサポート体制にも不安がなかったこと。第二にニューヨークとボストンという巨大マーケットが近かったこと。そして第三に同地域は全米でも珍しく労使関係が良好だった地域であり、労働争議の心配がほとんどなかったこと。しかも都合が良いことに、アメリカン・ワイヤーホイール・カンパニーの旧工場が売りに出ていた。ロールス・ロイスUSAはこの地に本社を設け、同時に操業準備を進めることとなった。初代社長は前出のベルナップである。


1920年、ロールス・ロイスUSAは自社の公約というべき企業ポリシーを発表した。以下はそれらの抜粋である。アメリカでのロールス・ロイス車は基本的に限定生産とする。スプリングフィールド製シャシーはダービー製シャシーと同一であり、全てのパーツは兌換性を持つものとする。ボディは自社では製作しない。使用する素材のクオリティは本国製と同一とする。また仕上げやテストは全てダービー工場に準じたものとする。これらのことからもわかる通り、ロールス・ロイス車はたとえ製造国が違っても変わらないクオリティを約束していた。メイド・インUSAロールス・ロイスは初期に20hpを部品の状態で輸入し、いわゆるノックダウンで製造した後にはシルヴァーゴーストを1920年から1926年まで、後継モデルのニューファントムことファントムIを1927年から1931年まで製造した。台数はシルヴァーゴーストが1703台、ニュー・ファントムが1241台である。


アメリカ製のロールス・ロイスは、アメリカのコーチビルダーによってボディを架装されていた。ちなみにその価格はシャシーだけで1万ドルとT型フォード40台分に相当していたシルヴァーゴーストは紛れもなく超高級車に相当していたが、クルマの販売方法がアメリカと英国で多少異なっていたことから、ボディ製作にも微妙な違いが現れていた。つまりイギリスの場合、完全オーダーだったのに対して、アメリカは完成車を販売することが普通だったのである。ただしイギリス流にスペシャルボディをリクエストする例もあったことから、ロールス・ロイスUSAはスタンダードボディとスペシャルボディ、それぞれの架装体制を整えざるを得なかった。ここで初期に多数のボディ架装を請け負っていた部門が「ロールス・ロイス・カスタムコーチワーク」である。


もちろんここではロールス・ロイス自身でボディを架装していたわけではなく、スミス・スプリングフィールド、ニュー・ヘヴン、メリマック、ビドル&スマート、ウイロビーといった著名なコーチビルダーに適宜オーダーし架装してもらっていた窓口というべきものだった。複数のコーチビルダーがラインナップされていたのは、それぞれが小規模だったことと、スペシャル・オーダーボディもこれらのコーチビルダーに適宜発注されていたためである。一方、1925年からはコーチワークの一本化を目的に、ロールス・ロイスUSAはニューヨークのコーチビルダー、ブリュースター社の株式を買収、最終的に最も多数のボディを架装することとなった。一般にアメリカ製ボディはヨーロッパのコーチビルダーの手に拠るものと比較して、デリカシーに欠けるといわれているが、少なくともフィッティングという意味では遜色はなかった。


既述の通り1927年にロールス・ロイスUSAのラインナップはファントムのみとなった。このモデルが1931年まで生産された後、ロールス・ロイスUSAはアメリカでのシャシー生産を終了することとなった。理由は大恐慌の影響によって販売そのものが大きく落ち込んだことと、アメリカで生産していながら、イギリス製を求めるユーザーが少なくなかったことである。


一方、シャシーの生産が終了した後も、アメリカ市場向けのロールス・ロイスは、当初がそうであった様にシャシーのみを輸入しアメリカでボディを架装するというスタイルが採られた。1931年から1935年までリリースされたファントムIIはブリュースターによって、同じく1936年から1940年までのファントムIIIのボディは、新たにロールス・ロイスUSAのパートナーとなったコーチビルダーのインスキップによってボディが架装されていた。この両車のシャシーはイギリス製であり、ごく一部の例外を除いて右ハンドルだったのが特徴である。


ちなみに今回紹介している1932年型ファントムIIヘンリーロードスターはイギリス本国製のシャシーにブリュースター製のロードスターボディを架装した非常に軽快かつスポーティーなスタイルが特徴の一台なのだが、ごらんの通りハンドルの位置は左である。実はこのボディも販売当時のオリジナルではなく、当初はタウンカー(セダンカ・ド・ヴィルとも呼ばれていた前席オープン後席クローズドのリムジンボディ)ボディが架装されていたものを1938年に至りロードスターに載せ替えたものとされている。もしかしたら、この時点でロールス・ロイスのファクトリーにおいてステアリングの位置を変更したのかもしれない。


なおアメリカ製のシャシー、もしくはアメリカ製のボディを架装したロールス・ロイスは英国製に比べるとワンランク劣るといわれることも多かったのだが、しかしそれは根も葉もない単なる噂に過ぎない。なぜなら、ロイスがそんなことを許すはずがなかったからである。ボディのデザインが気に入らないからといって総てを否定するのは、ロイスの志しを理解し得ない俗物だけだった。それはごらんのヘンリーロードスターを見ても明らかである。


余談ながら1935年を最後にロールス・ロイスと離れたブリュースターは、コーチビルダーと平行して1932年に航空機会社を起こす。ただし下請けで製作していた部品以外の分野での業績は芳しくなく、1930年代後半から1940年代初めにかけて自社開発した艦上偵察爆撃機の「SBA-1」、同じく艦上戦闘機「F2A-1バッファロー」、そして最後となった艦上急降下爆撃機の「SB2A-1バッカニア」のいずれも少量生産に終り、最終的に2流という評価の域を出ることはなかった。なお唯一、フィンランド空軍に輸出されたバッファローのみは高い評価を受けているが、それはまた別の物語である。







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2010-07-03 00:22:39

1932 アルファロメオ8C2300

テーマ:ヨーロッパ車

1932 ALFAROMEO 8C2300

乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ


ミラノを中心としたイタリア北部ロンバルディア地方の有力起業家集団が新時代の地場産業として立ち上げた自動車メーカーのALFAだったのだが、程なくして経営難に陥ったことで資本家のニコラ・ロメオがその経営に参画すると同時に車名をALFAROMEOと改めた。ちなみにニコラ・ロメオはハイパフォーマンスカーとレースに対して極めて理解があったこともあり、ここからのアルファロメオのラインナップは非常にレーシーなモノが多くなって行くこととなった。


ここで新生アルファロメオにおいて極めて重要な役割を果たしたのが新たにGPレースを戦うニューマシンの開発に当たってワークスドライバー&チーフテストドライバーとして雇用されたウーゴ・シヴォッチという人物だった。彼はもともとCMNというメーカーでテストドライバーを勤めていたのだが、新体制となったアルファロメオでその力を十分発揮できるとみるや、同じくCMWでテストドライバーを勤めていたエンゾ・フェラーリという若者をアルファロメオに誘った。なおシヴォッチは最初のGPレースカーだったの開発後、デビューレースの直前に事故死してしまうのだが、彼の功績はその後も継続することとなった。


実のところシヴォッチの死後に大きな働きを見せたのが他でもないエンゾ・フェラーリであり、彼は個人的な友人であった名メカニックのルイジ・バッツィと後に天才設計者と呼ばれることとなるヴィットリオ・ヤーノという二人の実力者を大メーカーのフィアットからアルファロメオに引き抜くという離れ業を見せた。そしてヤーノはこれ以降、アルファロメオを代表する名車を次々と生み出すこととなる。


ヤーノはワークスGPレースカーの開発を行う傍らで、市販モデルの設計も精力的にこなしていった。そしてその作品には、小排気量、ハイメカニズムという当時のGPレースカーの設計が見事に反映されていた。その具体化こそが、1927年のミラノショーで発表した6C1500だった。1500ccという当時としては極めて小さな6気筒エンジンを搭載していたこのマシンは、何よりもベベルギアシャフト駆動によるSOHCというハイメカニズムが採用されていた。驚くべきことは、この精密機械の様なエンジンを搭載した当初のシャシーはスポーツカーでは無く通常のセダンだったということ。実のところ、スポーツカー用ユニットとしてはギアトレイン駆動DOHCヘッド仕様が準備されており、このエンンを搭載したシャシーは、後にスポルトという名で登場することとなった。またスポルトの進化版としてシュペルスポルトという名の軽量仕様も市販レーサーとして少数販売された。バリエーションはメカニカルーパーチャージャー付きと自然吸気の2つがあった。


6C1500は後に排気量を1750cc、さらには1900ccへと高め、第二次世界大戦前のアルファロメオにおける主力生産車として君臨した。ただしその生産台数は、最も多かった仕様でも1000台ちょっとといった具合にハッキリいって大量生産には程遠い状態にあった。つまり初期のアルファロメオにおける基本コンセプトこそは、優秀な製品を確かな品質管理のもとでユーザーに届けることこそが重要であり、そのためには生産台数が限られた物となることも止むを得ないというスタイルに他ならなかったということである。


一方、この6Cシリーズが様々なバリエーションで生産されていた1931年、ヤーノは新たなフラッグシップというべきスーパースポーツカーをリリースすることとなった。これが今回紹介する8C2300である。アルファロメオとしては初の最初から2シータースポーツカー専用シャシーを与えられたモデルである。ちなみに専用設計とはいえこのシャシー自体はどちらかというと平凡な手堅い設計だったものの、エンジンはギアトレイン駆動DOHC直列8気筒スーパーチャージャー付きという精緻を極めたもの。


8C2300は基本的に全車ベアシャシーで生産され、カロツェリア・ツーリングの手で軽快なスパイダーボディを架装された仕様が大部分を占めていた。もちろんその性格を鑑みた場合、レースへの参入を目指していたことはいうまでもなく、スポーツカーレース仕様は1931年から1934年にかけてル・マン4連勝を飾り、さらにはモンツァという名のGPレースカーバージョンは、1929年12月に独立し、セミワークスとしてアルファロメオの主要なレース活動を請け負っていたエンゾ・フェラーリ率いるスクーデリア・フェラーリの手でGPレースを戦った。8C2300は後に8C2600、そして8C2700と排気量をアップしていったが、このシリーズの生産台数は全部合わせても188台に過ぎず、ワークスレーサーに近いスペシャルチューンが施された派生型に至ってはいずれも数台というオーダーだったと言われている。


なお1934年には6C系の新型として6C2300がデビューを飾った。このマシンは極めて多くのバリエーションと共に1930年代後半におけるアルファロメオの主力モデルとなった。その基本的なバリエーションを列記しただけでも、ツーリスモ、グランツーリスモ、ペスカラ、コルト、ルンゴ、ミッレミリア等等。さらに1939年にデビューした排気量アップ型の6C2500は、第二次世界大戦中には生産の中断を余儀なくされたものの、戦後わずかの期間で再生産体制を確立し、戦後のアルファロメオをとりあえず担う存在としてボディを一新しつつ1952年まで生産された。その最終型はフレッチア・ドーロと呼ばれた豪華なスーパースポーツセダンである。








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2010-07-02 07:10:47

1976 IMSA GT デコン シボレー モンザ

テーマ:GTレースカー

1976 IMSA GT DEKON CHEVROLET MONZA

乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ


1975年、北米における新進のレースオーガナイザーだったIMSAはAAGT(オールアメリカンGT)と称する新たなカテゴリーを導入した。これは当時北米で市販されていたアメリカ製コンパクトカーをベースにそれまでのグループ4GTを上回る大改造を認めたもの。具体的には量産モデルのAピラー周りとルーフを使っていさえすれば他のボディパーツは改造自由。サスペンション周りやブレーキ、エンジンも排気量の規定こそあったもののモディファイ自体はほぼ自由だった。すなわちこの時点でFIAが1976年度からの導入をアナウンスしていたグループ5シルエットフォーミュラを先取りしたものと言って良かった。


こうしたIMSAの動きに対して、それまでグループ4GTを運用していたコンストラクターの幾つかが素早い反応を見せた。その代表と言って良かったのがDEKONである。デコン・エンジニアリングは1974年にレースカーエンジニアのリー・ダイクストラとレーサー兼エンジニアのホースト・クウェックによって設立された。当初はポルシェを素材にグループ4のIMSA GTカーを製作していたデコンだったが、AAGT創設のアナウンスを受けてレースカーを新たにGMにスイッチしニューマシンの開発に着手したのが1975年の始めのこと。ここではGMの全面的なバックアップの元、新型コンパクトカーだったシボレー・モンザが素材に選ばれ、空力的な実験データなどはGM側の協力と共に具体化されたと言われている。


その一方でシャシー側のモディファイはシェルビーアメリカンでフォードGTの運用に関わった後にフォードのワークスレースカー開発部門だったカークラフトに転じ、その後自身のコンストラクターを立ち上げたダイクストラであれば何の不安も無かった。パートナーのクウェックもレースカードライバーでありながら技術に関しての造詣が深かったこともあり、デコンによる新たなレースカーは程なくしてその姿を現したのである。


さて今回紹介するのは1976年型のデコン・モンザ。シャシーナンバー1011である。IMSA GTに参戦していたのは1976年から1981年まで。オーナー/ドライバーは一貫してクリス・コードだった。実車はモンザのルーフ、Aピラー、フロントバルクヘッド、フロアの一部、テール周りを流用していただけで他はほぼ新造されていた。すなわちまずスチール角パイプでペリメーターフレームを組んだ状態でフロアを溶接、それにフロントとリアのサブフレームと一体化したロールケージを組み上げていたというわけである。フロント周りはワンピースカウル、巨大なオーバーフェンダーとなっていたリア周りはドアパネルも含めてFRPで新造されていた。


エンジンは当初は5リッター、その後は6リッターに制限されていたこともありビッグブロックのLS7では無くスモールブロックのLT1をベースにチューンを加えたもの。排気量はスタンダードと同じ5.7リッターが多かった。エンジン本体のチューン自体はストックカー用などに準じていたもののこちらは吸気関係が自由だったこともあり8連スロットルのメカニカルフューエルインジェクションの使用が許されていたため、その最高出力は550hpから600hpと同年代のストックカーを大きく凌駕していた。メカニカルスペック的には同年代のF5000用に近かったといって良いだろう。なおエンジンを製作したのは初期はライアン・ファルコナー、後期はアル・バーツのファクトリーと言われている。


デコン・モンザは1975年から1978年にかけて合計15台が製作された。この他にボディファブリケーションをビュイック・スカイホークとしたものが1台、シボレー・カマロとしたものが2台存在した。いずれも闘ったのはIMSAにおけるAAGTもしくはGTO、さらにはSCCAトランザムであり、全盛だったのは1980年代初めまでだが、中にはSCCA GT-Iといったカテゴリーで長らく走った例もあった。


またデコンと同時期に非常に良く似たチューブフレームのモンザを走らせていたコンストラクターも複数存在しており、3台を製作したギャラントの他、ワンオフに終わったウォーレン・アゴール、バンド&トリヴェッテ、ヒンクリフ、キング等を数えることができた。いずれもルックスはデコンに酷似しており、一見しただけではほとんど区別が付かなかった。


デコン・モンザが先鞭を付けた量産車のシルエットが与えられたチューブフレームの純レースカーというスタイルはこの後、IMSA GTとSCCAトランザムにおける主流となり、たとえばジャック・ラウシュのマスタング&カプリが世に出る動機となるなど極めて大きな役割を果たすこととなった。その意味でアメリカンGTレースカーにおける金字塔的な一台と言っても過言ではないだろう。









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