1969 リンカーン コンチネンタル マークIII | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

1969 リンカーン コンチネンタル マークIII

1969 LINCOLN CONTINENTAL MARK III

リンカーンというブランドにとって「コンチネンタル」というネーミングは特別の意味を持っている。


リンカーンとはもともと大衆車を中心に手掛けてきたフォードがライバルのGMに対抗するために投入したブランドであり、大恐慌以降はヘンリー・フォードの長男として若い頃から帝王学と上流階級のしきたりを学んできたエドセル・フォードの指揮のもとに先進のデザインとメカニズムを武器にその道を歩んでいた。


そのエドセルが絶対の自信を込めて1937年にリリースしたのがリンカーン・ゼファーであり、さらにゼファーをベースに最上級のトリムとボディ仕立てを与えたのが1940年に登場したコンチネンタルだった。


コンチネンタルは第二次世界大戦の勃発によって1942年モデルを最後に一時消滅、戦後の1946年モデルから生産が再開されたもののこの時点では戦前モデルを引き継いだ仕様に止まっており、最初の戦後設計モデルである1949年型のラインナップの中に「コンチネンタル」は存在しなかった。


なおその理由は様々だったが、一番大きな位置を占めていたのは要するに生産にコストが掛かりすぎ、利益がほとんど出なかったということである。


リンカーン・コンチネンタルはフォードの政策変更によって1956年モデルで「コンチネンタル・マークII」として復活した。しかしこの時点でも行き届いた品質管理下での熟練職人による手作りにこだわっていたこともあってそのコスト高体質に変化はなく、志の高さとは別に時代の流れからは取り残されていたこともあってわずか2年で消滅した。なお1958年から1960年にかけてコンチネンタル・マークIII~マークVがラインナップされていたが、こちらはマークIIとは一線を画す量産モデルだった。


リンカーンは1961年に新時代を見据えた大規模なモデルチェンジを実施し、同時にコンチネンタル・シリーズは「マーク」が付かないリンカーンの主力ラインのネーミングへと変わった。同じコンチネンタルでもその意味はまったく異なっていたといっても過言ではない。その後マークが付いたコンチネンタルが復活するのは1968年モデルからのことであり、1958年から1960年まで存在していたマークIII~Vの存在を無視するかのように再びマークIIIを名乗っていたのが興味深かった。


実はこのことに関しては明確な理由が存在していた。それはリンカーンにとって本来のコンチネンタルとは、メインモデルというべきフォーマルセダンとは一線を画するあくまでパーソナルユースを重視したプレミアム性の高い少量生産の「2ドアモデル」だったということである。


これは1940年の初代から1948年までの戦前設計モデルと、1956年と1957年のみ存在していたコンチネンタル・マークIIに共通していた項目であり、1958年から1960年までのコンチネンタル・マークIII~マークVは確かにプレミアムモデルではあったものの、そのラインナップ中に4ドアを持っていたという意味でコンチネンタル・マークの本流からは外れるという判断がなされたと想像することができた。


というわけで復活なった1968年型にはマークの付かないコンチネンタルとコンチネンタル・マークIIIという2種類のコンチネンタルが顔を揃えていた。コンチネンタルは4ドアと2ドアが用意されていたのに対して、マークIIIのボディバリエーションは2ドアハードトップのみだった。同じくコンチネンタルを名乗っていたセダン系とは明らかに区別されていたということである。


こうした事実は極めてわかりにくく、しかもマニアック極まりない理由である。とはいえアメリカの自動車メーカーは時として一般人を無視した妙なこだわりを見せることが少なくない。これもまたその端的な例といっていいだろう。


1968年モデルから復活したリンカーン・コンチネンタル・マークIIIは翌1969年には早くもマイナーチェンジを受けホイールベースを前年までの126インチから117.2インチへと大幅に縮小した新しいシャシーを得た。


今回紹介しているのはまさにこのモデルである1969年型である。ボディバリエーションはそのセオリー通り2ドアハードトップのみ。その位置付けはコンチネンタル・シリーズの中の最上級モデルというものだったが、この時点では少量生産でも何でもない量産車だったことはいうまでもない。


ボディサイズはホイールベースが117.2インチ、全長が216.1インチというもの。エンジンは365hpを発生する460cu:inのV型8気筒が標準となっており、オプションユニットは用意されていなかった。


ちなみにコンチネンタルの2ドアハードトップの価格が5813ドルだったのに対して、コンチネンタル・マークIIIの価格は6741ドルというもの。この価格がどれほどのものだったかというと、メカニカルコンポーネンツを共用するマーキュリー・マーキー・ブロアムの最上級モデルの価格が4000ドル弱だったことからも、当時のリンカーンがいかに高価だったかが理解できる。


リンカーン・コンチネンタル・マークIIIはフルサイズシャシーのホイールベースを少しだけ縮め、それに豪華な2ドアハードトップボディをマウントするというあらゆるアメリカ車の中でも最も贅沢な手法と共に、キャデラック・エルドラドの宿命のライバルとしてお互いに競い合った。


リンカーン・コンチネンタルは1972年モデルからはホイールベースを120.4インチに拡大するなどのマーナーチェンジを実施しコンチネンタル・マークIVへと進化し、リンカーンのトップモデルとして君臨した。さらに1977年モデルからはエンジンを400cu:inに縮小するなどしたマークVへとマイナーチェンジしたが、いずれもエクステリア・デザインはマークIII時代からのアイデンティティを継承していた。マークVがモデルチェンジしインターミディエイトのマークVIとなるのは1980年モデルからのことである。