グラマンF4F/FM-2 ワイルドキャット | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

グラマンF4F/FM-2 ワイルドキャット

GRUMMAN F4F/FM-2 WILDCAT

20年ほど前までというもの、グラマンF4Fワイルドキャットに関する日本における客観的評価はというと、甚だ低いというのが偽らざる事実だった。戦後数十年にわたって、零戦の前にはカモ同然だったとまことしやかに語り継がれてきていたのである。


しかしここ十年ほどでその評価も随分と様変わりを見せることとなった。ハッキリ言ってしまえば「言われていたほど悪い性能では無かったし、決して弱くも無かった」ということである。


まずはそのスペックを比較して見ると両機の性格の違いが良くわかる。エンジンの出力、機体重量、翼面積、武装の全ての面でワイルドキャットが零戦を上回っていたということは、ワイルドキャットの性格は日本でいうところの重戦闘機に近かったということである。


すなわち運動性の面で劣っていたのは半ば当然のことであり、緒戦において零戦お得意の単機格闘戦に誘い込まれて一方的に損害を被った背景には、零戦の優れた運動性能と上昇性能を侮っていたことが大きな原因として挙げられる。


こうした図式に大きな転換が訪れることとなったのは、ご存じの通りミッドウェー海戦と同時期に実施されたアリューシャン攻略作戦の過程で空母龍驤所属の古賀忠義一飛曹機が不時着、ほぼ完全な状態で米軍側の手に落ちたことがきっかけである。


この時の捕獲機はアメリカ本土で徹底的に調査試験が実施され、実験を担当したジョン・サッチ中佐によって単機格闘戦を禁止する「サッチ・ウィーブ」と呼ばれた新たな戦法が考案されることとなった。


ここからワイルドキャットの健闘が始まることとなった。もともと「鉄工所」と揶揄されることも多かったグラマンの作であり、機体の強度はレベル以上。零戦の急降下速度が670km/hが限界だったのに対して、ワイルドキャットにとって700km/h前後のレベルは十分に安全マージンを取った実用の範囲内であり、最大8G以上もの引き起こしGを掛けても機体はビクともしなかったと言われている。


ただし零戦の高性能さの秘密が解明されてからも相変わらず零戦の水平方向への格闘性能と上昇性能はワイルドキャットを圧倒するだけのレベルにあったことから、低高度での乱戦に巻き込まれると上昇待避時に仕留められる危険性から逃れることは適わなかった。


余談ながらグラマンF4Fワイルドキャットの引き込み脚は油圧でも電動でも無く何とワイヤーとウインチを使った人力引き込みだった。これはトラブルで引き下ろし不可能となることを防ぐための一番確実な措置であり、最悪の場合でもウインチを開放すれば脚は自重で勝手に降りてロックされるというシステムだった。


ワイルドキャットという戦闘機は操縦系統や操作系統全てがワイヤーを使った人力であり、油圧や電動を一切使っていなかったというユニークな機体でもあった。油圧機構となっていたのは定速可変ピッチプロペラのみ。機銃の装填もワイヤーを使った機械式だった。装備が充実していたアメリカ機の中では異例な構造ではあったものの、その運用環境が過酷なものと想定されていた海軍機ならではの信頼性重視の構造ということで納得できる。


この他にも零戦に対してワイルドキャットが優っていた点はいくつもある。まずは武装である。零戦の武装は九九式1号20mm機関砲2門に九七式7.7mm機銃2門。対してワイルドキャットは12.7mmのブローニングM2機銃を6門というもの。


戦史の多くでは強力な炸裂弾を使っていた20mm機関砲の威力のみが取り沙汰されることが多いものの、この機関砲は軽量な代わりに銃身が短く初速も低かったため弾道特性が余り良くなかったという欠点があった。しかもドラム弾倉とあって装弾数わずかに60発。この弾数を使い果たしてしまった後は450発の7.7mm機銃弾に頼るしかなかった。


射撃が得意なベテランの中には、なかなか命中しない20mmを諦め、九六式艦上戦闘機時代から使い慣れた7.7mmだけで戦闘を行っていた例も少なからず存在していたとも言われており、まさに何のための装備かという疑問さえ露呈していたのである。


一方、ワイルドキャットのM2機銃の弾数は各銃に240発とかなり余裕があった。しかもこの機銃は初速が速く弾道特性も優秀。射程距離と貫徹力に限って言えば20mmに優るとも劣っていなかったのである。


戦闘機の装備機銃に関する哲学となるとまさに国ごと設計者ごとに異なるのは仕方の無いことなのだが、一発の破壊力に全てを託した零戦に対して、同一の弾道を持つ銃を集中装備し総合的な破壊力を重視したアメリカ流の考え方の方が最終的に優れた結果をもたらしたことは歴史が証明している事実である。


太平洋戦域におけるワイルドキャットは、1943年に入るとそれまでのF4Fからより軽量かつエンジンの信頼性が向上したFM-2にモデルチェンジされ、続いて海軍航空隊にF6Fヘルキャットが充足してくると第一線における制空戦闘から上陸作戦時の上空直援や船団護衛といった地味な任務へと回されることとなった。


実は従来からのワイルドキャットにとって数少ない弱点だった機体サイズのワリに重量が過大だったこととエンジンの信頼性不足を同時にクリアしたFM-2こそはワイルドキャット・ファミリーにおける決定版的存在であり、その兵器としての信頼性はまさに揺るぎないものとなっていた。


もちろん零戦とてその機体特性を最大限に活用した戦術で健闘を重ねていたものの多勢に無勢は如何ともし難く、ミッドウェー海戦以降に熟練搭乗員が次々と失われてからは、戦線のほとんどで圧倒される様になってしまったのは残念なことである。


個々の戦闘において零戦とワイルドキャットはまさに好敵手というべき熾烈な戦いを繰り広げた。特に基地航空隊同士の激突となったソロモン方面での戦いでは、アメリカ海兵隊所属のワイルドキャットとラバウルに展開していた台南空の零戦とが死闘を繰り広げ、最終的に共に多数の撃墜王を輩出することとなった。


こうした事実を垣間見ても、ワイルドキャットとは零戦に一方的にやられるだけの存在だったかの様な評価は後年にそのまま伝えるべきものではないことが理解できよう。空中戦とはあくまで戦術的もしくは戦略的に勝利しなければ意味がないのであるから。零戦は伝説を作ったかもしれない。しかし戦術/戦略的には破れたのである。