1953ウイリスCJ-3Bファームジープ | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

1953ウイリスCJ-3Bファームジープ



第二次世界大戦を通じて後方での馬車ウマかつ最前線での強行偵察など、まさに真の意味での英雄的な活躍で多大な名声を獲得した「ジープ」ことウイリスMBとフォードGPWは、平和な時代が訪れるとその高性能ゆえに今度は国内外を問わず民間からの生産要求が巻き起こることとなった。


ここで民間バージョンの生産に着手することとなったのはウイリス・オーバーランドのみであり、あくまでサブコントラクターだったフォードはその製造権を放棄した。この辺りの背景は定かではないのだが、もしかしたらオリジナル設計メーカーが優先されたのかもしれない。「ジープ」という商標に関しても、ウイリスオーバーランドによる独占使用に当たっても特にトラブルにはならなかった。


これらの要求に応えて戦後すぐの1945年の終わりからまず民間間向けに生産されたモデルの名はCJ-2Aである。このモデルはベースとなったウイリスMBの軍用装備の一部を民間装備に改めただけで、メカニズムその他はMBそのままといって良かった。


この最初の民間向けジープは1945年中の生産台数こそ1823台に止まったものの、翌1946年には7万1554台へと大幅に増加した。この大人気の背景には実戦におけるジープの価値を理解していたGI達が復員して後それぞれの故郷でジープについて好意的に語ったことが少なからず作用していた。こうしたことからも、この「実戦を通じて」名声を勝ち取った万能車というべきクルマを求めていた人々がいかに多かったかがわかる。


ウイリスCJ-2Aは1949年にはメカニズム関係のマイナーチェンジを行った上でCJ-3Aへと発展した。ちなみにCJ-2AとCJ-3Aは基本的にウイリスMBに準じた外観ながら、ヘッドライトが大型化されていたという点で軍用モデルとの識別は容易である。個人的な記憶ではあるものの、かつて小松左京原作の「日本沈没」がTV化された時、主人公が駆っていたのはこのCJ-3Aだった。


その後ジープは1952年秋に投入された1953年において、エンジンを従来のサイドバルブからインテークのみをOHVとしたFヘッドへと進化させたCJ-3Bへを加え、本格的に全世界へと飛び出していった。Fヘッドエンジンを搭載した結果、ボンネットの高さが増したことでフロントグリルが大きくなっていたのがCJ-3Bの特徴である。


ちなみにこの時期、ウイリス・オーバーランドはジープの大成功にも拘わらず深刻な経営危機に瀕しており、水面下でカイザー・フレイザーによる買収に直面していた。この買収劇の結果は1952年中には合意に達していたものの組織の再編成に時間を要したこともあり、正式な発効は翌1953年からのこととなった。なお1952年からのモデルはジープにとって本格的が輸出が開始された記念すべき年に相当していた。他でもない、わが日本に進駐軍が持ち込んだ個体以外の民間仕様ジープが上陸したのもこの年のことである。


一方、これら民需向けジープにはいかにも民需らしい新しいモデルが採用されていた。それが1951年型CJ-3Aからバリエーションの一つとして加わっていた「ファームジープ」とネーミングされていた農業仕様である。標準仕様と異なっていたことは荷台の部分にプラウなどを装着するための3点油圧ヒッチが装着されていたこととスタンダード仕様ではオプションだった後部PTOが標準装備となっていたことである。


もともとオフロード走破性には定評があったジープではあったものの、圃場で使うことを想定していたわけではなかった。しかし1930年代から1940年代に掛けてというもの、アメリカでは農用トラクターに乗用車並の汎用性を持たせる試みが幾度と無くなされていた。それが農家の負担を軽くすることになると信じられていたことは言うまでもない。


新たにCJ-3BがベースとなったファームジープはCJ-3B自体が輸出を強く想定していたこともあって程なくして日本にもやってくることとなった。輸入された正確な台数は定かではないのだが、北海道には少なくとも126台が導入されたとの記録が残っている。これらはいずれも各地でトラクターとしての他に農家の自家用車というべきポジションと共に有効活用された。もともと軍用車として一世を風靡した名車である。ファームジープ化にあたってはサスペンションとフレームを強化していたこともあってその耐久性とパフォーマンスに不足は無かった。


しかしファームジープは短命に終わった。理由はあくまで汎用でありトラクターとしての性能となるとやはり専用機には敵わなかったからである。ファームジープには派生バリエーションとしてギアをさらにローギアード化しLSDも装備したジープ・トラクターも存在していたのだが、それでも専用機としてのトラクターには性能的に及ばなかった。


ファームジープが生産を終えた正確な年月は定かではないものの、CJ-3Bの後継機種として登場したCJ-5に採用された後程なくして消滅したと言われている。しかしジープ用の社外3点油圧ヒッチ自体はそれなりの需要があったことから1960年代半ばまでその姿を見ることができた。


ウイリス・ファームジープ、それはトラクターと乗用車の狭間に存在した過渡的なモデルだった。しかしその汎用性自体は完全に否定されたわけではなく、ファームジープとほぼ同時期に考案されたメルセデス・ベンツ・ウニモグは現在でも一部農用に活用されている他、高速性能を備えた多目的トラクターとしてはイギリスのJCBファストラックなどにその精神は引き継がれている。






油圧ヒッチはダンパーメーカーとしてもその名を知られていたモンロー製である。このヒッチユニットは汎用性に優れていたことから、それまで機械式ヒッチしか装備されていなかったトラクター用のレトロフィットパーツとしても重宝された。ヒッチユニットの下に見えるシャフトは後部PTOである。