Chateau Lagrange 1985

Ch Lagrange 1985

実家のワインセラーシリーズです。


シャトーの格付けは最上級(グラン クリュ)

シャトー ラグランジュ

デュシャテル伯爵ボルドー・メドック地区の赤ワインは、古くからフランスワインの女王として世界のワインファンの垂涎の的となってきました。シャトーラグランジュは、この公式格付けで、グランクリュに選ばれたわずか58シャトー(その後分割もあって現在61)のさらにトップ3分の1の中に数えられた名門中の名門です。シャトーの歴史は古く、すでに17世紀初頭には、王室砲兵隊輜重隊長のジャン・ド・ヴィヴィアンの所有だった旨が、古文書に記されています。また「1706~1724」年版のマッセのワイン地図にも、すでにLa Grangeの名で記されており、さらに19世紀には、ルイ・フィリップ朝で商農大臣、大蔵大臣、内務大臣を歴任したデュシャテル伯爵がその所有者になり、シャトーの名声を栄光の頂点にまで引き上げました。伯爵は城館や醸造所を、ボルドーでも屈指の規模のものとしたばかりでなく、葡萄園の土中に素焼きの土管を埋めて水はけをよくする等、今日まで受け継がれている画期的な栽培技術を開発、ワインの品質を見事なまでに磨き上げました。ラグランジュがグランクリュに指定されたのも、まさにこのデュシャテル伯爵所有の時代のことでした。しかし、その後、ラグランジュの名声は、ゆっくりとその輝きを薄れさせていきます。1925年にこのシャトーを引き継いだセンドーヤ家が、1929年の大恐慌と戦争で経済的に没落してしまったのです。シャトーは荒廃し、畑は周辺から切り売りされるという、冬の時代の始まりでした。

1983年 ― 新生の年 ―

1983年12月15日、サントリーはこの名門シャトーの経営を引き継ぎました。欧米以外の企業によるフランス政府の認可がおりたのは、サントリーが初めてのことでした。しかし、当時のシャトーラグランジュでは、かつて広大を誇った敷地も、最盛期の300haから157haとほぼ半減に近く、醸造設備は旧式、従業員はわずか13人とすでに限界をわっており、城館も荒れるがままにまかされていました。この現状を前に、サントリーはきわめて単純な目標を立てました。すなわち、この葡萄園の土壌が本来そなえている実力を、再び最大限に引き出すために、すべてを作りかえること。しかもその改善を可能な限り早く行うことでした。そしてこの目標のために、サントリーでは、かつてボルドー大学でワイン醸造研究所長を務めていたフランスきっての醸造学者エミール・ペイノー博士に協力を要請しました。博士はボルドーワインの近年における飛躍的な品質向上の最大の功労者で、「現代ボルドーワインの父」という異名をもつ人物。すでにこの時、伝説的ともいえるシャトーマルゴーの再生を達成していましたが、ラグランジュではサントリーの依頼をうけて、さらに思い切った改造計画を立てました。「なぜならここではすべてをゼロから造り直すことができたからです。我々は、いわば夢をつかもうとしたんですよ」。こうして新生ラグランジュの総責任者には、ペイノー門下の高足マルセル・デュカスが就任し、サントリーからは同じくペイノー門下の鈴田健二が参加、畑から醸造、貯蔵、そしてシャトーのシンボルともいえる城館や庭園にいたるまで、徹底的な改造計画がスタートを切ったのです。


シャトー ラグランジュ サントリーが入手した際の最大の幸運は、土壌の優秀さでした。先代のセンドーヤ家が、土地の切り売りを、周辺の、最も力の劣った部分から少しずつ進めていったため、結果として、かつてのラグランジュの最も優秀な部分、いわば精随ともいえる場所だけが残されていたのです。当時でさえ、多くの専門家が「土壌がもつ潜在能力という点では、メドックのトップ10シャトーに匹敵する」と評価していたのは、そのためです。そして、その潜在能力を可能な限り引き出すことが、当面のサントリーの最大目標となりました。


手摘みの収穫作業1983年の時点で、原産地呼称証明のついた畑は113ha、しかし、現実に葡萄が植えられていたのは、わずか56haのみでした。しかも品種の割合はメルロ種がほぼ半分という、メドックのグランクリュとしては例外ともいえる植え付けで、台木も、どちらかというと多産系のものが選ばれていました。この問題点の克服が、畑における第一の課題となりました。このため、まず第一に、従来の畑では剪定を極端なまでに強めに行って、樹1本あたりの収穫量をおさえ、品質の確保を図るとともに、'85年から新しく植え付けた畑では、すべて少量生産・高品質系の台木およびクローンを選び、かつカベルネ・ソーヴィニヨン種の比率を高めるとともに、ボルドーの伝統的品種であるプティ・ヴェルドの植え付けも進めました。

醸造


樽熟庫従来の醸造設備はすべて廃棄し、最新式の温度コントロール装置をそなえたジャケット式ステンレス製発酵タンクを、メドックで初めて導入しました。しかもその発酵タンクを数多くそろえ、その結果、品種ごと、区画ごとに、すべてを別々に醸造することが可能になり、アッサンブラージュ(ブレンド)の際のセレクションの幅が大きく広がりました。発酵は、メドックのグランクリュの伝統を忠実に守り、できるだけ高めの温度(28~30℃)で長時間(15~20日間)行い、果皮や種子からの成分を充分に浸出させます。なお、この新しい醸造設備は、1985年のワインから使用されています。

アッサンブラージュ・樽熟成

現在のラグランジュでは、畑を小さな区画に分け、数多くの発酵タンクで別々に醸造する方法をとっています。これによりアッサンブラージュ作業が自由にかつ厳密に行えるようになりました。つまり、基準に満たないワインをはねることが容易になったばかりでなく、年ごとの個性を最大限に生かしつつ、絶妙のバランスを達成できるようになったのです。また、’83年のヴィンテージからは、主に若い樹齢の葡萄を使ったセカンドラベル「レフィエフドラグランジュ」を設け、シャトーものの品質基準を一層引き上げました。なお、毎年の新樽の使用率は、酒質とのバランスを考慮して決定しています。ただやみくもに新樽を多用するのではなく、あくまで酒質との調和を重視するのが、ラグランジュのフィロソフィーなのです。

未来へ

新生ラグランジュは、その設備面に関する限り、1985年に完成、それによる飛躍的なまでの品質向上は、世界のワイン関係者の注目をあびました。しかし、葡萄園が完璧な状態に達するのは、まだまだ先のことです。セカンドラベルは別として、シャトーものの品質基準に見合う葡萄は、通常、樹齢が20年をこえた葡萄樹からしかとれないのです。つまり、サントリーの手で新たに植えた優秀な苗木が、ラグランジュの主力となり、ワインの品質が新しいステージにステップ・アップするのは、早くても2005年頃、さらにそのワインが飲み頃に達するまでには――言いかえるなら、新生ラグランジュが真の開花を迎えるまでには、その上10年・20年の熟成の歳月が必要なのです。グランクリュシャトーでのワインづくりとは、このようにして、子孫の世代のために「時」を植え続ける仕事なのです。
ファインズ より)


メドック格付け第3級。AOC St-Julien

力強く、凝縮した果実味が感じられ、安定した品質で常に人気のワイン。実力のわりに低価格といえます。

作付面積:カベルネ・ソーヴィニョン64.8%、メルロ27.9%、プティ・ヴェルド7.3%
ワイングロッサリー より)


1983年にサントリーがオーナーの格付けシャトー。
欧州の企業以外で、初めて格付けをもったシャトー手に入れたサントリーは、それまで、旧式の醸造設備や手入れされていない荒れ果てたブドウ畑でしたが、ワインの蔵だけでなく、ブドウ畑にまで徹底的に改良。
いまや、3級格付けの名に恥じない(いやそれ以上の)品質と評価をてにいれました。
もともと高品質のブドウを栽培できる潜在能力をもっており、この劇的変化には、世界中のワイン評論家から愛好家までが驚きを隠せなかったほど…

味わいからは想像出来ない程の手頃な価格はかなりお買い得!
ボルドーらしい芳醇な香りと味わいをもっていながらも、比較的若いうちから美味しく飲めるワインです。

 

 1983年以前、ラグランジュ(第三級)は1960年代と1970年代の痛ましい一連の品質により、その評判は大きく傷つけられた。ここは『グリュオ・ラ・ローズ』に隣接するよい場所にあり、珍しく分割されていないブドウ畑であるため、よいワインを生み出せぬ理由はないのである。

1983年に日本の大企業である『サントリー』がラグランジュを買収し、このシャトーとワイン蔵だけでなく、ブドウ畑にも驚くほどの改良を加え始めた。
投資が無駄になることはなく、管理を行うマルセル・デュカスや、このシャトーの若くて熱心な醸造学者である鈴田健二といった有能な人々が、非常に短期間の間にすばらしいワインをつくるようになった。
単にワインの品質が向上しただけでなく、ラグランジュは今や、静かな庭や湖に野生生物が集う美しいシャトーとなったのである。

1985年以降のヴィンテージが何らかの特別なスタイルを示しているとするなら、それはまさしく厳しい選別とシュル・マテュリテの要素を持つ非常に熟したブドウの収穫の賜物で、多くのタンニン、トーストしたような新樽の香り、汁気が多くて肥えた滋味が完全に結合して醸し出す、印象的な深みのある味わいという点であろう。
明らかに、新しい所有者たちは、20年もしくはそれ以上熟成することが可能でありながら、若いうちでも魅力のあるワインをつくることに余念がないようだ。
世界のマスコミは、メンツェロプロス家による『シャトー・マルゴー』の驚くべき方向転換を賞賛してきたが、『シャトー・ラグランジュ』における変化については、1990年に『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙が、驚いたことに一面で取り上げたことはあったものの、これまであまり書かれてこなかった。そのせいかどうか、このワインの価格は、向上してきた品質レベルにしてはかなり低く抑えられている。

講談社 『BORDEAUX ボルドー 第3版』
Wassay's より)


セカンドワインはles Fiefs de Lagrange レ・フィエフ・ド・ラグランジュ


シャトーのHPはこちら