セミがあんまりにもそこかしこで求愛しているものだから、
ここが首都圏であることなんて、忘れてしまいそう。
きっと目を閉じれば、僕はまだあの場所にいるんだ。
そんな気がした。
大きく開けた窓から、熱気をくぐり抜けた涼風が頬をなでる。
隣で一生懸命に回っているおんぼろの扇風機が大きな音をたてて、
自分だって頑張っているんだぞと主張した。
真っ白だったボディは少し褪せて、蛍光色のプロペラは所々経年劣化とか
いうもので欠けてしまっていた。
父が僕の一人暮らしの餞別にくれた扇風機。今は、住む人のいなくなった、
かつて家族とともに暮らしたこの家でせっせと回転していた。
その様は働き者の母の様でもあったし、せっかちな父の様でもある。
何かを思い出しそうになって、まぶたのシャッターを開いた。
青空にふんわりと流れる雲に僕の意識も連れていかれて、見てみたいと
思っていた高層マンションの屋上を漂う。
不意に大きな音がして、雲と一緒に浮いた僕は雲散霧消して部屋の中に落ちてきた。
セミがジジッ、と短く笑う。
余裕そうだ。君はもう、パートナーを見つけられたのかな。
向かいのおじさんの日曜大工で使うドリルの音が、静かな部屋を泳ぎ回った。
日曜大工……といっても定年退職をしたあのおじさんは、
毎日が日曜日で、だから家で仕事をしている僕は彼のうみだす音について、
もしかしたら世界で一番 詳しいかもしれないのだ。
耳の遠いおじさんの奥さんよりも。
おじさんに関心のない、娘さんと婿養子の旦那さんよりも。
胸から溢れそうな郷愁を、冷たい麦茶で奥までぐいと流しこむ。
だけど、僕のあんまり見えない左目の端っこに、結局彼女は居座った。
暑い季節。暗い部屋。彼女の手に、一筋の光。
赤い花が沢山咲いて、最後に彼女は四度、唇を動かして……
窓の向こう側の世界に、大きな花火を打ち上げた。
花火の残滓がつぅ、と流れて排水口に堕ちていったから、僕は少し安心したっけ。
人だかり、虫だかり、夏盛り。
ドタドタとせわしなく迫ってくる、階段を昇る複数の音。
部屋に咲いた小さな赤い花をひとつ摘んで、僕は裏口から家に帰ることにした。
ちりん……と一回。
風鈴が僕を見送ってくれた。