アンナプルナ・トレッキング | Wander the World

アンナプルナ・トレッキング

この旅の中で、ネパールでのトレッキングは絶対外せない!と思っていた。
その為に、シーズンである10月には絶対来ていたかった。
そして3日前、1週間のアンナプルナ・ベース・キャンプ(ABC)のトレッキングから、無事戻ってきた。
なぜこれ程多くの外国人が、何度もネパールに戻ってきてトレッキングへ出かけるのか、

今ではそれがよく分かった。


ガイドもポーターもつけず、初の一人トレッキングに挑戦。
普段は一人旅とはいえ、トレッキングや登山は誰かと一緒の方が楽しい、と思う派なのだけど、
今回は、大自然の中をもくもくと、一人で歩いてみたかった。


ネパールに着いてから、ミーナが連れて行ってくれた村をはじめ、
ずーっと、多くのネパール人に囲まれ、もてなされ、いい笑顔もらい、たくさんの親切をもらってきた。
チベットの旅に浸る暇もないまま、ネパールでの日々がすごい勢いで過ぎていった。


中国・西寧の宿で会った、トルコから自転車の旅をしているスイス人の男の子が言っていた。
「旅の間、美しい景色を見続け、ずっと色んな人の優しさを受けてきた。
時々止まって一人になって、心の整理をしたり、リセットする時間が必要なんだ。
その後は、もっと多くのことに感謝できるようになるから。そうでないと、何も感じなくなる。」
そう言って彼は、宿に自転車を置き、洗濯、読書、映画、と一人のんびり過ごしていた。
その直前、デンマーク人が同じことを言っていて、私も大きくうなずいた。


今がまさにその時だなぁと思ったのだ。
中国、チベット、ネパール・・ いやその前からだろうか。
出会いと再会、絶景、驚きの連続で、旅に慣れて感動が薄れていく、というのとはまた違って、
なんというか、心が満杯だったのだ。
ここらで一人、自然と対話しながらひたすら歩いてみようと思った。
インドに行く前の、束の間の静寂も良いだろう。
憧れのマチャプチュレ、アンナプルナにフォーカスする為にも。
(ガイド、ポーター費の節約、という理由もあるけれど。。。)


行く前は、多くの人に止められた。
迷子や怪我、強盗に襲われるケースもあるから、せめてポーターはつけなよ、と。
そこまで言われびびりもしたが、カイラスの峠越えで自信がついたこともあるし、
標高が高い寒い地で何が必要かも分かっていたから、荷物も極力少なくして敢行。


実際、もちろんずっと一人なんてことはなかった。
その時々に出会った旅人たちと歩き、部屋をシェアし、
幸運な出会いに助けられて、大きな事故もなく、毎日めちゃくちゃ歩いて、
そもそもきつい日程だったが、予定よりも1日早く帰ってくることができた。


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出発前の二晩、宿泊中のカルマGHの親父がよく相談に乗ってくれた。
限られた日程の中で、アンナプルナ内院(聖地)とゴレパニ、という2つの見所に行く私の希望に沿って、

ルートと日程を一緒にあれこれ考えてくれた。
(ちなみにこのGH、超お奨め!ポカラに着いた夜、どこの宿も満室だで疲れ果てていたところ、
彼は子供の寝ているリビングルームに布団を敷き、ただで泊めてくれた。ラブリーな家族経営!)


彼に見送ってもらい、ポカラの宿を出発。

1日目から私は、歩きまくった。
ひたすら続く急な上り坂がかなり応えたけど、意外とさくさく歩けてしまった。
道中出会うガイドもチェックポストの役人も皆、
「ポーターもいないんじゃ絶対不可能」と言ってきたフェディ→ニューブリッジ(村名)間をクリアするばかりか、
その先のジニーまで辿り着いた。ジヌーにある温泉までの往復も入れると、10時間以上歩いた。

ガイドブックでは二日半かけて歩く道のりだ。


これが突破できたのも、夕暮れ前に出会ったネパール人ヤンとの出会いも大きい。
体つきや英語を話すことから、絶対他のツーリストのガイドだろうと思っていたら、

香港生まれ、UK育ち、現在は東京のイギリス大使館で働いている、世界中を飛び回っている人だった。
トレッキングガイドのライセンスも持っていて、休みの度にこの辺を歩いたり、ガイドの仕事もしているという。
彼のおかげで、迷いやすい分かれ道も、めちゃくちゃ揺れる、古くて長い怖い吊橋も、
最後雨が降ってきてクタクタだった上り坂も、何とか頑張ることができた。


ただ、ジヌーの宿から温泉への道中が悲惨だったが・・。
サンダルで余裕だよ、言われたが、思いっきり崖道を滑り落ち、ズボンのお尻部分に穴が・・。

ズボンも悲惨だが、木が無かったら命が危なかった。大恐怖。
さらに、ライトを持って行き忘れ、帰り道は何も見えない真っ暗闇の中、狭い崖道を歩くことに。

1時間近く歩けど宿の光は見えてこない。
迷子?一歩踏み外せば、下へ転がり落ちるのでは・・という恐怖でまじで泣き出しそうなほど、怖かった・・
命からがら宿へ着いたら、今度は私の腕にも足にもヒルだらけでパニック。。
痛い、かゆい、離れてくれない、血が止まらない・・
その後の宿での温かい食事に、どれだけ癒されたことか。
そして、日本人の奥様を亡くされているヤンの話に涙して、その晩は更けていった。


翌日も、ジヌー→デオラリというハードな道のりを1日で歩いた。
カイラス巡礼3日間で何ともなかったのに、初日で足全体はパンパンに筋肉痛。
暑い日ざしの中、1時間半ひたすら石の階段を登ったり、
大雨で足が滑る中、下りと登りを繰り返す。
地元の男の子が、「この道、熊が出て大怪我したガイドがいるから、独りで歩かない方がいいよ」と

一緒に歩いてくれた。

バンボという村では、1時間前に到着したヤンが待っていてくれ、
デオラリまでは無理かな、と疲れきって弱気になっていたところを一緒に歩いてくれた。

ひたすら続く上り坂に途方に暮れ、薄暗い中、手すりの無い怖い橋を二つ越える。
ヤンがいなければ越えられなかったろう。

標高3300mのデオラリのロッジでは、

北・中南米に、音楽を聴きによく旅をするという日本人の初老の男性と出会った。
ABCは2回目だという。彼は本物だった。かっこいい。



3日目。いよいよアンナプルナ・ベース・キャンプへ!
雪を頂いたマチャプチュレ、アンナプルナのピークを見ながら歩く道中、
ABCから帰ってきた旅人の満足した顔に、テンションが上がる。

オージー2人とマレーシア人5人のグループと一緒に歩いていると、
ABCに先に着いたはずのヤンが戻ってきた。
「ロッジは既に満室だよ、ダイニングでさえ寝るスペースが無いから、君も戻るしかないよ」という悲しい知らせ。
(普通はガイドかポーターが先に行って部屋をとっている。)
が、どうしてもABCに泊まりたかったので、とにかく根拠の無い自信とともに歩き続けることに。
結果、なぜかあっさりベッドをひとつ確保でき、アメリカ人の本格クライマーと部屋をシェアした。

我々の部屋には、この先、アンナプルナサウスの登山を開始するという彼の、大量の荷物が置かれていた。
バックパックのほか、どでかい袋が三つ。キャンピンググッズ、調理器具、食糧、そして
アメリカから高い金額を払って持ち込んだという、

私には何に使うのかさっぱり分からない道具がたくさん詰め込まれていた。
(氷の中を捕まったり登ったりする工具?やらロープやら・・)
テンピークではつい2週間前、韓国人クライマー2人が亡くなっている。
今年の天候と状況を考えつつ、彼もまだ様子を見ている、と言っていた。
命を懸けて自然と向き合う人は、雰囲気がただならない。
フレンドリーなようでどこか近づき難い、孤高なオーラに包まれていた。


ABCでの標高は4100m。
頭痛緩和の薬を飲む旅人の横で、私はチベットで慣れたのか、酸素が薄いことにすら気づかなかった。
しかしその中、バレーボールを延々続けるガイドとポーター達はさすがにすごい。元気だな、おい。

部屋にいても寒いので、白い霧に包まれたベースキャンプを歩いてみた。
グルンやタマン族など、昔東チベットから渡ってきた人たちが多く住むアンナプルナ周辺。
タルチョが掲げられている場所を道中よく見かけるが、
乾燥した高山の麓でのそれは、まさにカイラスでの時間を思い出させてくれる。

そしてマレーシア人のKK達と、岩陰で風をしのいで、本を読んだ。
静寂と澄んだ空気に包まれた、最高の時間が過ぎていった。


夜中、トイレに行く際、星の近さに驚いた。

さらに翌朝得た感動は、私をいつかまたここへ、帰って来させるであろうと確信するほど、強烈なものだった。

多くの旅人がそうであるように。

5時半、外へ出た瞬間、思わず「わぁ・・」と声が出た。・・・すごかった。
目の前に、本当にすぐ目の前に、ヒマラヤ山脈が聳え立っていた。
横、後360度すべて、山に囲まれ、それも日の光で山が見えるのとはまったく違う。
月明かりと星の光に照らされ、山自身が抱く雪の白さによって、夜空にくっきりと浮かび上がっていた。
山の中から光が放たれているような、圧倒的な神々しさを放っていた。
今まで見た山の景色の中で、最も素晴らしいものだった。
雲ひとつなく、朝日に照らされて上から黄色く染まっていく姿もまた、息を呑むほど美しい。
最高だ。来て良かった・・ 疲れやきつい道中なんて、何でもなかった。
ABCは離れがたく、いつまでも眺めていたかった。



が、日程は限られているので、同日、チョムロンまで一気に下る。
ABCで会った中国人の朱峰(Zhu Feng/何と、エベレストを意味する)と一緒に。
下りメインとはいえ、後半はまたまた登りが続き、9時間以上歩き、さすがにきつかった。。
夕食の美味しいピザとモモに癒され、彼も2年前、カイラスを巡礼した、

という話を聞いて、二人で盛り上がりまくって随分遅くに寝た。



翌日、ABCの次のハイライト、ゴレパニを目指す。
が、その道中では旅人がぐっと減り、藪や棚田で迷いかける。
森林で2時間近く誰にも会わなかった時は、道違うんじゃ・・とかなり不安になった。
本当はそのままゴレパニまで行きたかったが、
普通は皆タダパニで一泊するため、午後はますます誰も歩かなくなるので、迷子を恐れて私も泊まることに。


イスラエルの女の子と部屋をシェアし、
「こたつ」状になっているダイニングで、旅人とカードゲームなどしてまったり過ごす。


翌朝、美しい茜空と、晴れ渡った空にくっきり浮かぶ雪山を堪能しての快適なトレッキング。
ゴレパニまでは、「6時間かかるよ」、と言われたが3時間半で到着。
「上り坂が相当しんどいよ」、と言われたが、ABCまでのそれ(&カイラス)と比べると何てことは無い。
誰も、ガイドもポーターもつけないアジア人の女の子がさくさく歩けるとは思わないらしい。
それも、日本人は特にLazyだと思われているようだ。(確かにアジア人は韓国人と中国人だらけ。)


昼前にはゴレパニに着き、久々の快適なホットシャワーを浴び、洗濯まで済ます。
(ポカラのカルマGHの親戚がやっている「Super View Rodge」は、超お薦めです。
 親切な男の子が眺め最高の部屋に移してくれ、部屋代を思いっきりディスカウントしてくれた。)



翌朝、トレッキング最終日。
4時半過ぎ、まだ真っ暗の中、プーンヒルの灯台へ向けて出発。
ここに泊まる人のほとんどが朝日を見に登る為、ヘッドライトで光の道ができ、時々渋滞が・・。
空には黄金色の月が輝き、山の向こうが橙色に染まっていく、

朝日が顔を出す前の、私が一番好きな空の時間を堪能した。
アンナプルナ連峰の景色ももちろん美しいが、180度しか見えないし、
ABCでのそれに比べると、迫力と近さに欠ける。
ABCまで行かず、ゴレパニを目指してポカラへ戻る人たちは「どこよりもここがBest!」と興奮していたが、
ABCへ行ったら訂正すると思う。ただ朝焼けがとても美しかったので、良し。


その日一気に、ナヤプールという村まで下る。
グルン族のご夫妻がちょうどポカラの家へ戻るというので、一緒に歩いた。
照りつける日差しの中、急な坂をひたすら下る7時間。
膝が相当応えてきた15時過ぎ、ナヤプールへ到着。
ローカルバスでポカラへ戻り、何でも手に入る宿街へ辿り着いてようやく、
「あ、無事帰って来れたんだ」と成功を噛み締めた。

「君は他のトレッキング帰りの人たちと違って、

とてもFresh、元気に見えるね」と果物屋の兄ちゃんに言われた。
よく行くレストランのスタッフ達に挨拶をして、一週間ぶりの我が家カルマGHへ戻ると、
宿の親父も、早い帰りに驚いていた。私もびっくりである。
健康で、丈夫な体に生んでくれた両親に心から感謝した1週間だった。



戻ってきた日は、ネパールビザが切れる3日前。

翌日は、ミーナとサルーの村での写真を現像してアルバムを作り、ミーナの家を訪れた。
彼女の予定は一日早まり、翌朝にはカトマンドゥへ、そしてオーストラリアへ飛ぶという。
トレッキングから1日早く戻ってこなければ会えなかったので、早く歩いて大正解だった。

ちょうど、Dipawdy Tiharという、ネパールで2番目に大きい祭が始まったところで、
ミーナの家も村も通りも、キャンドルでライトアップされ、

外から家の祭壇へとキャンドルが敷かれて、神へと続く道ができあがっていた。

子供たちは歌い、踊り、皆が幸せそうだった。


ミーナを見送るために、たくさんの友達が彼女を訪れ、
皆でナイトマーケットに出かけ、いよいよミーナとお別れ。

お互い明日、ネパールを去る。彼女はオーストラリアへ、私はインドへ。

私のネパール滞在は、彼女無しでは語ることができない。
それに加えて、アンナプルナトレッキングの素晴らしさ。


ネパール、この小さな国に詰まった素晴らしさを、大満喫した一ヶ月だった。


写真はコチラ。

トレッキング →

http://cid-ab4bac6e632b84af.skydrive.live.com/self.aspx/.Public/12%20in%20Nepal/06%20Annapurna%20Trekking

Dipawdy Tihar祭りなど →

http://cid-ab4bac6e632b84af.skydrive.live.com/self.aspx/.Public/12%20in%20Nepal/07%20Dipawdy%20Tihar%20Fes.in%20Pokhara