霊感者の倫理 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

カトリックの修道女で、死の看取りの分野などで活躍し、多くの著作もある鈴木秀子さんが書いた『臨死体験、生命の響き』という本を読んだことがあります。

 

彼女が奈良の宿泊先で誤って高い階段から落ちて、臨死体験をしたのは、もうずいぶん前のことだそうですが、その後の臨死体験研究で多く報告されているように、「臨死体験をした人は、サイキック能力(予知などの超常的能力)が一時的に昂進することがある」というのは、彼女についても起こったそうです。もっとも、そういう能力がつくことを、臨死体験後の自分の心境向上の本質的部分と受け止める人は、まずいないそうで、臨死体験者は、もっとほかの意味での人生に対する積極性の獲得こそが、貴重なたまものだったと、異口同音に言うそうですが。

ともあれ、鈴木秀子さんの場合も、ふしぎと予知が当たるという現象が起こり、その噂が口コミで広がった結果、一時は、彼女を訪れて人生へのアドバイスをもらおうとする人がふえて、門前市をなす状態になったことがあるそうです。

そのうちに、たんに人生への指針を得たいという人だけでなく、背広を着たひとかどの紳士と思える人たちが、目的は言わずに、ただ「何日の何時何分?」という質問だけをもってきて彼女の前に列をなすようになり、鈴木さんは、おのれの霊感で感じるままに「○日○時○分」と答えるということをしばらく続けたそうです。が、あるとき、「あの紳士たちは、株の相場師で、最適な買い時、売り時を鈴木さんの霊感判断で聞き出そうとしているのだ」ということを知りました。


このとき彼女は、「私の霊感判断は、もうこれ以上続けるべきでない。今が引き時だ」と感じたそうです。それ以後、死にゆく人々の看取りなどの活動へと、彼女は軸足を移してゆくことになります。

さすが修道女。この「引き時」の判断は当を得たものだと、私も評価します。

彼女の「○日○時○分」という霊感判断は確かに当たっていたのだと思います。だからこそ、先立つ者の成功例を聞きつけた相場師たちが、つぎつぎと押し寄せるようになったのでしょう。

が、霊感という特別な賜物を授かった人間には、それを何のために使うかにつき、ある種の自制心なり倫理というものが必要だと思います。「相場」のようなものについて、「買い時」や「売り時」を判断してやるということは、たとえ当たったとしても、しょせん「ゼロ・サム・ゲーム」(ゲーム参加者全員の利得と損失を合わせればプラスマイナスゼロになるようなゲーム)の一部当事者に、他の当事者の犠牲において、利得をせしめさせる結果にしかなりません。

霊感は、みんなが幸せになれる方向に寄与するかたちでのみ使うべきで、この一線を逸脱するなら、長い目で見てろくなことにはなりません。霊感のある人は、それが常人にない能力であるがゆえにこそ、その使い方については、きちんとした倫理を自覚すべきだと思います。刺身包丁を扱う料理人に、それを刃傷沙汰の喧嘩の一方の側に加勢するために使ってはならないという倫理があるのと、似たようなことだと思います。