略字は戦前だってよく使われていた | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

ここ三回にわたって、近年のわが国で盛んになっている「正字体」への過度のこだわりが、当事者には「伝統の重視」であるかのように意識されているものの、仔細に検討すると、むしろ漢字筆記の伝統に反する部分も含んでいるということを明らかにしてきました。

特に、「横山」などという苗字の人が、「私の苗字の『よこ』は、常用漢字の『よこ』ではなく、横棒が一本多い『橫』ですから、そのとおりに書き写してもらわなければ困ります」などと主張するとすれば、それは、楷書書道の伝統からいえば根拠のないおかしな主張であるということを、この際、しっかり確認しておきたいと思います。

戸籍が「横山」であろうと「橫山」であろうと、それは、楷書体に近づけた形の活字か、康煕字典体というデザイン文字をそのまま受け継いだ活字かの違いにすぎず、楷書で書くときの「横」は、昔も今も「横」でよいのです(どっちが「正字」であるなどというのは、はっきり言ってナンセンスです)。

それなのに、学生のレポートなどを見ていると、1980年代ごろから、わざわざ「橫山」と署名するような例が出てきました。「なぜですか?」と問うてみると、当事者は「戸籍の文字がそうですし、学籍簿にもそう登録されていますから」と答えるのです。

同じころから「齋藤」だの「渡邊」だの「渡邉」だのいう署名をする学生も多くなりました。これらの苗字の場合は、確かに「斎」は「齋」の略字であって、「辺」は「邊」もしくは「邉」の略字ですから、略字と「戸籍上の文字」とは楷書で書いても異なる文字であり、「戸籍どおりならこうです」と当事者が主張することには、それなりの合理性があります(ただし、前にも言ったように、「渡邊」や「渡邉」の「しんにょう」を「点ふたつ+平仮名の『ろ』の字の形」に書くことは、書道的観点からみて誤りですけれど)。

昭和30年代ごろは、こんな署名をする人は世の中にほとんどおらず、「さいとう」さんは「斎藤」、「わたなべ」さんは「渡辺」と署名するのが、あたりまえになっていました。

復古派の人たちは、そのころの現象を「政府が漢字制限という反文化的政策を推し進めて、『正字』を強権的に追放しようとしたから起こったことだ」と評し、1980年代ごろから盛んになってきた「むずかしい文字に戻す」風潮のことを、「日本の正しい伝統への回帰である」と評するのが常ですが、私は、この主張についても、かなり強い疑問をもっています。

当用漢字の新字体が制定されてまもないあの時代に、ほとんどの人が抵抗なく「斎藤」や「渡辺」と署名するようになったのは、戦前以来、もともと日常生活上はこうした略字を書くことが広く普及していたからこそではないかと、思うのです。

このことを正確に立証するためには、戦前期の手書きの手紙などの資料をたくさん集めて、統計をとる必要があるので、国語学者でない私には、そういう作業に時間を割いているひまはありませんけれど、二つだけ、例を挙げておきましょう。

昭和30年に制作された『人間魚雷回天』という映画では、昭和19年(1944年)の瀬戸内海の海軍基地が舞台として設定されていますが、そこに出てくる「たなべ」という苗字の一等水兵の胸に縫い付けられている布製の名札には、略字体で「田辺一水」と書かれています。この人物の苗字の戸籍上の表記は「田邊」もしくは「田邉」だったに違いありませんが、そんな画数の多い文字を小さな名札の上に正確に墨書するのはたいへんだったから、世間通用の略字を使って「田辺」と書いたのでしょう。

また、その一年前の昭和29年に制作された超有名な映画『二十四の瞳』の中では、主人公の子どもたちが小学校六年になって、「将来への希望」という題の作文をしている場面が出てきますが、時代設定は昭和8年(1933年)であるにもかかわらず、生徒が「教師」という言葉の「師」の字を、今の字体よりももっと大胆に略した、「へん」の部分が片仮名の「リ」の形になっている字体で書いているようすが映し出されています。大石先生が「これは略字だからいけません。正しく『師』と書きなさい」などと、よけいな指導をする場面はありません。つまり、当時は教育界でも、「正式な字はこれこれ」と教えながらも、時と場合に応じて略字を用いることは大幅に許容されていて、その点についてあまりやかましいことは言わないのがふつうだったようなのです。

今年の大河ドラマ『八重の桜』の中でも、会津戦争に先立ち、会津藩の士族の女性たちが、自決覚悟で遺書のようなものを書き残す場面で、「会津」を「會津」とは書かずに、私どもが現在使っているのと同じ文字で「会津」と書いている映像が、ちらっと出てきました。これが実態だったのでしょう。私は「さすがはちゃんと時代考証しているなあ」と思いました。なまじっか「伝統」を重んずる連中に脚本を書かせれば、その場面で女たちは当然、当時の正しい字を使って遺書を書いたはずだからと考えて、「ここで『會津』と墨書する」などという、おせっかいな注記を入れた脚本を書いてしまったでしょうけどね。