日本語の発音単位は「拍」 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

東京都で選挙のたびに立候補する「ドクター中松」という人がいらっしゃいます。本職は「発明家」だそうで、ご自宅の建物を見ても、かなりの資産家であることは確かです。選挙ではいつもごく少ない票しかとっていないので、悪く言えば「泡沫候補」。供託金没収を覚悟で出馬するのは、資産家としての一種の趣味のようなものかもしれません。

私は、そのこと自体をどうこう言うつもりはありません。そういう人も自由に立候補してよいのが自由主義社会というもので、その恩恵があってこそ私どもも自分の好きな社会的活動をいろいろとできているのですから。

今日、話題にしたいのは、その人のお名前のローマ字表記のことです。選挙のお好きな人だけあって、ご自分のお名前の宣伝には余念がなく、ご自宅のある角地の目の前の交差点を「Dr. Nakamats Square」、そこを通る道路の一方を「Dr. Nakamats Street」、もう一方を「Dr. Nakamats Avenue」と名づけて、そう書いた標識を掲げておられます。もちろんこれは自治体などが認めた「公式」な名称ではありませんから、そんな標識を自宅の敷地外の公道に立てたら、ただちに当局から撤去を命じられるでしょうが、敷地内に立てているのだから、だれからも文句は言われません。

私が話題にしたいのは、その標識での「中松」のローマ字表記が、正式なヘボン式に従うなら「Nakamatsu」であるべきところを、わざとそうせずに「子音止め」にしているという点です。私は「ははあ……」と、思い当たるところがありました。いかにも「国際派」を自称する人がやりそうなことだからです。確かに、外国人に読んでもらうときの便宜を考えると、「Nakamats」という表記には、一定の合理性があります。日本語の五十音図の「ウ」の段の母音は、他の言語の「u」音に比べると非常に弱く、ほとんど母音と聞こえないほどです。だから、助詞の「です」などは「des」と書いたほうが、外国人にそれらしく読んでもらえるとして、それを実践する人が、「国際派」の中にはときどきいます。同じ理由で中松さんも「私の苗字は、Nakamatsu などという野暮な書き方をするよりも、Nakamats と書いたほうが、それらしく読んでもらえるんだから、国際人としての誇りをもってこう書くんだ」と考えておられるのでしょう。

しかし、日本語の正書法としてのローマ字表記を構想するとき、このような「子音止め」を取り入れてよいかどうかという問題になると、これはもっと別様に考える必要があります。それは、日本語の発音が「拍」と呼ばれる基本単位の積み重ねでできているという事実と密接に関係してくることです。

「拍」は、英語では「mora」と言いますが、世界の他の多くの言語で発音の基本単位とみなされる「音節」(syllable)とは別の概念で、短歌を三十一文字、俳句を十七文字というときの、あの「文字」の概念と一対一に対応するものです。「拍」の観点からみたとき、「中松」は明らかに四拍の単語で、最後の「つ」は一拍の長さ、つまり、短歌や俳句でいうところの「一文字」ぶんの長さをもっています。その証拠に、「中松は」とか「中松が」とか言えば短歌や俳句では「五文字」ぶんに数えられ、俳句の上の句を構成することができます。母音が消え入りそうなほど弱く発音されるという事実とは関係なく、「拍」の長さとしてはちゃんと一拍なのです。このことをしっかり反省した場合、「中松の最後の母音なんか、ないも同じだから、書かないほうが国際的なんだ」という「国際派」の言い分を安易に認めることは、かえって日本語表記としては混乱を招く恐れがあるので、避けたほうがよいということになります。

このこととの関係で、私がもう四十年ぐらい前から気になってならない、問題のある表記があります。そのころから、「パーティー」という外来語を「パーティ」と書く人が非常に多くなったということです。「パーティー」は明らかに四拍の単語です。その証拠に助詞「に」をつけて「パーティーに」とすれば五拍となって、俳句の上の句を構成することができます。「ティ」という綴り自体は、外来音の「ti」を写すために生まれた綴りで、拗音の「チャ」や「チョ」などと同様に一拍です。その証拠に、楽器の「timpani」(イタリア語)をわれわれは「ティンパニ」という綴りで写して、四拍に発音しているではありませんか。

1960年にアメリカ合衆国で John Fitzgerard Kennedy が大統領に当選したとき、新聞は彼の苗字を「ケネディ」と写したのに、テレビのアナウンサーは、明らかに「ケネディー」という表記に対応する四拍の発音をしていました。今でもこの習慣は続いています。「ケネディ」を日本語表記の正しい原則にしたがって発音するなら、三拍に発音しなければならないはずなのに。「ティ」や「ディ」をまるで二拍であるかのように思う世間の誤った意識は、あのころから生まれてきたのではないかと思われます。その結果が、「パーティー」という四拍語を「パーティ」と書いて平気でいるような、乱れた日本語表記につながってしまったものと思われます。

日本語の発音の単位としての「拍」の概念の大切さと、「ティ」や「ディ」は一拍であって二拍ではないこととを、国語の先生方はこの際、くどいほどしっかりと生徒に教えてほしいものです。