カルマの法則と輪廻転生⑧ | 法友(とも)へ

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解脱するまで解脱とは何かが分からない。

 

教義とは解脱に至る道を説くものである。

 

したがって教義もまた理解出来ない。

 

それゆえに信ありて悦ありとなる。

 

 

けっして理解してから悦があるのではない。

 

解ありて悦ありではない。

 

あくまでも、信ありて悦あり、である。

 

 

そして実際には、実践しなければ悦は有り得ない。

 

しかし、信じなければ実践はしない。

 

よって、そこにあるのは選択だけである。

 

信じたければ信じればいいし、信じたくなければ信じなければいい。

 

それは個人の自由だ。

 

理解できないのだから、それが正しいか間違っているかの判断も出来ない。

 

判断できるのは、それが社会常識から外れているのか、法に触れるのかという事だけである。

 

その教義や修行法が正しいのか間違っているのかなど、解脱するまで分かるわけがない。

 

 

だからといって、中途半端に実践したところで結果は得られない。

 

だが、修行者にとって、そんな事はどうでもいい。

 

見返りを求めず、全精力を傾けて修行に打ち込む。

 

修行者とはそういうものなのだが、そんな魂はごくまれにしか存在しない。