解脱するまで解脱とは何かが分からない。
教義とは解脱に至る道を説くものである。
したがって教義もまた理解出来ない。
それゆえに信ありて悦ありとなる。
けっして理解してから悦があるのではない。
解ありて悦ありではない。
あくまでも、信ありて悦あり、である。
そして実際には、実践しなければ悦は有り得ない。
しかし、信じなければ実践はしない。
よって、そこにあるのは選択だけである。
信じたければ信じればいいし、信じたくなければ信じなければいい。
それは個人の自由だ。
理解できないのだから、それが正しいか間違っているかの判断も出来ない。
判断できるのは、それが社会常識から外れているのか、法に触れるのかという事だけである。
その教義や修行法が正しいのか間違っているのかなど、解脱するまで分かるわけがない。
だからといって、中途半端に実践したところで結果は得られない。
だが、修行者にとって、そんな事はどうでもいい。
見返りを求めず、全精力を傾けて修行に打ち込む。
修行者とはそういうものなのだが、そんな魂はごくまれにしか存在しない。