『きことわ』 朝吹真理子 | 象の夢を見たことはない

『きことわ』 朝吹真理子

若いというのは瑞々しいと同義というような、それだけでよかった時代というのは果たしてあったのかはよくわからないが、若くて才能が開花している女の作家の人たちを最近よく見かけるようになった。そんな気がする。
男の作家は、こんな時代ですらいつまでたっても足が遅いのだが、延びシロというのも不思議とそんなオボコさの中にあるのかもしれない。。さあ、どうだか?
それはともかく。

『蹴りたい背中』以来、ハードカバーの受賞作を買ってなかったのでどこかで比べてしまう。若いというだけで作風もぜんぜん違うのだけど。光景の描き方はどこか似てるかも。
貴子(キコ)と永遠子(トワコ)。共に過ごした葉山の夏から25年。
ここに描かれているような、記憶と夢が混じり合う感じは確かにわかる。わかるのだけど、うそくさく思えるところもあり。そこが若さといえば若さなのかもしれない。とはいえ、「なんでこの若さでこんなこと知ってるの?」とか、「うーむ、まだそこの境地まで辿り着けてないわ、オレ」っていう箇所もあり。老成というのとはちょっと違うのだけど、なんなんだろうなあ。佐藤亜紀も大学の文学部の博士課程出ててなんだか同じような視点を持ってるなあとおもったのだが、他人がしている事を見て、我が事のように感じる共感(エンパシー)能力があるというか。でもその域をはるかに超えてしまっていて。ミラーニューロンの発達ってだけでは説明つかねえんじゃねえかという、霊感っぽいところとか。10代後半から20代くらいの女の人ってそうなのか?昔大学の同じクラブにいた同期や後輩の女のコたちもそういうところあったのだろうかと。なんか確かにそんなコがいたように思えてしまう。

この人独特だなあと思ったのは、読みながら自分の子供の頃の、今まで思い出したことのなかった記憶がスルスルと出てきたこと。小学校の校舎のコンクリートの乾いた溝に水が流れていく光景だとか。登校中にふとカーブミラーを覗きこんだことだとか。不思議にそういう自分の記憶を誘う。向田邦子さんのエッセイとはちょっと違う。向田さんのエッセイの場合には、彼女の記憶の中にこっちが入り込むのだけど、この本の場合、自分の記憶の中へ誘い込まれる。女の人にしか書けないなあ、こういう文章。やわらかい水のような。読んでいるときだけ自分の中の時間の流れも変わる感じ。芥川賞、審査員10人で7点獲ったというのには「なるほどぉ」と。

だがしかし、村上龍がRVRで言っていたこともわかるような気もする。
巧いというのはあるのだが、髪の話をさらに詰めれたらと思うと。
どこかやはりドライになるのだなあ。というか避けるというか。
でも中上健次の『枯木灘』だって最初は『岬』から始まるわけで。

もうちょっと様子は見たい気もするが、綿矢りさも『蹴りたい背中』以来読んでないのだよなあ。忘れてしまいそうな気もする。
読み終わったあと、そのなかの何かが感情のどこかに引っかかったままになるっていうのがないとやはり次を読む気がなくなるのだよ。サラリとまとめないで生のまま放りだしておくくらいの根性を見たいなあと。ただ生ったって、生乾きのスウェットでスーパーに買い物に行く女の人のようなじっとりした作品は嫌だが。
そういう点で昔の女の人が書いた作品のほうがどこか男っぽいとこがあり好きなのだなあ。。じじいだなあ、おれも。龍氏とかわらん。
ただ、龍氏が言うように「ただ、なんていうのかなあ、小説とか文学の世界だけで、こう、完結するようなものは、ボクはあんまり好きじゃないんですよ」と。あー、まったく。。