矛盾する思想が人の中に同居しているのはなぜなんだろう?
『EV.CAFE』をずっと読み直していた。
坂本龍一も村上龍もまったく彼ら自身の中で矛盾しているのだけど、それを敢えて無視しようとしてるのか、そこは見えないように自動的にマスクされてしまうのか。
自分の中にもそれはあって、とくに好き嫌いの部分の中に。
例えば、中島みゆきは好きで長淵剛は嫌い。
どう考えてもどっちも演歌だし。
どっちも自分に酔っているし。
どっちも歌唱的にまとわりついてくるし。
そんなふうに自分の中で分析していくとまったく矛盾してしまう結果に終わる。
好きとか嫌いに理由はなくて、もっともらしい理由は後付けで自分の脳がでっちあげたものだと。
そういう話が池谷裕二氏の本の中にある。
脳科学的にはそうらしい。
結局、後付けで考えた話だからどこかで破綻するわけだけど、まったく相矛盾する帰結を生む結果になってしまうのはなぜなんだろうと。
それぞれの人の中には、コンプレックスとかトラウマとは違う、それよりもっと根源的で生理的な本能的なコアがある。
それはまったく相矛盾するベクトルを持っていて、それによって、これはこっちに、それはあっちに無意識的に振り分けられてしまうとか。磁石のN極S極の境目みたいのがあって、そこで全く逆転してしまう。そこの振り分けはとっても強固で。だから、矛盾してしまうとか。そんなふうにそれは表裏一体になっていて、それこそが生物の宿命で、宇宙の根源的な成り立ちがそうだからとか。
やっぱ、この本を読んでると病むわ。哲学ってほんと無駄な学問だなあ。
無駄じゃ無駄じゃ。
もっと動物的に生きるほうが健全だよ。
もうういい、わかった。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
それでいいことにする。
理由なんてどうでもいい。
所詮欲望なのだ。
欲望に高尚もへったくれもない。
相矛盾するコアで決定されるなにかに理由づけなんてできるわけはないのだ。
そういうことにしておこう。
だからいいのだ。
モンキー、モンキー、猿は猿
ティファニーで朝食を食べたとしても。
後記 2.11 AM11:51
ああ、そうか、やっとわかった。
脱構築のあと、世界にまともな哲学潮流がなくなった理由が。
基本的にあそこですべて解体されたのだ。
あるいは彼らが意図して解体した節がある。
そして『知の欺瞞』でその衒学部分にとどめを刺された。物理学者によって。
それにいちはやく反応したのが日本では浅田彰だったというのもなんだかよくわかる。
85年の時点で彼も既に脳科学を暗黙的に希求しているように思う。
浅田彰の『構造と力』は意図してるのかしてないのかわからんが、言ってることが現象学的に脳科学というか神経システムを社会モデル化しているようにしか思えないし、蓮實重彦もどうやらそういうものを希求してるのを自身で薄々わかってた。だが文系の学者という立場上自分から白旗を揚げる訳にはいかないわけで。。だから結論がいつもぼやけてたのか。後記 2.12 15:39
シナプスの長期増強や長期抑圧などによって神経回路それ自体を形成するための重みが内的に決定されるその要因というのは扁桃体によるもの?情動的な出来事に関連付けられる記憶の形成と貯蔵における主要な役割を担う扁桃体。結局それは遺伝子によって決まってしまっているのだろうけど、それ自身の決定に作用を及ぼすフィードバック機構もある筈で。結局、脳深部の機能なので好悪の感情を大脳がロジカルに意味づけなんて出来ない。でも、人間の活動の中で相互影響しながら育っていくわけだから、丹念に自分の中を追っていけば自分の好みはわかってくる筈で。でもそんなふうな後付けのものよりやっぱり直接的な生理的嫌悪みたいなもののほうが強くて女性の方が平均するとそっちの影響が強いっていう気がする、人によるのだろうけど。そういう正直さというのはやはり生きる上で強いんだろうと思うのだが、まあそれがやたら強い場合学習出来ないという面もあるので、あながちそうだとは言い切れない。まあそんなとこだろう。だから学習された美というのは当然あるわけで、それがその社会において高尚であるとかどうか、いろいろ喧々諤々されているだけなんだろうけど。ただそれだけの話。どっちもあっていいんだよ、結局。多様性というのが生物にとってその種が生き延びるための真理だから。どっちにしても、他人の評価は他人の評価、自分は自分。自分的には、可塑的な面も持ちながら自分をきっちり追い求めて成長できる人がやっぱりカッコいいなあ。