『めくらやなぎと眠る女』 | 象の夢を見たことはない

『めくらやなぎと眠る女』

たとえば、

目を覚ましてしばらくすると、「オズの魔法使い」にでてくる竜巻のように巨大な空腹感が襲いかかってきた。

オズの魔法使いを見ていないのでそれがどのような竜巻なのかはわからない。スノッブなニュアンスと的を得ない比喩というのに嫌気がさす人も多いが、ピントがぼけた比喩とそうでないものの対比でモノがはっきり見えるということもある。(とはいえ、『パン屋再襲撃』は結構好きなのだが。。)

$ニャンちゅうなブログ-めくら柳と

なんていうことを『めくらやなぎと眠る女』のパッケージングを眺めながら思った。
半透明のプラスチックなのかビニールだかのカバーが浮くと本の表紙の字と絵がぼやける。

ずいぶん昔、名古屋市美術館でエゴン・シーレの展覧会*1があった。美術館は気が向いたときに行くがそれは特定の作家を見たいからではなく、どうやら空気に浮かぶほこりが光の中に舞っているのがみたくなったときに行くらしいというのに今気付いた。それなら図書館でもよいと思うのだが…

で、エゴン・シーレ展、そこである水彩のデッサンを見た。
それは習作っぽくて、なにも描かれてない白いキャンバスが絵の大部分だったような記憶がある。ある一人の男の肖像だった。黒い夜会の服だったかを着ていた。そこに描かれたひとつの線に戦慄した記憶がある。

油絵もあったが、印象に残ったのはそれだけであとは覚えていない。
「この人水彩のほうがいい」と感じた。油絵よりも水彩やデッサンのほうがその人の天才性というのはわかりやすいのかもしれない。

っていうのを、この本に収められた『七番目の男』を読んで思い出した。
Kという少年が出てくる。

やせて色白でまるで女のコのようなきれいな顔立ちをしていました。しかし言葉に障害があって、うまく口を聞くことができませんでした。…。でも、絵が滅法巧く、鉛筆と絵具を持たせると先生も舌を巻くような、見事な生命力にあふれた絵を描きました。…。私はよくそのとなりに座って、彼の筆の素早い的確な動きを眺めていたものでした。どうやったらそんなに生き生きとしたかたちや色彩を、真っ白な空白の上に一瞬のうちに生みだすことができるのだろうと、私は深く感心し、また驚いていたものです。今にして思えば、それが純粋な才能というものだったのでしょう。

自分にとってピンボケな比喩と、自分にとって戦慄的なこんな表現。その対比や落差をたまに心地よく思う。

正直そんなこともどうでもよくて、村上春樹の短編を冬に読みたくなるのは、空気に浮かぶほこりが光の中に舞っているのがみたいだけなのかもしれない。あるいは、ビールを飲みたいと思いたいとか。それが夏に村上春樹を読みたくなる理由だったり。やはり短編のほうが好きだ。『象の消滅』とこの本は、それぞれ13OO円と1400円。お買い得だよね。

*1 調べたら1992年1月11日~2月23日のエゴン・シーレ展。内容は、「シーレの世界的コレクター、ルドルフ・レオポルド博士のコレクション120点によって、夭世の画家の全貌を紹介」というものだった。小春日和のある冬の日。

後記:
ところでなぜ、「7番目」の男なのか。春樹氏ときどきそんな謎かけをするので気が抜けない。ちなみにアドルフ・ヒトラーは自称ドイツ労働者党7番目の党員だそうで、ヒトラーが絵をやっていたのは有名な話。エゴン・シーレは16才という若さで才能を認められ、美術アカデミーへ進学し、同年に1年早く生まれたアドルフ・ヒットラーは美術アカデミーの入学を拒否されたとか。
で、この『七番目の男』、ミソは、Kの表情の『歪み』だったりする。あまりに穿ちすぎかもしれないが、もしかして…。
松岡正剛氏が千夜千冊で書かれていたように、エゴン・シーレのデッサンや筆による画線は驚くほど速いものだと私も思う。夭折というのもヤバいキーワードだなあ。無名であることとかくちひげとか。Kと7番目の男が一才違いというのにもムムッなのである。