TVピープルや小人が邪悪なイメージを持つ理由 | 象の夢を見たことはない

TVピープルや小人が邪悪なイメージを持つ理由

『都市伝説』を見ていたのだけれど、そういや「ちっちゃいおっさんを見る」とか「小人を見る」とか力説する芸能人がいたなあと。釈由美子とか的場浩司だとか木下優樹菜とか。中島美嘉とか浜田雅功とか。。

昔話にも一寸法師だとか妖精だとかの話はある。
これらは『トリックスター』を表していると思っているのだけれど、どういう人がこういう像を見やすいのかというのに興味があってちょっとユングの本を漁ってみた。

基本的にこれらの像は自分の影で、それを取り込むことによって個人的な自我に欠けている力を供給するという心的な働きがある。現実にそれらを像として見てしまうとこまでいくという理由については、まだちょっと保留。あと、「おっさん」である理由についても保留。おっさんであるのは、セルフ(自己)にある男性原理の投影のようなのだが。。

英雄像のもっとも初期の段階の形である『トリックスター』は人生の最も初期の最も未発達な段階に相当する。
トリックスターは身体的装置が、彼・彼女の行動を支配しているという像である。
彼は、幼児の知能を持っている。自分の基本的欲求を満足させること意外のいかなる目的もなく、彼は凶暴で、道徳否定的で、残酷である。


出典本は、『人間と象徴』(上巻) C・G・ユング 河出書房。
妖精は子供にしか見えないと言われるわけは、そういう理由だったりもする。

ちなみに、この話のもととなったウィパネバゴー・インディアンの英雄神話は4つの周期にわかれていて最終周期は「双生児」の周期。双子も村上春樹の本によく出てくる。

宇宙人の話も結局は自己のトリックスター像で意味は同じ。木下優樹菜が出会ったらしいが。。
あと、こういう化け物みたいなものは、体が緑だったとかいう一部の証言にも、なぜ緑なのか理由があるらしい。。村上春樹の短編にも緑の化け物の話はありますな。
ちなみに、白雪姫に出てくる小人が緑の帽子で緑の服を着ているように描かれることが多いのにも意味があります。

で、これらの像については、「英雄像は永遠の物語という幻想の助けによって、成長の問題に対処しているわれわれの努力を表現している」そうで、「彼の前に立ちはだかる人生の困難な仕事の数々に立ち向かえるようにさせ、自身の力量と弱点を自覚させる」働きがあるとか。なので、なんらかのコンプレックスを無意識に自覚したときに像として見えると。
なのでそれらに出会った彼らとか彼女たちのそのときのバックグラウンドとなにか関係ありそうな。。

『ノルウェーの森』の文庫版を買いなおした。
なぜ、緑なのかというのがこの本のミソのひとつのような気が。
ハルキ氏は、そのとき天真爛漫ななにものかに支えられたのかなあと。どこまでが私小説なのかわからないけれども。

『1Q84』を読んだけど、今もまだ「この人、子供だなあ」と思うところがある。
ただ、人の成長ってユング派の人がいうような単純な段階で発展するものでもないような気もするが。

これらは、幻視として見る人もいるし、まあでも普通の人の場合夢にあらわれるイメージなのだけれど、他人にそれを投影することも多いのかなあとも。
自分が嫌いだと思っている人にそういう自分の影を投影するのはよくある話なので、嫌いな理由を分析すると、自分の影というか自分のもろい部分、そのときに向き合わなければならないはずの課題がわかるような気もする。
トリックスターであるなにものかを、ある人のなかに見出して、「自分がひっかきまわされている」「静かな自分を邪魔する」という怒りや憎しみをその人に感じるとき、その結果は…

トリックスターとは、「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと」で、「時には悪意を持って行動するが、結局は良い結果になることが多い。引っかき回す行動としては、盗みやいたずらというパターンが多い。抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、愚か者として描かれる場合もあり、時には両方の性格を併せ持つ者もある。文化的に重要な役割を果たしているとき(例えば、火を盗むなど)や神聖な役割をしているときでさえ、おどけてみせたりもする。文化的英雄であると同時に悪しき破壊者であり、あるいは賢者であり悪者など、法や秩序からみれば一貫性を欠いた矛盾する役割が属性である。」(Wikpediaより)

結果は、神のみぞ知るといったところかもしれないけれど、そういう輩に巻き込まれるとき、自分の生命エネルギーが呼び起こされることはたしかで。。
自分の人生を思い返すと、実は、そういう人に出会ったときに大きな転機と展開が訪れたんだよね。

『ノルウェーの森』の場合、主人公であるハルキ氏=ワタナベノボルにとって、緑は吉兆だったりする。
呪術的な、キヅキ=直子、永沢=ハツミの関係から救い出してくれる存在。
加藤典洋氏がいうには、これらは、赤と白で表現されているとか。たしかにアカイトリが直子と会ってるときに象徴的に現れるので、この解説を読んだときにハッとした。そうなのか!と。ビリヤード(4つ球、赤と白)をこれらのパートナーの片方とそれぞれプレイしたときが、死と生の転機になっているのが、象徴的だったことも電撃的に思い出した。

なぜこの物語がドイツから始まるかっていうのは、『白雪姫』がどこの国の童話か調べればわかるはず。
そうです。この話、オマージュになっていたりするのですね。ただのセンチメンタルな私小説ではなく、セックスと死の童話だったりもします。以外と知られていませんが。ピース。

「多くの祭り(フェト)のために」。fête[フェト](祭)ってフランス語なんだよね。なぜ、フランス語を?そこがまだ解読できないのだけれど。

色の持つ呪術性については、またそのうちに。

とりとめなく。おしまい。