『高村薫 私とマーク・ロスコ』 | 象の夢を見たことはない

『高村薫 私とマーク・ロスコ』

「なぜ、こういう絵を描くのか。」

それが高村氏と抽象絵画の出会いだったと。

「より意識的に世界を言い表わす、世界をかたちにする。」
作家を選んだ高村氏にとって、先の問いを一歩進めたそのテーマが新たな意味を持ちだした。
そこでロスコに彼女は出会う。ただし、図版で。

ニューヨーク・サザビーズのオークションで、おととしマーク・ロスコの1つの作品が落札された。
そのときの落札価格は7280万ドル、当時の日本円でおよそ87億円。
現代美術の作品としては史上最高額だったそうだ。
『色彩がキャンバスの中から呼吸して見るものを包み込む』とは批評家クレメント・グリーンバーグの評。
マーク・ロスコは、一般的には抽象表現主義の画家ととらえられている。

わたしは抽象表現主義の画家などではない。色とフォルムの関係とかはどうでもよい。私に興味があるのは人間の基本的な感情だ。悲しみ、喜び、絶望、そういったものだ。

ロスコの言葉である。

画家が敢えてピカソのように歪めて書く。なぜ目で見たように書いてはならないのか。それは彼らがそうする必要があったからだと。では、それはなぜなのかと。高村氏はみずからに問う。

絵画と人間の調和がうしなわれたという時代背景、そしてそこから始まる抽象表現主義。
現代美術に対する彼女の解は、私の心は打たなかった。
それは、一般抽象表現主義へのアプローチとしては合っているのかもしれないが、ロスコに対してのアプローチとしては、通用しない。

ロスコが言っているように、彼にとっては「色とフォルムの関係とかはどうでもよい」のである。

2009年2月21日(土)-6月11日(木)のマーク・ロスコ展で彼女は実物を目にした。
一方、『太陽を曳く馬』は2008年9月に連載を終わっている。
従って、もうそこに書かれた上記の解は今の彼女のロスコに対する解ではない。それは、ロスコの実物を見た彼女の言葉でわかる。

「こういう小説を書きたいと思いました。
なぜだろう、こういう小説を書きたいと思いました。」

意味の臨界点、そこに作家として入り込むということは、小説それ自体をバラすというふうにもなるということでしょうか。そう問いかける姜尚中氏。

「わたしは、この黒い絵は人間の生命の手触りだという気がしました。…。これは手触りとしかいいようがないもので、これは命とはなんだといいあてられないような、なにものかだと。たとえば、一見黒いように見えるけれども、色がある。真っ暗なようだけれども、光がないわけではない。冷たいようだけれども、ほのかに温度がある。…
おそろしく奥深いものだと。そういういのちの、人間の生命の手触りとしての感覚がこの黒い絵にはある。としたら、こういう文章が書けるのではないか。」

現代の世界ではなんでもかんでも説明がつく。ように感じる。
言葉にならないという経験は実は恐ろしいことだと。高村氏。
しかし、この絵からは心地よさも感じる、と姜尚中氏。
意味でがんじがらめになったこの世界からポンと飛び出す。
ある意味宇宙遊泳のようなものだと答える高村氏。

このあたりの姜尚中氏との会話は示唆に満ちていて、ホストが姜尚中氏に代わってよかったと。
ハナちゃんのときは、ハナちゃんの素直でそれでいて本質を掴む言葉が非常に印象的だった。
で、なんでそのあと、また壇ふみなんだと。あきれて一度見なくなったのだが。。まあそれは置いといて。。

   コスモス   ハチ   コスモス

禅宗ではない方の仏教、大乗仏教全般を通して重要なキータームである『真如』は、大乗起信論の立場からすると

「真如」は、第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。(井筒俊彦『意識の形而上学』中公文庫より)

それがたぶん本質的に高村氏が掴んでいた直観で、だから仏教からロスコへつながったはずなのだけれど、意識が邪魔をしたから解がへんな風な方向へ行ってしまったような気がする*1。彼女が、本を上梓する前に本物を見ていたら、もしかしたら…。

文庫版での改版、それはそれであるのかもしれないけれど、馬は完成しているし(「どこへ行く?合田」というのはあるが)、正直『新リア王』から続く禅問答には飽きました。
ことここに至っては、逆に時代を遡って結婚してたころ、駆け出しの頃の合田のほうが見たくなってきた。走らない合田、ほとばしらない合田はつまらない。

*1 2010/2/2 追記
違うのかもしれない。作家が見ているものと読者が見るものには断絶がある。彼女がこの本でなにをしようとしたのか。『太陽を曳く馬』読売文学賞受賞。ロスコが何を描こうとしたのかは、ロスコに添わないとわからないように。
『なぜこういう絵を描こうとしたのか』。それは、みずからが絵を描こうとしないかぎりわからない。高村薫はみずからの筆で描ききった。それが彼女の答えであって、描きもしない自分との間には断絶がある。跳び超えることはできない。降りてから這い登らなければならない。たぶんそういうことだ。