じつはアップしていない書きかけの記事が沢山あるのですが…。

ちょうど昨年の今頃はイスラエル・ガルバンの来日公演「春の祭典」でウキウキしていたのでした。

 

ニジンスキーの功績はざっくりとは知っていたのですが、そのときに色々と書物を読んだりして調べていくうちに、彼の現役時代は驚くほど短かったことや、バレエから離れてしまったあとの人生を知り…。

もう、ニジンスキーが不憫でたまらなくなってしまい、涙涙で書き散らかしたまま放置してしまいました。

少しだけ手直しして載せておきます。
 

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ヴァツラフ・ニジンスキーは 1890年3月12日、現在のウクライナのキーウ(当時はロシア帝国)で生まれた。

バレエに革新をもたらした人として有名だが、彼がダンサーとして舞台で輝いていた期間はとても短かい。


ニジンスキーは9歳でマリインスキー劇場の附属舞踊学校に入学する。
この舞踊学校で、ニジンスキーはかなり陰湿なイジメにあっていたようだ。
頭を強く打って数日間も意識不明に陥ったこともある。この事件はニジンスキーに死への強い恐怖を植え付け、後々まで深いトラウマとなった。

そんな中でもバレエの才能は秀でており、卒業後はマリインスキー劇場の主役に抜擢される。

 

家族との関係はどうだったのかというと、父親は他の女性ができて、家族を捨てて出て行ってしまった。
母親は愛情をかけてくれたが、鞭で打つなどのとても厳しい躾をする人だった。

妹のブロニスラヴァ・ニジンスカヤもバレリーナで、バレエ・リュスでも一緒に働き、バレリーナ・振付家として活躍した。この妹の存在はニジンスキーに安らぎを与えるもの唯一のものだったらしい。

春の祭典の初演では彼女が主演の予定だったが、妊娠により出演することができなかった。

ニジンスキーには兄もいたが、若くして精神を病み自殺している。

この兄の死にニジンスキーに大きなショックを受け、これが精神を病んでいく大きなきっかけの一つにもなったとも言われている。

 

バレエリュスの主宰者のディアギレフとは、男性同士の恋人関係だった。

当時のバレエリュスではフォーキンが振付師として斬新な作品を生み出していたが、作曲家のストラビンスキーは「春の祭典」には、フォーキンよりもさらに斬新な振付を望んだ。そこで抜擢されたのがニジンスキーだ。

その時点では、ディアギレフはニジンスキーの振付家としての才能はそこまで高くは評価していなかったようだが、結果的に「春の祭典」は新しいバレエの時代を切り開く衝撃的な作品となった。

 

公私ともにディアギレフがいつもニジンスキーのそばにいたのに、南米ツアーには同行しなかった。
当時は船での長旅。ディアギレフは占いで”船のうえで死ぬ”と言われたことがあり、それを理由に同行しなかったそうだ。

そのアメリカ行きの船の上でニジンスキーはバレリーナのロモラと仲良くなり、渡航先のブエノスアイレスで二人は結婚した。

ニジンスキーの大ファンだったロモラは貴族の娘で、お金にものをいわせて船の中ではニジンスキーの近くの部屋を確保するなど、巧妙に近づいたという。しかしハンガリー出身のロモラとニジンスキーは言葉もあまり通じてなかったという話もあり、結婚もロモラに押し切られたのではないかという気もしないでもないが、プロポーズをしたのはニジンスキーらしい。

これを知って激怒したディアギレフはニジンスキーを解雇。

ディアギレフが怒ったことにニジンスキーはショックを受けたという。

え?
ディアギレフとの関係をなんと思っていたのか…色々と不可解です…。


バレエリュスを解雇されたニジンスキーは自分の力でバレエの仕事を続けようとするが、うまくいかなかった。

1950年4月8日に60年の生涯を閉じるのだが、1919年ごろ(29才ぐらい)までには精神を病んでしまっていて、人生の半分は精神病患者としてあちこちをたらいまわしにされて過ごすことになる。当時はインスリン・ショック療法などの危険な治療も行われていて、それによってさらに悪化したとも考えられる。

しかし、彼は決して周囲の人に見放されて孤独だった訳ではない。

ディアギレフと決裂する原因となった妻のロモラは、ニジンスキーに生涯連れ添った。
ニジンスキーを破滅させた女という汚名を背負いながらも、彼女は私財を投げうってニジンスキーに良い治療をうけさせるために奔走した。
そして一度は決裂したバレエ・リュスの主宰者ディアギレフも、後に仕事を斡旋しようとしたし、戦争の混乱の中で幽閉された彼を助けたのもディアギレフだ。

 

『ニジンスキーの手記』という、本人が記した手記が残っている。

これは治療の一環で書いたものかもしれないという。

混沌とした意味のよく分からない言葉の羅列のなかに、なにか強い不安や恐怖のようなものは伝わってくる。

彼はもともと人と話をすることは苦手で、ストラビンスキーやチャップリンも、あまりにまともな会話ができなくて、「え?」と思ったそうだ。しかし口から言葉としては出てこなくても、彼の頭のなかではこんなにも言葉があふれていて、それを誰とも分かち合うことができなかったというなら…それはとても辛かっただろう。
知的な会話ができないからといって、知的な思考ができなかったわけではないのだろう。この手記を読むと、彼なりの世界の捉え方で物事をしっかりと見つめている様子がわかるし、たとえ他人には意味が分からなかったとしても、彼のなかには確固たる真理のようなものがあったではないかと思う。

 

こんな具合に、バレエの輝かしい功績以外のところでは、彼の人生はかなり苦しいものに見える。

輝いている時期もあまりにも短く不憫に思うけれど、ダンサーっていうのは多かれ少なかれ現役でいられる時期には限りがあるし、成功できる人間はほんの一握り。そういう意味では、短いなりに名を残せたニジンスキーは、ダンサーとしては幸せだったというべきなのか。いろいろ考えさせられます。

でもどうなんだろうな。ニジンスキーが現役でバリバリ踊り続けていたのなら。

さらに何か素晴らしいものが見られたかもしれないし、そうでもなかったかもしれないし…。

 

ところで、フラメンコはいつまでも現役で踊れるなんていう人もいますが、ある意味ではYesだし、ある意味ではNoだと思う。

踊るといっても、色々なので。家族や仲間内でのフィエスタ(宴)の場で「踊る」ということと、ダンサーとして舞台に立って「踊る」というのは意味が違うので。

趣味や楽しみとしては、たしかにバレエなどと比べれば怪我の確率は少ないし、服で体型もかなりごまかせるので、いくつになっても楽しめる。ただ、このあたりはスペインでも二極化というか、ある程度の年齢になっても体型維持のためにトレーニングや食事にものすごく気を使っている人もいるし、好きなだけ飲んで食べて楽しく人生を謳歌しているのが体型にあらわれているような人も。

これは善悪ではないので、どちらも否定できないのがフラメンコの面白いところでもあります。