アドルフ・アイヒマン(1906年3月19日 - 1962年6月1日)

ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。

 

戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。(引用終了)

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 

 

前々記事の続きです。今回はアドルフ・アイヒマンに焦点をあててみました。1回では無理なので次回も続きます。他国の出来事と思うなかれ~ガーン

 

24日の飛鳥動画は「ペンタゴン最深部でうごめく邪悪なエイリアン」でした。25日には陶器市で四神相応、同夜にはWOWOWで「ヒトラー~最期の12日間~」が放送され、三つの出来事が見事につながりました。

 

 

昨日、稲田防衛相が自民党の都議選候補の集会に出席し、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」と発言し大問題となっています。発言の撤回はしたものの謝罪はしていないと思います。勿論、辞任する気はありません。

 

 

安倍首相の任命責任を問う声も大きくなってきましたが、稲田防衛相を罷免する気はないでしょう。安倍首相ご本人が「失言」だとは思っていない感じがします。それよりも、前倒しの改憲スケジュールに意識が集中しているものと思われます。

 

 

話題をアイヒマンに移しましょう。彼は非常に忠実な官僚でした。ユダヤ人を強制収容所送りにすることにも、そこで非人道的なことを行うことにも、良心の呵責を感じませんでした。ただひたすらに命令に対して忠実に従いました。ショボーン

 

現在の日本は「安倍一強」と言われ、与党議員も、官僚たちも、財界人も、メディアも、地方自治体首長も、批判めいたことを言えない空気です。

 

しかし、前川前事務次官の登場により、少なくとも文科省内からは、「反撃の狼煙」がちらほら上り始めたような気がしますが、まだまだ霞が関の動きは鈍いです。

 

霞が関の皆さん、アイヒマンの告白を耳をかっぽじってよく聞いてみてください。出世のため、遠い他国の出来事と侮っていれば、のちのち後悔することになりますよ。是非、動画をご覧ください。

 

ヒトラーと6人の側近たち 「アドルフ・アイヒマン」(1)

 

ヒトラーと6人の側近たち 「アドルフ・アイヒマン」(2)

 

ヒトラーと6人の側近たち 「アドルフ・アイヒマン」(3)

 

≪アイヒマン本人の発言≫

戦前戦中の発言

 

◎ 「先ごろ一連の地域で行われたユダヤ人の東方移住は、ドイツ本国、オストマルク(オーストリア)、及びベーメン・メーレン保護領におけるユダヤ人問題の、その最終的解決の幕開けである。」(1942年1月31日、アイヒマンがドイツの占領地の全ゲシュタポ局に宛てた文書)

 

◎「百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない。」

 

◎「金貨など不要なのだ。金貨なら自分でも持っている。ほしいのは命令だ。これからどう進展するのか知りたいのに。」

(敗戦直前エルンスト・カルテンブルンナーに面会を拒否され、その副官から金貨を渡された際に語った言葉)

逮捕後の発言

◎ 「あの当時は『お前の父親は裏切り者だ』と言われれば、実の父親であっても殺したでしょう。私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに、何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。命令された内容はなんであれ、です。」(イスラエル警察の尋問で)

 

◎ 「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」(一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問に)

 

◎ 「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」(イスラエル警察の尋問で)

 

◎ 「私の罪は従順だったことだ」

 

◎ 「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています。」(絞首刑になる直前のアイヒマンの言葉)