マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙-サイレンス」を観たいなと思い、その前に原作も読んでおこうと購入。早速読んでたいそう面白い読書であったものの、信仰を持たない自分には、なかなか宣教師や信者の人々の内面が理解できない。という事が分かった複雑な思いの感想である。映画も、3時間近い大作で、上映時刻との兼ね合いでなかなか観に行く時間を取れる日が無く、いずれDVD鑑賞になるかなあと、ちょっと残念。出演の俳優さんたちも興味深い方々なので、ぜひ観たいのは山々なれど、、、(^-^;
 
信仰とはなんであるのだろうか。生まれ落ちた頃から日々、刷り込まれなければ身に付かないものなのだろうか。生きていくうえで、心の拠り所になるものの一つなのだろうけれど、それを信ずる事で命の危険があっても貫けるほどの信じられる神とは。現実には、その辛い目からは、全く救ってくれず沈黙を続ける神。その伝道師たる宣教師たちにも、彼らをこの現世においては、何もできない厳しい現実の中で黙って死んでゆく信者たち。彼らは死後、本当に花咲き乱れ蜜の流れる天国へ導かれているのだろうか?
信者では無い自分には全く想像の及ばない、我が国における痛ましい迫害の歴史である。
 
信仰を持たない自分とはいえ、なんとなくこの世界には何か神秘的な生きとし生けるものを静かに見ている存在があるような気はしている。だからといって、毎日祈りを捧げているわけでもないし、ご先祖様や亡き父にも時たま季節の節目や命日などに簡素なお参りをする程度な不埒な日々だ。お正月に神社に出向いて参拝するのも、信仰というよりは習慣のようなもの。けれとども、何か大きな存在はあるかもね。
 
この感覚は、北海道の先住民であるところのアイヌ民族の方々が言う、全てのものにカムイ(神様)が宿る、という考えが一番しっくりするかなと思うこの頃。自然にも、植物にも、動物にも、万物に宿る神々がそばにいる。そういう世界の一員として、静かに生きて死んでゆくのが生き物であろうか。