古今東西問わず、政府は野放図に支出を拡大し、その結果デフォルト(債務不履行)を宣言する羽目になることが多いです。しかし、一方では財政再建への努力も見られます。日本でその例を振り返ってみることにします。

 江戸以前は、時の政府(幕府や朝廷)がどのような経済政策を行ってきたか、あまり記録が残っていません。しかし、例えば、室町時代に将軍が変わるごとに徳政令が出されるなど、歳出を切る詰める努力、財政再建への努力はほとんどなかったことが伺えます。

 時代は飛んで、江戸時代。4代将軍の家綱ごろまでは、江戸幕府も佐渡、石見など直営金山、銀山からの収入のもと、散々無駄遣いしほうだいだったようです。しかし、家綱の代、1657年明暦の大火が江戸を襲い、江戸は大火災に見舞われます。この復興費によって歳出が拡大します。また17世紀末期から、金山、銀山からの金銀が枯渇してきました。そのため、歳入が減少します。そこで、幕府財政は困ったことになりました。

 ここで出てくるのが有名な勘定奉行荻原重秀。彼は、貨幣改鋳を行い、金の含有量を落とした質の悪い貨幣をつくります。元禄小判です。これによって、幕府は貨幣供給量を増やした分、通貨発行益を得ることになります。一種のリフレ政策ですね。

 しかし、その後も幕府財政は悪化する一方です。そこで颯爽と現れたのが徳川吉宗。彼は享保の改革をやってのけるのですが、これは質素倹約をモットーとした緊縮財政政策。緊縮財政が日本で本格的に敷かれるのは、吉宗がはじめてではないでしょうか?吉宗は年貢の増徴、組織のリストラクチャリング、殖産興業にも努めます。

 享保の改革も吉宗の引退と共に終焉します。吉宗の死後、10代将軍徳川家治の時に、実権をふるった有名な武士がいます。田沼意次です。彼は、吉宗の時の緊縮政策は辞め、経済の成長に重きをおき、収の自然増を目指そうとしました。吉宗時代とは打って変わって、積極財政政策を敷きます。田沼が実権を握った時代は田沼時代と呼ばれますが、この時の政策が他の江戸の三大改革にも増して最も成功したといわれています。

 田沼が賄賂政治、今でいう金銭スキャンダルで失脚した後、登場するのが松平定信。彼の行った寛政の改革は、緊縮財政、規制強化が主眼でした。それは、吉宗以上に厳しいもので、人々の不評を買い7年あまりで終焉することになります。

 その後、徳川家斉の大御所時代。贅沢、贅沢、贅沢の時代を迎えます。超積極財の時代でもあります。そしてこの頃、文化文政の江戸文化が華開くわけですが、家斉や幕臣の豪著な生活によっていよいよ幕府財政は危機的な状況を迎えます。

 家斉の死後、実権を握ったのは老中水野忠邦。彼の行った天保の改革も緊縮財政路線ですが、あまりにも時代に合致しない政策を行ったため2年あまりで頓挫します。
 
 これ以降幕府の求心力は急速に衰え、幕末の時代を迎えます。

 
 総括すると、緊縮財政政策はほとんど長続きしないということです。それを行う人物によほどのカリスマ性や、身を削る覚悟(例えば吉宗の場合、食事は一汁一菜だった)がなければすぐに頓挫してしまう。幕府がお金を使わないようになれば、その分だけ民間経済は潤いませんから。景気は悪くなってしまうわけです。一方積極政策ならば、政府支出の拡大とともに、民間経済は潤います。一度、積極財政政策によって甘い蜜を吸ってしまった民衆は、緊縮政策には耐えられないでしょう。

 もし現代でも、財政再建を行うとすれば、その手段は、経済成長による税収の自然増が国民、国家全体のコンセンサスとあんってきそうです。むろん増税、歳出カットをしなければどうにもならない点はありますが。