シドニーのMACです。
昨日絵本作家の森本順子さんから電話をいただきました。
今日はくしくも63回目の原爆の日。
彼女は広島生まれの被爆者。
現在はシドニーで、生活されています。
その彼女が、9月から3ヶ月ほどピースボートに乗船し世界を廻るとのこと。
何でも、「ヒバクシャ地球一周証言の航海」とかで、ちょっと体調に不安があるそうですが、
「最後の大冒険」と思ってがんばりたいそうです。
すごいですね!
このおばちゃまからは我々も、いつも元気を頂いています。
2年ほど前、うちの弘美ちゃん が、おこなったインタビューがあります。
ちょっとご案内します。
私も、シドニーでこんな女性と一緒にいられること、誇りに思います。
↓順子さん
広島を訴えつづける絵本作家 森本順子さん
取材 黒坂弘美
森本順子さんの原点「ヒロシマ」
森本順子さんは、13歳の時、たまたま体調を崩して学校を休んだ日のお話。
その日はお姉さん、お兄さんと一緒に家に居たそうです。
お兄さんが爪弾くギターの音と共にゴィ~~ンという音を聞きました。
その音から間もなく、広島に原爆が落ちたのです。
ゴィ~~ンはB29が飛ぶ音でした。
順子さんの家は爆撃の中心から2kmも離れていませんでした。
ラッキーな事に、順子さんと家族は全員助かったのです。
順子さんの「ヒロシマ」体験をこれまで何度となくお聞きしています。
その度に涙がでてしまうのは原爆の被害を受けた後、初めて学校に行った時のお話です。
順子さんは数週間ぶりに学校へ登校しました。
思ったとおり(?)そこはあたり一面焼け野原でした。
その時、順子さんが目にしたもの・・・
それは、瓦礫の山となった学校で、自分の机を置いて生徒達が来るのを待っていらっしゃった先生の姿。悲しくも美しい、感動的な話です。
ふるさとを離れ、ふるさとを描く決意
森本順子さんは京都の大学を卒業後、大阪で中学の美術の先生をする傍ら、画家としても活躍していました。そして、間もなく結婚。男の子を一人授かります。
彼女曰く、この結婚は「下手な結婚」だったと。その形容の通りいつしか終局を迎えます。
そして心機一転、順子さんは一緒に被爆したお姉さんの嫁ぎ先、オーストラリアへの移住を決意します。1982年、50歳の時です。
言葉が通じない異国の地オーストラリアで当時、順子さんは家に引きこもりがちになってしまいます。
住んでいた部屋の窓から見える海に向かって、何度となく涙を流したそうです。
そんなある日、順子さんの頭に何気に浮かんだのが「ヒロシマ」での出来事でした。
順子さんは「ヒロシマ」で一人の大親友を失っています。
その親友は被爆後、長い闘病生活の末、亡くなりました。
親友の死は勿論のこと、原爆投下後の町や人々の壮絶な姿を決して忘れてはいけないと、順子さんはいつも強く思っていたそうです。
その思いが日本から約7000キロ離れたオーストラリアで、現実のものとなります。
「大好きだった親友のために、そして大好きだった、ヒロシマを忘れないために・・・
絵本を書こう」
出来上がった1冊の絵本・・・それが 「私のヒロシマ」 です。1987年のことでした。
「私のヒロシマ」が出版された後、大きな反響があったそうです。
現在、オーストラリアの殆どの小・中学校には「私のヒロシマ」が蔵書されています。
そして、順子さんの母校である広島女学院中・高校では2004年からこの絵本が、英語教材として使われることになりました。
↓順子さんの代表作「MY HIROSHIMA]
順子さんが「主役」のテレビ番組も多く放送されました。実は私と順子さんが知りあったのは、NHKのドキュメンタリー番組のコーディネーションをしたことがきっかけなのです。
「絵本作家」のもうひとつの素顔
「私のヒロシマ」を描いたのがきっかけで、順子さんはオーストラリアの小学校を中心に、
講演の依頼が増えてきました。私も何度となく、そのお手伝いをしました。
順子さんは訪れた学校で子供達と、平和について話し合ったり、絵を書くデモンストレーションをしたりと活躍しています。
順子さんが子供達に語りかける英語は、決して上手ではありません。このことは順子さんも自ら認めています。
でも子供達はいつも必ず彼女の話を真剣に、じーっと聞いています。時には涙を浮かべることもあるとか・・・。ある日順子さんは私に言ってくれました。
「言葉は心で話すものなのよ」と・・・
順子さんは「私は平和運動家ではない」と常々そう言います。
「自分の体験した戦争の恐ろしさ、悲しさを伝えたい」だけだと言います。
伝えることは限りなくあるけれど、まずは1歩ずつ確実に進めていきたい・・・
そんな意識が彼女の中にはあるようです。
順子さんの家を訪ねると、いつも風変わりなお茶を作ってくれます。
セイロンあたりのお茶に、生姜と暖かい豆乳を混ぜたものらしいのですが・・・
これが、美味しい! 身体にもとても良さそうです。
お茶を飲みながら、話しているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。
順子さんと私は、笑いのツボが一緒なのです。
2人で色々話しをていると、笑いが止まらなくなってしまうことがしばしば・・・。
「笑う角には福来る」を信じている私ですから、順子さんと一緒にいれば、たくさんの福が舞い降りてきそうで、とても幸せな気分居になるのです。
日本の森本順子から、オーストラリアのJunko Morimotoへ
順子さんは自らの戦争体験を描く一方、古くから日本に伝わる、むかし話をオーストラリ
アの子供達に教えてあげたいと感じ、オリジナル作品もまじえ、13冊の絵本を出版します。
これらの絵本の出版がきっかけで「絵本作家・森本順子」の名がオーストラリア中に知れ
渡るのです。
順子さんは1984年から4年連続で「Children’s Book
Council of Australia」という賞を受賞します。これは、オーストラリア国内の子供向けに出版された本の中で、優れた作品に対して与えられるものです。
特に87年の受賞作「Kojuro and t he Bears(なめとこ山のくま)」と
97年の受賞作「The Two Bullies」では第1位となりました。
そして今でも絵本作家・森本順子さんは、この国で最も有名な絵本作家の一人として活躍を続けています。
まだまだ描きたい絵本がある
森本仙太郎くん10歳。
順子さんの愛すべきお子さんです。
とは言っても・・・猫!
そう、順子さんは大の猫好きなのです。
家の中は猫の置物や写真などが所狭しと、飾られています。
仙太郎君との出会いは、順子さんが今の家に引っ越してきて間もなくの頃。
もともとは近所で飼われていたらしいのですが、いつのまにか順子さんに懐いてしまい、
引き取ることになったそうです。
以来順子さんにとって大切な、良き人生のパートナーとなりました。
しかし、仙太郎君との生活は楽しいことばかりではありませんでした。
時には、ヒヤヒヤ・ドキドキものの大事件を起こしたことが何度となく、あったそうです。
↓仙太郎くん
仙太郎くんは若かりし頃(?) 猫の本能に従って「狩り」をよくしたそうです。
しとめた獲物を何度となく、順子さんに自慢げに見せにきたそうです。
その獲物は青い舌をしたトカゲ“ブルータン”だったり、綺麗な色をした鳥だったり、ポッサムだったりと、様々。とても有能なハンターでした。
しかしオーストラリアに棲む動物の殆どが保護動物。
むやみに捕獲したり、虐待すると法律によって厳しく罰せられます。
獲物を運んでいる姿を近所の人が見つけ苦情を言われ、時には警察に通報されたこともあったそうです。
謝った回数は覚えていないそうです。でも本音は「猫に捕るなと言って聞かせてもねえ・・・」
と笑うしかなかったとか・・・
順子さんは今、仙太郎くんとの生活を題材に新しい絵本を描きたいと思っているそうです。
順子さんにとって仙太郎くんは、大事な家族と同時に創作の源でもあるのです。
仙太郎君が主人公の絵本はどんな絵本になるのか?ちょっとだけ教えて頂きました。
順子さんらしい、ほのぼのとした・・・そして元気を与えてくれそうな絵本になること間違い無しです。
もっと詳しいこと、お伝えしたいのですが、いまは秘密にしておきます。
完成したら皆さんに、真っ先にお知らせします。どうかお楽しみに・・・。
大好きな順子さんへ・・・
こんなに人間味あふれた感性の持ち主には、めったに出会えないかもしれません。
それから・・・順子さんは正直な人です。そんな順子さんが私は大好きです。
幾つになっても自分にも、相手にも正直でいられる順子さんと友達でいられることは、
とてもラッキーだと思います。
猫の仙太郎君を主人公にした絵本以外にもアウトバックの砂漠を舞台にした絵本も描いてみたいと、順子さんの夢はどんどん膨らんでゆきます。
そんな彼女のプロジェクトに少しでも参加できることを望むばかりです。
順子さんとこれからも笑いながら色々なプロジェクトに立ち向かってゆくのを楽しみにしています。 順子さんこれからもよろしく~~~!
森本順子さんのプロフィール
1932年広島生まれ。
45年8月6日、13歳の時に広島市内の自宅で被爆。
京都市立芸術大学西洋画科卒
大阪にて中学校の美術教師、画家として活動。
82年に渡豪、絵本画家として今も活躍中。
現在シドニー市内在住
84年より4年連続で「children’s book council of Australia」を受賞
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