かつての韓国大統領達の証言を、
筆坂秀世氏の近著、
「日本共産党と中韓 左から右に転換してわかったこと」から、
友人が紹介してくれた。
私の感想を赤字で示したが、皆さんは、どう思われるだろうか?
---------------------------
朝鮮併合について。
全斗煥: (1981年8月15日の光復説での演説より)
「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、
当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々の自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である。」
「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないために確実な保証は、
我々を支配した国より暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない。」
----- 私の感想-----
この発言は、欧米列強諸国によるアジア・アフリカにおける植民地支配が、日本に及ぶことを恐れた江戸末期から明治以降の
日本人の恐怖心と、意思と行動を理解できれば、
バランスの取れた見方ではないかと思う。
また、韓国の人々が、努力を怠らなければ、多くの分野で日本を超えるようになることは、疑いがない。
他方、私は、海外、特に開発途上地域で働く日本人を見ていて、我々の考え方にも問題があると思っている。
日本人は、
「どの国の人々でも、日本人と同じように、
技術開発したり、組織や国全体のことを考えて、仕事に生きがいを感じる」ことができる。
と思う傾向があることである。
「どの国の人々でも・・日本人と同じような競争心と倫理性のある働き手になれる。」と信じる点は、
何世紀もの間、植民地支配をしてきた歴史のある多くの欧米人とは異なると思う。
実は、このことが、我々の情熱となり、逆に摩擦を生む。
(多分、朝鮮半島の併合の時代もそうであっただろう。)
日本人は、その誠実さのために、歴史的にも、文化的にも、社会的にも、全く異なった人々から、誤解されるのである。
(この原因は、日本で弘法大師のような人材を生んだ大乗仏教が、日本社会に浸透した結果によるのだと思う。
つまり、周りや社会全体を、自分が、救おうとする哲学である。
自分の行動を正しくすれば、周りの人々が便益を受け、それが社会全体を改善し、さらに、自分に還ってくるという、
この哲学は、ゲーム理論上も正しいのであるが・・。 社会に敷衍している点は、日本社会独特とも言えるのではないだろうか。)
この点は、かつて植民地支配をしてきた英国人を代表とする欧米人の姿勢に、見習うべきである。
彼らは、どの民族でも彼らのようになれるとは、考えないから、
他民族が堕落していても、気にもせず、怒りも見せず、他民族に優しい態度なのだ。
アジア諸国の人々で日本を嫌う人たちの中には、戦前、戦中の日本人から、本気で叱られたり、指導された人たちがいるはずである。
仮に中国人や朝鮮半島の人々の倫理性が、低かったとしても、我々に害が及ばない限り、矯正すべきだなどと思わないことも、賢明な判断である。
(そもそも、彼らの低い倫理性が、彼ら自身を不幸にしていたとしても、それは、彼らの問題である。
そこを親身になって、何とかしてやろうと考えるのが、我々日本人の悪い癖なのである。)
---------------------------
朴正煕:(著書「国家・民族・私」から)
「わが5千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。」
----- 私の感想-----
これは、朝鮮半島だけの話ではない。
一部に少数の例外があるとは言え、アジア、アフリカ、旧ソ連、中南米などなど、
つまり、世界の国々において、
数百年、数千年以上の昔、栄えていた時代があったとしても、
開発途上世界と言われる地域すべてに、程度の差こそあれ、大半、あてはまる側面である。
(しかし、一方、原住民の人々は、皆、自然を破壊せず、環境に優しいライフスタイルを身に着けていたことも事実である。)
朴正煕氏による上の発言は、欧米史観に固執させられ、世界の歴史を知らない人の発言である。
国民の前で、自国の歴史を、日本と比べて、ことさらに卑下する必要などないのである。
「退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史」というのは、世界どこでも見られることなのだから。
---------------------------
朴正煕:(著書「国家・民族・私」から)
「(韓国社会は)姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎなかった。」
「わが民族史を考察してみると情けないというほかない。」
----- 私の感想-----
これも、内容だけを見ると、バランスのとれた正しい見方である。
1945年の終戦前、日韓併合時代に日本で朝鮮半島からの人々と学校でともに過ごした日本人高齢者に聞くと、朝鮮半島からの友人たちは、確かに姑息、日和見主義的であったと言う。
基本的に、彼らは、日本人ほどには、誇りがなく、勉強できたとしても、常にフラフラ、信念や自信のない態度であり、人間関係他の様々な面で、芯(シン)がなかったようだと言う。
日本の場合は、特に江戸時代、武士階級の人々(人口比で7%程度)がいて、彼らが、独特の倫理哲学を発展させ、行動していたことが大きな影響を与えているように思われる。
ただし、韓国のリーダーが、国民に対し、殊更、このような指摘をすることは、間違っている。日本や他の先進諸国と比較したのかも知れないが、他国と比べるなど、何の意味もないのだ。
そんなことより、どうすれば、次世代の国民にバランス良い「真の誇り」を培うことができるかを考察し、指導していくことが、大切なのではないだろうか。
---------------------------
朴正煕:(著書「国家・民族・私」から)
「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、先ずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。
このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やしてしかるべきである。」
-------- 私の感想 ----------
どの国でも、国を代表する大政治家が、このように心の奥で思ったとしても、
「わが歴史は、むしろ燃やしてしかるべき」などど、国民に対して言うべき言葉ではない。
小さな誇りでも良い。
小さな成功でも良い。
小さくとも良い体験を大切に、そこから、少しづつ、誇りや業績を育てていくと言う考え方が、
我々、日本人の持つ基本的な哲学(Kaizen)である。
逆に言えば、この哲学が、現代の日本を創ったと言っても良い。
他国や他人と比較する必要など、まるでない。
インターネットで、"Kaizen"(カイゼン:改善) と検索エンジンにかけると、1億6千万件以上の書類に当たる。
お釈迦様を指す "Buddha"で、約1億である。
Jesus Christ (キリスト)では、約1億3千万である。
「カイゼン(Kaizen)」は、その実用性と経済性のため、キリストやお釈迦様より上なのである。
なにしろ、一切、金をかけずに、自分の心の有り様(Mindset)を、まず、変えましょうと言うのである。
こんなバカな言い方が、あるだろうか。
しかし、逆に言えば、
これほど難しいことがあるだろうか。
しかし、
Kaizen で良いのである。
簡単でないことを、自分の側からやるから、大きなブレークスルーを生むのである。
どんなにわずかでも、そこから、やってみること。
そして、自らを誇りに大切に思うことが、必要である。
誰でも、自分を真正面からとらえて、そのままの「自分を愛する」ことは簡単ではない。
自分の欠点や失敗や、不運を知っているからである。
こうあってくれれば、ああ言う具合でありさえすれば、
もう少しなどと、思う。
(「愛する。」という意味は、「好きだ。」ということと同義ではない。
「愛する。」とは、その心の姿勢を持ち続け、それに沿って行動する決意(=コミット)が含まれる。
つまり、Kaizenは、自分を容認し、愛するという難しいことから、始まるのである。)
自分や家族を、友人たちを、そして、自国の人々を、愛する気持ちを育てていくことは、大切なことである。
ちなみに、Kaizen の哲学においては、優れた他の人々や組織、国から学ぶ意義も、強調される。
しかし、歴史も文化も、地理的な条件も異なる民族や国々と、自国をそのまま、比較することは、できない。
ましてや、地理的にも歴史的にも前提条件が、まるで異なる民族と比較して、自国民を卑下したり、優越感を持つことは、無意味なのである。
---------------------------
朴正煕 (著書「漢民族の進むべき道」)
「四色党争、事大主義、両班の安逸な無事主義的生活態度などによって
後代の子孫に悪影響を及ぼした民族的犯罪史である。」
「今日のわれわれの生活が辛く困難にみちているのは、さながら李朝史の悪遺産そのものである。」
「今日の若い世代は、既成時代とともに先祖たちの足跡を怨めしい眼で振返り、
軽蔑と憤怒を合わせて感じるのである。」
------ 私の感想 -------
朝鮮半島で 5百年以上(1392年~1910年)も続いた李朝史が、
どれほど、国民経済から略奪を続け、卑しいものであったか。
朝鮮半島の人口だけをとってみても、
李氏朝鮮の時代、1392年に建国以来、日本統治までの5-6世紀の間、人口はほとんど増加しなかったという。
それが、1910年の日韓併合以降、以下のような変化である。
(李氏朝鮮王朝の19世紀初頭、老人は別であったが、
大国、中国から、力のない国として下に見られてきた両班(朝鮮の支配者階層)と朝鮮半島の人々。
中国に抑圧を感じていたのなら、なぜ、両班は、下の民衆に対して、そんなことはしないでおこう、とならなかったのか。
(日本人は、自分が、されて嫌だと思ったことは、他人にしないことを誇りにする傾向があるが・・。)
以上のような朝鮮半島の歴史それ自体は、情けないことである。
しかし、だからと言って、それがどうしたと言うのだろう。
これからの朝鮮半島の人々は、朝鮮半島の未来を創るのである。
小さなことで良い。
それぞれが、自分への誇りを胸に、より良い言動に努めて、未来に向かって進めば、良いだけのことなのだ。
つまり、どれほど、過去の歴史に誇りをもてない部分があったとしても、
「仕事基準」の哲学をもって、新しい未来を創るべく、
現在の心の持ち方を変えれば良いだけのことである。
逆に「人基準」の心で、自分たちの祖先らは、隣国に抑圧され、惨めな立場の人達でなんら誇れる面はなく、
その子孫が現代の韓国人であり、自分もその一人であるなどと思う必要はない。
他の国々と比べて、卑下したり、妬んだりすることは、なんの意味もない。
我々人類にとり、明るい未来をつくる健全(Kenzen)な考え方を、韓国のリーダーらが、できていないとすれば、それこそが、韓国の不幸である。
筆坂秀世氏の近著、
「日本共産党と中韓 左から右に転換してわかったこと」から、
友人が紹介してくれた。
私の感想を赤字で示したが、皆さんは、どう思われるだろうか?
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朝鮮併合について。
全斗煥: (1981年8月15日の光復説での演説より)
「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、
当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々の自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である。」
「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないために確実な保証は、
我々を支配した国より暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない。」
----- 私の感想-----
この発言は、欧米列強諸国によるアジア・アフリカにおける植民地支配が、日本に及ぶことを恐れた江戸末期から明治以降の
日本人の恐怖心と、意思と行動を理解できれば、
バランスの取れた見方ではないかと思う。
また、韓国の人々が、努力を怠らなければ、多くの分野で日本を超えるようになることは、疑いがない。
もちろん、朴槿恵大統領のように欧米諸国を訪問しては、日本についての悪口外交で、自国に恥辱を上塗りすることもない。
(70年以上も昔の隣国の行動について言うのは、現在、自国内をうまく治めることができていない証左である。現在でも、韓国は、米軍などに対して、フィリピン人女性を使って慰安婦制度を維持しているのは、どういうことなのか。)それ以上に、自国民の不幸を他国の勢にしていては、堕落の道に進むばかりである。
(勉強しない子供を持つ親が、その原因を、隣の誰々とかを原因とすることと同じ。)
(勉強しない子供を持つ親が、その原因を、隣の誰々とかを原因とすることと同じ。)
他方、私は、海外、特に開発途上地域で働く日本人を見ていて、我々の考え方にも問題があると思っている。
日本人は、
「どの国の人々でも、日本人と同じように、
技術開発したり、組織や国全体のことを考えて、仕事に生きがいを感じる」ことができる。
と思う傾向があることである。
「どの国の人々でも・・日本人と同じような競争心と倫理性のある働き手になれる。」と信じる点は、
何世紀もの間、植民地支配をしてきた歴史のある多くの欧米人とは異なると思う。
実は、このことが、我々の情熱となり、逆に摩擦を生む。
(多分、朝鮮半島の併合の時代もそうであっただろう。)
日本人は、その誠実さのために、歴史的にも、文化的にも、社会的にも、全く異なった人々から、誤解されるのである。
(この原因は、日本で弘法大師のような人材を生んだ大乗仏教が、日本社会に浸透した結果によるのだと思う。
つまり、周りや社会全体を、自分が、救おうとする哲学である。
自分の行動を正しくすれば、周りの人々が便益を受け、それが社会全体を改善し、さらに、自分に還ってくるという、
この哲学は、ゲーム理論上も正しいのであるが・・。 社会に敷衍している点は、日本社会独特とも言えるのではないだろうか。)
この点は、かつて植民地支配をしてきた英国人を代表とする欧米人の姿勢に、見習うべきである。
彼らは、どの民族でも彼らのようになれるとは、考えないから、
他民族が堕落していても、気にもせず、怒りも見せず、他民族に優しい態度なのだ。
アジア諸国の人々で日本を嫌う人たちの中には、戦前、戦中の日本人から、本気で叱られたり、指導された人たちがいるはずである。
仮に中国人や朝鮮半島の人々の倫理性が、低かったとしても、我々に害が及ばない限り、矯正すべきだなどと思わないことも、賢明な判断である。
(そもそも、彼らの低い倫理性が、彼ら自身を不幸にしていたとしても、それは、彼らの問題である。
そこを親身になって、何とかしてやろうと考えるのが、我々日本人の悪い癖なのである。)
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朴正煕:(著書「国家・民族・私」から)
「わが5千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。」
----- 私の感想-----
これは、朝鮮半島だけの話ではない。
一部に少数の例外があるとは言え、アジア、アフリカ、旧ソ連、中南米などなど、
つまり、世界の国々において、
数百年、数千年以上の昔、栄えていた時代があったとしても、
開発途上世界と言われる地域すべてに、程度の差こそあれ、大半、あてはまる側面である。
(しかし、一方、原住民の人々は、皆、自然を破壊せず、環境に優しいライフスタイルを身に着けていたことも事実である。)
朴正煕氏による上の発言は、欧米史観に固執させられ、世界の歴史を知らない人の発言である。
国民の前で、自国の歴史を、日本と比べて、ことさらに卑下する必要などないのである。
「退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史」というのは、世界どこでも見られることなのだから。
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朴正煕:(著書「国家・民族・私」から)
「(韓国社会は)姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎなかった。」
「わが民族史を考察してみると情けないというほかない。」
----- 私の感想-----
これも、内容だけを見ると、バランスのとれた正しい見方である。
1945年の終戦前、日韓併合時代に日本で朝鮮半島からの人々と学校でともに過ごした日本人高齢者に聞くと、朝鮮半島からの友人たちは、確かに姑息、日和見主義的であったと言う。
基本的に、彼らは、日本人ほどには、誇りがなく、勉強できたとしても、常にフラフラ、信念や自信のない態度であり、人間関係他の様々な面で、芯(シン)がなかったようだと言う。
日本の場合は、特に江戸時代、武士階級の人々(人口比で7%程度)がいて、彼らが、独特の倫理哲学を発展させ、行動していたことが大きな影響を与えているように思われる。
ただし、韓国のリーダーが、国民に対し、殊更、このような指摘をすることは、間違っている。日本や他の先進諸国と比較したのかも知れないが、他国と比べるなど、何の意味もないのだ。
そんなことより、どうすれば、次世代の国民にバランス良い「真の誇り」を培うことができるかを考察し、指導していくことが、大切なのではないだろうか。
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朴正煕:(著書「国家・民族・私」から)
「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、先ずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。
このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やしてしかるべきである。」
-------- 私の感想 ----------
どの国でも、国を代表する大政治家が、このように心の奥で思ったとしても、
「わが歴史は、むしろ燃やしてしかるべき」などど、国民に対して言うべき言葉ではない。
小さな誇りでも良い。
小さな成功でも良い。
小さくとも良い体験を大切に、そこから、少しづつ、誇りや業績を育てていくと言う考え方が、
我々、日本人の持つ基本的な哲学(Kaizen)である。
逆に言えば、この哲学が、現代の日本を創ったと言っても良い。
他国や他人と比較する必要など、まるでない。
インターネットで、"Kaizen"(カイゼン:改善) と検索エンジンにかけると、1億6千万件以上の書類に当たる。
お釈迦様を指す "Buddha"で、約1億である。
Jesus Christ (キリスト)では、約1億3千万である。
「カイゼン(Kaizen)」は、その実用性と経済性のため、キリストやお釈迦様より上なのである。
なにしろ、一切、金をかけずに、自分の心の有り様(Mindset)を、まず、変えましょうと言うのである。
こんなバカな言い方が、あるだろうか。
しかし、逆に言えば、
これほど難しいことがあるだろうか。
しかし、
Kaizen で良いのである。
簡単でないことを、自分の側からやるから、大きなブレークスルーを生むのである。
どんなにわずかでも、そこから、やってみること。
そして、自らを誇りに大切に思うことが、必要である。
誰でも、自分を真正面からとらえて、そのままの「自分を愛する」ことは簡単ではない。
自分の欠点や失敗や、不運を知っているからである。
こうあってくれれば、ああ言う具合でありさえすれば、
もう少しなどと、思う。
(「愛する。」という意味は、「好きだ。」ということと同義ではない。
「愛する。」とは、その心の姿勢を持ち続け、それに沿って行動する決意(=コミット)が含まれる。
つまり、Kaizenは、自分を容認し、愛するという難しいことから、始まるのである。)
自分や家族を、友人たちを、そして、自国の人々を、愛する気持ちを育てていくことは、大切なことである。
ちなみに、Kaizen の哲学においては、優れた他の人々や組織、国から学ぶ意義も、強調される。
しかし、歴史も文化も、地理的な条件も異なる民族や国々と、自国をそのまま、比較することは、できない。
ましてや、地理的にも歴史的にも前提条件が、まるで異なる民族と比較して、自国民を卑下したり、優越感を持つことは、無意味なのである。
---------------------------
朴正煕 (著書「漢民族の進むべき道」)
「四色党争、事大主義、両班の安逸な無事主義的生活態度などによって
後代の子孫に悪影響を及ぼした民族的犯罪史である。」
「今日のわれわれの生活が辛く困難にみちているのは、さながら李朝史の悪遺産そのものである。」
「今日の若い世代は、既成時代とともに先祖たちの足跡を怨めしい眼で振返り、
軽蔑と憤怒を合わせて感じるのである。」
------ 私の感想 -------
朝鮮半島で 5百年以上(1392年~1910年)も続いた李朝史が、
どれほど、国民経済から略奪を続け、卑しいものであったか。
朝鮮半島の人口だけをとってみても、
李氏朝鮮の時代、1392年に建国以来、日本統治までの5-6世紀の間、人口はほとんど増加しなかったという。
それが、1910年の日韓併合以降、以下のような変化である。
1906年:980万人 (1905年、第二次日韓条約。日本の保護国に)
1910年:1312万人 (1910年、日韓併合)
1920年:1691万人
1930年:1968万人
1940年:2295万人
1944年:2512万人(1945年、日本の敗戦。米軍へ移譲)
現代 約4600万人
1910年の日韓併合以降、人口が、より正確にとられ始めた可能性もあるが、
1910年と比較すると、日本の敗戦までに、人口は、約2倍となった。
1910年と比較すると、日本の敗戦までに、人口は、約2倍となった。
朝鮮民族の誇り、チマ・チョゴリの一般朝鮮人女性の胸の露出を止めたのも、日韓併合時代になってからである。
(李氏朝鮮王朝の19世紀初頭、
女性は、胸を覆い隠してはならないという禁令があり、彼女らは、両班を誘惑して妾になるか、中国に献上されることを誇りとしていた。)
大国、中国から、力のない国として下に見られてきた両班(朝鮮の支配者階層)と朝鮮半島の人々。
中国に抑圧を感じていたのなら、なぜ、両班は、下の民衆に対して、そんなことはしないでおこう、とならなかったのか。
(日本人は、自分が、されて嫌だと思ったことは、他人にしないことを誇りにする傾向があるが・・。)
以上のような朝鮮半島の歴史それ自体は、情けないことである。
しかし、だからと言って、それがどうしたと言うのだろう。
これからの朝鮮半島の人々は、朝鮮半島の未来を創るのである。
小さなことで良い。
それぞれが、自分への誇りを胸に、より良い言動に努めて、未来に向かって進めば、良いだけのことなのだ。
つまり、どれほど、過去の歴史に誇りをもてない部分があったとしても、
「仕事基準」の哲学をもって、新しい未来を創るべく、
現在の心の持ち方を変えれば良いだけのことである。
逆に「人基準」の心で、自分たちの祖先らは、隣国に抑圧され、惨めな立場の人達でなんら誇れる面はなく、
その子孫が現代の韓国人であり、自分もその一人であるなどと思う必要はない。
他の国々と比べて、卑下したり、妬んだりすることは、なんの意味もない。
我々人類にとり、明るい未来をつくる健全(Kenzen)な考え方を、韓国のリーダーらが、できていないとすれば、それこそが、韓国の不幸である。