考えるな嘆け | アッシェンバッハの彼岸から

考えるな嘆け

(BGM:歌詞の意味を考えたことは一度もない。英語だけど、わからないし)
Vashti Bunyan
Lookaftering


誰にでも当たり前にできるのに、わたしにはどうしてもできないことがいくつもある。

できないから、ウンウン考える。なんでわたしにだけできないんだろうかと。

こないだそれを友人に話したら、

「相変わらず余計なことばっかり考えすぎ。禿げるよ」

と言い放たれ、少なからず傷ついた。

はじめから出来ることならば、考える必要なんてないのだ。


ひさしぶりに『ふたりのベロニカ』のビデオをセットする。

そうだ。主観とゆうのは、わたしにしか持ちえないものだ。

わたしの見てる世界は、他者の見てる世界と違うんだ。

キェシロフスキの映画には、空間を映した映像のなかに、

過去から未来にかけての立体的な時間の流れが映しこまれているのがすきなのだ。

主人公や観客の目で物語は進んでいくけれど、

常に他者の視線が時折差し挟まれるからはっとなる。

そのたびに平面のスクリーンは、何層もの厚さになって観る者に迫ってくる。

だから、映画がおわる頃には、いいじゃないか、わたしにだけできなくっても。と考えている。


たとえば、わたしは本が好きだけれど、好きな本ほどさっさと読むことができない。

すきな行を何度も読み返したりしているうちに、元の文脈がわからなくなったり、

ふたたび味わいたくなって戻ったりしてるうちに、まったく進まなくなる。

そのくせ、覚えているのは、その言葉の感触だけだったりする。

それから、究極の貧乏性なので、読み終わってしまうのが惜しいのだ。

ならばもう一度読めばよいのだろうけれど、この、数センチの厚さの中に、

云いようもない期待が詰まっているとおもうと、なんだか勿体なくなってしまう。

だから、頭のなかに仕事が残っていると、つい開くのをためらってしまう。

脳味噌の全メモリを、この本のために使いたいから。

すきな食べ物はゆっくり味わって食べたいでしょう?あれと同じなんである。


それと、最近は漫画を読むのがひじょうに億劫になった。

漫画が面白いのはわかってる。子供の頃はあんなに夢中になったのだから。

なんだけど最近、文と絵をいっぺんに見ることができないのだ。

だから、最初に文だけ読んで、絵はなんとなく眺めておいて、

次に絵だけをゆっくり見るということをする。

でも、そんなことをやってると筋がよくわからなくなるし、あんまり楽しくない。

仕事のせいかもしれない。

あるいは、いつの頃からか、活字を眺めていると映像がぽんと浮かんできて、

しばらくその場所に立ち止まっていたくなったりすることがある。

それから、ことばの意味以前に、ひらがなや、カタカナ、文字の格好やことばの響きに、

それぞれ色や匂いや感触があるように思えて、

それらを眺めてるだけで感情がいっぱいになってしまうこともある。

おまけに漫画に描かれている絵というのはどれも美しくて、

それぞれに独特の時間の流れを持っているから、

活字の感触とそぐわないと、いちいちそこで思考がストップしてしまうのだ。

すこし前に友人に借りた漫画は、絵の感触と字の感触が妙に一致していてきもちがよく、

あれはあれで同じコマをじっと眺めたりしてしまって、たった3冊なのに、

いつまでも読み終わらず、なかなか友人に返せなかった。

すきな本もそう。活字を追って、ことばの意味だけを拾うことはなかなかむつかしい。

知識を頭に詰め込むために本を読むなんて、わたしには到底無理なことだ。

要するに、究極に不器用者なんだろな。わたしって。