今が盛りと咲く花よりも
ある舞踏家がなにかの本で云っていた。
「元気いっぱいのときは、繊細な表現ができない。
それよりも、少し疲れているくらいのほうがいい。」
同じかどうかはわからないがわたしは、今が盛りと咲き誇る花を、
人々が云うほどすきにはなれない。
その美しさに胸を打たれることは多い。
でも、爛漫と咲き誇った花とは、どうにも無神経なものだ。
それよりは、まさに開かんとしている蕾や、
開ききってしまった花弁から、花びらが1枚はらっと落ちる瞬間のほうが、よほど趣があるとおもう。
活力に満ち溢れているのは、とてもよいことだ。
なにしろ意味もなく気分がいい。そして効率がいい。
仕事はじゃんじゃん捗るし、行動的にもなれるから、いろんなことを吸収できる。
そんな人の周囲には、多くの人が集まることだろう。
いいことづくめの好循環だ。活力というのは、とても便利なものだ。
キーがGやCの音楽もこれと似ている。
だけど不便なことに、わたしは斑気の激しい人間なのだ。
他人の纏っている邪気や欲求不満。対岸の火事。あまつさえ低気圧も。
無関係なはずなのに、わたしはいちいちそれらの影響を受けてしまう。
世の中は、わたしの気持ちを打ちのめすものであふれかえっている。
キーがGやCの音楽は、音に衒いがなさすぎるところが好きになれない。
憂鬱なとき、わたしはひどく内省的になる。
わたしは♭だらけの音楽を聴いて、道を歩いたり、
部屋に籠もってなみなみと注いだ珈琲のカップに口をつけながら、
さまざまなことを考える。そして時折それらを書きつける。
そうしているうちに、憂鬱の数々は何がしかのかたちになっていく。
人は失敗しなければ原因の究明などしない。
疑問がなければ思考しないし、憂鬱でなければ内省しない。
活力に溢れ、まっすぐ前を見て力いっぱい歩いているときには、
路傍の小さな花や、アスファルトに落ちる木々の蔭が微かに揺れているさまなどには、気がつかないものだ。
それは、満開に咲き誇る花々がちょうど、
目的に向かって一心不乱なあまり、周囲を慮ることを知らぬ若者たちに似ているようなものだ。