近世・近代ヨーロッパにおけるユダヤ人社会 | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 


『物語ユダヤ人の歴史』より、今回で最終です。

 

カトリックが支配した中世のヨーロッパ社会は、十字軍を契機にしたイスラーム世界との出会い、黒死病流行による人口激減などを経て農民の力も増幅し、さらに大航海時代と宗教改革によって崩壊(一方で東欧の一部ははイスラームの強大な軍事国家オスマン帝国が支配)。

 

そしてヨーロッパは近代に向けた新しい時代「近世」を迎えます。近世は商業主義と資本主義が拡大すると同時に啓蒙主義が芽生え、近代の「=宗教」よりも「=経済・民族・個人」が優先される時代へと変わりつつある時代。

 

そして近代は、ユダヤ人も隔離政策ではなく、近代市民社会の一市民としての立場を確保するも、反ユダヤ主義の台頭でポグロムやホロコーストなどの歴史上稀にみる惨劇に遭います。

▪️近世ヨーロッパ(16-19世紀)におけるユダヤ人社会

カトリック一強から宗教改革や軍事国家オスマン帝国の強大化によって宗教の権威が混沌とし始めます。

 

中世のユダヤ人たちは、度重なる迫害と追放によってオスマン帝国内やヨーロッパ中に拡散し「金貸し業」「小規模な質屋」「古物の売買」などを生業にして生き延びてきました。

 

が、近世になって市民社会の萌芽が芽生えて以降、西欧ではユダヤ人をユダヤ社会と地域的な閉鎖社会の住民としてではなく、国家を形成する一市民として考える見方が出てきます。

⑴ユダヤ(アシュケナジム)を招聘したポーランド

今と違ってヨーロッパの大国の一つだったポーランド(+リトアニア)では、特に広大な領地を経営する専門家や遠距離貿易のできる商人が不足していたことからユダヤ人の移住を促進。

 

特に十字軍以降、ドイツから東欧の各地に分散していたアシュケナジムは、こぞってポーランドに移住し、安住の地を得ます。地方の領地で暮らすことを嫌ったポーランドの貴族たちに代わってユダヤ人たちが彼らの代わりに地方の領地に住み、その経営にあたりました。

 

17世紀はじめにはポーランド全土にわたって居住するようになり、職人、農民、商人、税の取り立て人、関税の徴収者として生業をたてました。

 

彼らアシュケナジムは、もともと住んでいた場所のドイツ語を話していたものの、東欧のスラブ語や彼ら自身の書き言葉であるヘブライ語も混ざって、イディシュという独自の話し言葉を生みます。

 

しかし1648年にウクライナのコサックがポーランドに反旗を翻してポーランドに侵攻を始めると、またもやユダヤ人たちは、ギリシア正教への改宗を求められ、十字軍の時と同様、改宗を拒んで集団自殺の道を選択するか、大量虐殺(ポグロムという)の憂き目に遭い、人口が激減。

 

さらに1770年にポーランドがプロシアとオーストリアとロシアの間で分割されると、ユダヤ人が住む地域はロシア領に編入。ロシアはユダヤ人の住む土地を制限するとともにユダヤ法を制定。土地を借りることやアルコール飲料を農民に販売することを禁じるなどの制限を設けます。

⑵ユダヤ人を排斥した宗教改革

1517年にマルティン・ルターによって始められた宗教改革は、キリスト教聖職者の反ユダヤ教的な態度を強化する方向に向かいます。

 

ルターは「聖書以外の権威を認めない」という立場からユダヤ人をキリスト教に改宗させるべく動いたものの失敗に終わった結果、ユダヤ人を「不愉快な害虫」と呼んで、逆に反ユダヤ的態度を明確にします。

 

同時にローマ教皇庁の方も、中世には生命と財産権の保持をユダヤ人に認めていたものの、プロテスタントに対抗して、より原理主義化したためにユダヤ人もその犠牲となってしまう。

 

そして西欧では「近世版アパルトヘイト」ともいうべきゲットー(壁に囲まれたユダヤ人だけの居住区)を新設し、ユダヤ人の隔離政策を推し進めます。

⑶近代市民社会の一員としてのユダヤ人

16世紀後半になると宗教改革の進行によってオランダ・ベルギーなどはカトリック・スペインから独立。その間ポルトガルがスペインに併合されたため、ポルトガル在住のセファルディム(新キリスト教徒&マラノも含む)の多くがアムステルダムに移住。17世紀半ばにはドイツからのアシュケナジムも加わるもののセファルディム中心の社会を形成。

 

彼らの中にはベネディクト・スピノザなどの哲学者も輩出(スピノザ自身はユダヤ教から破門される)する一方、30年戦争(1618−1648)での財政資金供給先としても活躍するなど、ユダヤ人たちの西欧における地位は確固たるものになっていきます。

 

ヨーロッパ近世は、啓蒙主義の進展の結果、国家と市民についての新しい概念、すなわち、国家は単一の法の元に支配される個々の市民によって構成されるとの近代市民社会の考え方が、自治あるいは反自治の集団(当然ユダヤ人社会も含まれる)の連合体とする考え方よりも次第に優位になってきた時代。

 

この結果ユダヤ人を個々の市民として見る好意的な見方も現れ、彼らの経済的、社会的、政治的状態の改善に寄与。

 

フランス革命(1789)においても、ユダヤ人に対してはフランス人として文化的に同化するならばフランス市民としての完全な権利を認める、という態度。

 

オーストリアの皇帝ヨゼフ二世(1741−1790)も、彼らに相応しい教育を受けさせることができれば、ユダヤ人を国家の一員として完全な市民権を与えるとの考え方を示します。

▪️近代のユダヤ人とアメリカ移住(19世紀〜)

⑴ロシアにおけるユダヤ人迫害

ロシアのニコライ一世(在位1825ー1855)は、ユダヤ人をロシア人に同化すべく、ユダヤ人青年男子の一定数を兵役に取り合って25年間の兵役期間のうちにロシア正教に改宗させるべく教育します(→ロシア版イェニチェリですね)。

 

さらに、アレクサンドル三世(在位1881−1894)は、1881年から始まる大量虐殺(ポグロム)に始まり、1882年「5月法」を制定し、ユダヤ人は村落から完全に放逐され、居住境界内の市街地に住むことを強制。

 

このようなロシアの迫害に対して当時ロシアに580万人いたユダヤ人は1880年ごろから大量に新大陸に移住。一方でユダヤ人にとってロシアよりも安全な場所であったルーマニアやオーストリア=ハンガリーからも大量の移民が流出した点からみても、より深刻だったのはユダヤ人の貧困。

 

東欧からはじき出されたユダヤ人たちにとって、新大陸の中でも強大で豊かで信仰の自由を重んじたアメリカは理想の移住先でした。

 

一方でロシアに残ったユダヤ人は悲惨でしかない状況に。幾度ものポグロムに見舞われ、ロシア革命後もレーニンによってもポグロムは度々発生。特に1918年から1919年にウクライナで起こったポグロムは特に悲惨極まりない状況だったらしい。

⑵ユダヤ人にとっての理想郷「アメリカ」

大量の移民を受け入れたアメリカですが、アメリカのディアスポラ社会は今まで歴史上に現れたどの地域のものとも異なっていました。

 

一般的にディアスポラ社会では、ユダヤ人はヨソモノ(外国人)であることを強く意識する社会であり「常に故国に帰る機会を絶えず望みつつ、定住する」というのがユダヤ人のディアスポラ社会における姿勢。

 

ところがアメリカという国家は、(アメリカインディアンはいたものの)成り立ちとしては100%の移民国家。ユダヤ人自身が大きな社会の一員として参加する一方、世界のユダヤ民族に対する同胞意識の保持が可能な国家で、歴史上世界で初めてユダヤ人がユダヤ人として、一市民として積極的に活動することが可能になった社会。

 

何百万人というユダヤ人がアメリカ合衆国に安住の地を見つけ、蔑まれた異邦人の生活から法に守られた完全な一市民の生活への変化を経験したのです。

 

しかし一方、ヨーロッパには何百万人ものユダヤ人が残り、やがて彼らは絶滅の時を迎える。

▪️ホロコーストの惨劇とシオニズム運動

⑴ドイツ市民からホロコーストの対象へ

ドイツにおいては、啓蒙主義の流れの中でユダヤ人は19世紀に市民権を認められます。ドイツの文化を受け入れつつ自らドイツに同化しようとしたユダヤ人たちは1870年の普仏戦争でドイツ人とともに戦い、第一次世界大戦でユダヤ人が獲得した鉄十字勲章はユダヤ人社会の誇りでしかなく、祖国ドイツに対する忠誠の証でもありました。

 

ところが第一次大戦における敗北と屈辱、そして膨大な賠償金による経済危機は、極端な国粋主義を生み出します。中でもヒットラーの国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)は、一躍全国的な指示を獲得。

 

ヒットラーはドイツの敗北はドイツ人の怠慢ではなく、ユダヤ人の背信にによるものだと主張。

 

もっとも上等たる民族が自分たちアーリア人でその下に地中海人、更にその下に黒人、そして最も最下層の人種がユダヤ人種で、彼らは遺伝的に犯罪人種であり、文明を腐敗させ破滅させる存在である、と解釈。

 

1935年にはユダヤ人は市民権を剥奪され、あらゆる職業から学校から追放されドイツにおけるユダヤ人の居場所と生業は無くなります。

 

当時のユダヤ人たちは移住できるものは移住したものの、大半のドイツ在住ユダヤ人にとって、まさかドイツのような近代化した文明国においてヒットラーのような怪物がいつまでも政権についているとは想像できなかった、というのが大筋の考え。

 

なので、いつか同輩のドイツ人も正気に戻り、ナチス政権を倒すかその政策の変更を迫るだろうと思っていたのです。

 

しかし1938年「クリスタルナハト」として知られるユダヤ人大量虐殺を契機にドイツにおけるユダヤ人社会の文化的・経済的生活は事実上破綻。あとはご存知のようにユダヤ民族完全抹殺のためのあらゆる大量虐殺が始まるというわけです。

 

著者曰く

戦争が終わった時、ドイツには事実上ユダヤ人はおらず、世界のユダヤ人社会の中心地であった東ヨーロッパはユダヤ人の墓場と化し、ユダヤ人の組織や施設は粉々に砕かれ、住人は殺されるかちりぢりに離散した。ヨーロッパでのユダヤ人の生活は完全に終焉したのである。

本書238頁

⑵シオニズムとイスラエル建国

19世紀のヨーロッパにおける民族意識の高揚は、新しい枠組みの共同体「近代国家(ネーションステイト)」を誕生させます。

 

1776年のアメリカ合衆国建国にはじまった近代国家という新しい国家体制はイタリア(1861年)・ドイツ(1871年)の統一、およびオスマン帝国・オーストリア=ハンガリー帝国の衰退による、セルビア人、ブルガリア人、ルーマニア人、ギリシア人、そしてムスタファ・ケマル(アタトゥルク)による近代トルコの建国(1923年)。そして日本は大日本帝国(1868年)という想像の共同体=近代国家を誕生させます。

 

19世紀のユダヤ人は、東欧での絶え難いような異端者としての扱い、市民として認められながらも相変わらず反ユダヤ人感情に気遣わなければならない西欧での生活からなんとか脱却したいという思いと、近代国家設立の世界の流れとが相重なり、なんとしても「イスラエルの地」つまり今のパレスチナに国家を建設したい、という思いにつながります。

 

パレスチナにはすでにセファルディムの子孫の他、18世紀から19世紀の初めに中東やヨーロッパ各地から移住してきたユダヤ人の子孫などかなりの数のユダヤ人がすでに住んでおり、1860年の時点ではイェルサレムの壁の外にユダヤ人街が形成されていました。

 

そしてシオニズム運動(=ヒバット・ツィオン運動)に火をつけたのが、前述の1881年のロシアのアレクサンドル三世のポグロム。この結果ロシア含む東欧では一般社会に同化することは絶望的であり、パレスチナに帰還する以外方法はない、としてパレスチナに移住(第一次アリヤという)。

 

第二波は、1903年のロシアキシニョフにおけるポグロムと1917年のロシア革命。彼らは社会主義者の側面もあって独特の集団農業組織「キブツ」と協同組合的組織「モシャブ」をパレスチナに導入。

 

ちなみにオスマン帝国時代からパレスチナにはユダヤ人は住んでおり、東欧のユダヤ人たち(ビールーという)が彼らに合流したというのが事実であって、パレスチナの地にユダヤ人がいなかったわけではありません。

 

ハンガリー系ユダヤ人ヘルツルは1897年「第1回シオニスト会議」を主催。この会議では「シオニズムはパレスチナの地に国際法で保障されたユダヤ人国家の建設が達成されることを切望する」という議題を決議。

 

そしてパレスチナに移住したユダヤ人たちは、話し言葉の標準語として「ヘブライ語」を復活。

 

この間、パレスチナにおけるアラブとユダヤの利益相反は深刻となりますが、当地を保護領化していたイギリスは、ユダヤ人に対する約束「バルフォア宣言(※1)」を優先してイスラエル建国に加担。

※1バルフォア宣言

ロスチャイルド家(ユダヤ人)から戦費を調達する代わりにイギリス政府はパレスチナにユダヤ人が祖国を建設することに賛成し、この目的の実現に向かって最大限の努力をする」という外務大臣バルフォア卿の宣言。

 

一方でアラブに対する約束「マクマフォン協定(※2)」への気遣いから、イギリスはパレスチナを分割してトランスヨルダン首長国を作り、すでにイラク王に即位させていたファイサル一世の兄、アブドゥッラー1世・ビン・アル=フサインにこれを与えます。

*2マクマフォン協定

オスマン帝国の統治下にあったアラブ人たち(ハーシム家)に対してオスマン帝国への武装蜂起を呼びかけ、その呼びかけに応じたのがムハンマドの子孫「アブドゥッラー1世」とその子供達。イギリスはその対価として1915年、アラブ地域の独立承認を約束。

そしてさらにイギリスは、第二次世界大戦後、ユダヤ難民を満載した船がヨーロッパからパレスチナに到着してもイギリス軍が追い払うなど、アラブ寄りの姿勢を見せるとともにキプロスにユダヤ人不法移住者の勾留施設を建設して難民船のユダヤ人を勾留したのです。

 

このあと、イギリスはパレスチナ問題を放り出して国連にその解決を委ね、1947年国連総会はユダヤとアラブ双方の国家建設を提案して米国もソ連も支持。1947年に国連はパレスチナを分割し、ユダヤ人国家とアラブ人国家を建設する案を可決。

 

しかしアラブ連盟は反対の立場のまま、イギリス軍はパレスチナから撤退しつつ1948年にイスラエルが建国されるのです。

 

その後は幾たびかの中東戦争を経て今のハマスとイスラエルとの紛争に至る、というのがユダヤ人の歴史。

 

▪️最後に

最後の著者シェインドリンの言葉が印象的。

今日では方や文化的にも知的方面でも生産力あふれる母国が存在し、かたやユダヤ的生活を送りながら他の文明国の国民として生きることもできるのである。今やユダヤ人にとっては、ユダヤ人でありながら、文化的に、宗教的に、知的に、組織的に、いかなる選択も可能となったのである。イスラエルもディアスポラ社会も、それぞれ様々な課題を抱えているのは事実であるが、いまほどユダヤ人の歴史にとって良き時代はないのも事実である。

本書289頁

とのことで、これは先進民主主義国家だけに当てはまるのでは、とは思いますが、歴史的に長い間虐げられてきたユダヤ人社会の事例をみれば、いかに民主主義が、様々な人々を幸福にするか、ということは明白です。

 

この歴史的にも地域的にもこの「希少な制度」を私たちもなんとか守り続けなければいけない、と思います。