災害ユートピアもしくは天皇と革命 | 時の過ぎ去るがごとく

災害ユートピアもしくは天皇と革命

 近大の大学院のすがゼミでは、クロポトキンの相互扶助論や戦前の右翼の昭和維新論などからブレヒト論やゴダール論、中上健次論まで、様々なテーマを取り扱っている。災害ユートピア論というテーマではクロポトキン的な相互扶助論が取り上げられたが、近年ではその再評価のような論調が根強くあるらしい。そこには「権力をとらずに・・・」論の傾向と結びつく流れがあるが、日本では戦前の右翼とクロポトキン的な相互扶助論的アナキズムとの結びつきがある。いうまでもなく権藤成卿の社禝の思想との関連性であり、他にも橘孝三郎の愛郷塾的共同体論もあるが、クロポトキン派アナキストとしては石川三四郎の天皇制アナキズムがあげられる。
 この権藤的な社禝と通底性を持つクロポトキン的相互扶助について、災害ユートピア的発想を東北大震災の現実に当てはめればどうなるだろうか。すがゼミでは半ば冗談のような面持ちで話題になったが、東北大震災の現実は、戦前の昭和維新の状況と似ている要素があるのではないかということだった。つまり、人々は、パニックを起こすことも無秩序な略奪を行うこともなく、それぞれが自分たちの発想とアイデアで助け合い、相互扶助の現実を形成している。そして天皇は、そのような国民と共にあることをはっきりと述べている。しかし天皇と国民の間にあって、天皇と国民の美しき神国的一体性に邪魔をいれているのが、政争と保身に明け暮れる政府民主党をはじめ自民党以下の政治家たちであり、また自らの利益しか考えない東電その他の経済界の「君側の奸」たちではないかということだ。
 二・二六蜂起の際、蜂起軍は「尊皇討奸」の旗を掲げていたが、かつての昭和維新の基本的立場は、天皇と国民の一体感を阻む奸賊の討伐にあったが、今もそれに似ており、右翼にとってはかつての昭和維新以来の「尊皇討奸」の時期ではないかという話だが、結論は、三島由紀夫以降の右翼の人材不足ということと、討奸ではシステムを倒せないというアポリア談義にとりあえずは落ち着いた。アナキズムに関していえば、バクーニン的な党的結社論とクロポトキン的な相互扶助論があるが、対抗暴力論を持つバクーニン主義に対してクロポトキン的な相互扶助論は所詮はネオリベに吸収されざるをえないだろう。
 災害ユートピアについては、Mixiのマイミクの江戸屋猫八百君のブログを参照されたい。
 http://d.hatena.ne.jp/edoyaneko800/20110530


 ところで二・二六に関連して死刑に処せられた北一輝が、天皇大権の発動による「日本改造法案大綱」という維新革命のプログラムを構想したことはあまねく知られており、またそれは戦前戦後において、花田清輝曰く「ホームランすれすれの大ファウル」だったことも知られている。
 北の維新革命論のリアリズムは、天皇と革命を結びつけたところにあるが、これまた周知のごとく、左翼は戦前も戦後も、革命は天皇システムを否定するものと考えてきた。そこには近代の皇室制度つまり天皇システムを君主制と捉えたコミンテルン的解釈の影響と遺制が考えられるが、一方は、天皇と革命を結びつけ、他方は天皇と革命を背反するものとする。これはどちらが正当なのだろうか。
 革命の正当性あるいは大義とは何であるかといえば、簡単にいえば抑圧され支配されてきた人々(民衆でも階級でも構わないが)の苦境からの解放にあった。しかし、それが実は、人々の苦境からの解放を利用した権力闘争ではなく、真に人々の苦境からの解放だということは何によって根拠づけられるのだろうか。言い換えれば、普遍的な大義の担保とでもいえようか。天皇と革命の問題はこれに関連していると思われる。
 『デルクイ』創刊号の拙論でも述べたが、日本は天孫降臨以来、革命国家なのだが、それは別言するならば日本には、天皇しか革命の担保はなかったのではないかということだ。それが、どこからともなく出現した神武のあり方と、そのような存在に対する天孫降臨したニニギ後継者という受け取り方である。神武が高天原で天照大御神の神勅を受けて天孫降臨したニニギの子孫というのは、いうまでもなく担保のイデオロギーだろう。神武の実体は、どこからともなくやってきた存在というところにあり、そこに神武の党的存在性があるのだが、このいわば外部から来訪した正体不明の存在が大和に東征して建国し、その正当性の担保としたものが、先祖のニニギの高天原からの天孫降臨という信仰である。むろんこのような信仰には何の根拠もない。それは不渡手形のようなものだ。しかし、無根拠という負債が、子、孫、子孫によって引き継がれるかぎり、神武が何者なのかについての手形は不渡りとなることはない。つまり神武は、天照大御神の神勅を受けて天孫降臨したニニギの後継者であり得ることになる。皇統が絶えてはならないという内実はそこにあるといってもいいだろう。
 ここにあるのは神武という初代天皇の「出現」と「制度」であり、前者の革命性と後者の保守性だろう。つまり天皇は、その出現においては革命的なのであり(どこの誰か分からないという意味で)、制度においては保守的(至上の尊貴な存在という意味で)なのであり、天皇が革命とも保守とも結びつく所以もこのようなところにあり、南北朝時代の問題もここにある。南朝を正統であり官軍とする歴史認識によっては、後醍醐天皇の出現も北畠親房の神皇正統記の思想も、はたまた三島由紀夫の文化防衛の危機意識も理解出来ないだろう。南朝とは出現であり、北朝とは制度だが、だからといって制度を否定すればよいというわけでもない。なぜなら制度こそが出現を可能にしているからだ。むろんそんな制度はフィクションだろうと言ってしまうならば、現実などはすべてお約束ごとでありフィクションにすぎないといえる。