旧家の没落と消滅
テーマ:過去現在の日々の事ども私が帰阪した1987年頃は、まだ子供の頃は私の父親とよく一緒に遊んだという先代の当主が健在だった。ところが子供は娘一人であり、この人はマスメディアの仕事に関係した社会意識のしっかりした女性だったが、先代の死後、数年にして病気で死に、そして婿養子もまた数年前に死んだらしい。先代からすると孫にあたる現在の後継者は、一人は横浜に住み、もう一人は細君がドイツ人で外国住まいであり、いずれも、生まれも育ちも、私の窓の外に見える家屋敷とは関係なく、それゆえ売却したとのことだ。目の前に視線の対象として見ていた旧家が1つ、このようにして消滅していくのだが、おそらく都市においては、このようにして無数の旧家が消滅していったのだろう。
私の父の家も母の家も、それぞれ趣の異なる旧家だったが、すでに没落しており、今は見る影もない。
父の家は、江戸時代には油問屋を営んできた家で、住吉大社で使用する油類は、すべて父の家から住吉大社が購入していたものだったらしい。元は、摂津源氏の傍流で、南北朝時代から足利時代にかけては備前守忠勝が赤松円心の重臣だったが室町時代に帰農し、当時は、現在の神戸市の東灘区にある御影にいたが、江戸時代に大阪の住吉に移り商家となったらしい。平安末期の良忍開祖の融通念仏という家の宗旨から、平野区の坂上氏に連なる豪商の末吉家の一族と何らかの関係があったらしいが詳しいことは分からない。江戸時代は、元武家ということで苗字帯刀を許された富裕な庄屋の一族だったらしく、その痕跡は近隣の神社や寺への寄付などで刻まれている曽祖父や祖父の名前からも分かる。
没落の発端は、大伯父にあたる当主が、学生時代に左翼運動に関係し、米騒動の頃に大阪の政治活動のりーダー格で政治事件に連座したことにあった。大伯父の母(私からすると高祖母になるが)が、地元に置いてはおけないと判断し、本家の後継者としての大伯父の相続する資産を処分して金に替えて与え、大伯父は単身、東京へ転居した。残ったのはその妹で、婿養子を迎えて、新しく本家を擁立した。
ところが、戦前は、婿養子はあくまでも婿養子でしかなく、彼は、社会的に私の祖母になる女性の「婿」でしかなかった。子供は11人も作ったのだから夫婦仲は良かったらしい(そのうち、3人は幼少で死去)。しかし、それでも婿という境遇に変わりはなく、彼、つまり祖父はそれに我慢出来なかったのか、社会的な奉仕感情の強い人物だったのか、生活に困った人の保証人になり続け、その結果、所有していた土地や家屋は次々と他人の手に渡っていった。今、国立の某大の総長になっている従兄弟から以前に聞いた話では、近隣には、一族の馬場があり、またモダンなテニス・コートなどもあったらしい。
私の父親は八人兄弟の末っ子で、戦争の終わった次の年に戦地から復員したが、父(私の祖父)はすでに死去しており、家は空襲で焼け、焼け残った蔵の中に母親(私の祖母)がいたらしい。軍医で大尉だった父の兄も復員し、かろうじて残った蔵の跡地と、いくつかの散在する所有地で、戦後が始まったのだった。
父親は意外なほどのモダンボーイでもあり、ジャズが好きでダンスホール通いも頻繁で、またダンスも巧かったと聞いている。母親とは恋愛で、女専(旧制)を出た20歳位の頃、ニキビの処理に、父親の兄が開いていた病院を訪れ、どうやらそこで手伝いをしていた父親と出会ったものらしい。恋愛結婚をして、阿倍野区の府立天王寺高校の近くの借家に新婚の住居を構え、そこで私が生まれたとのことだ。
母親の生家も旧家で、資産上は商家だった父親の家に比べると士族だった母親の生家は慎ましいが、それでも摂津源氏の源仲政(源三位頼政の父親)に始まる家譜を伝え、新潟の生家所在地では有数の士族の旧家で、幕末・明治維新期に一度没落し、祖父が一家を為すことになり、親戚には華族(都築男爵家)もあり、祖母の生家の両親の家は江戸時代は鳥取藩と土佐藩の家老や家老格の家でもあった。その間に生まれた母親の母つまりは私の祖母だが、家事はすべてお付きの女性がやり、本人はしたことはなかったらしく、私の母親も、彼女の母が家事をしているところは見たことがないと言っている。
ともあれ、父の生家の没落は、二段構造になっている。まず、本家の正嫡子の左翼政治運動への関与による本家の没落。次いで、新本家になった分家の跡継ぎの娘の婿養子による借財の保証人問題での資産喪失。加えて、戦後の家制度の変更も加わったことだろう。例えば、婿養子だった祖父の戸籍を取り寄せると、50代前後に隠居しており、家長を長男に譲ったことなどが記されてある。今だと、隠居とか家長の相続などは実体としてはなく、各家の家族の私意識の産物にすぎないが、祖父の頃まではまだ戸籍に記されるようなことだったようだ。
ちなみに、左翼運動に関係し、東京へ行った大伯父は、晩年は、百科事典で知られる平凡社の重役だったらしいが、詳しいことは分からない。ただ、一族の菩提寺になる『往生要集』で知られる恵心僧都こと源信創建と伝える、住吉大社近くの融通念仏の寺にある大伯父が相続するはずの墓は、その妹である祖母の五男である伯父の子で、大学総長の従兄弟が相続し、線香と花を供えている。ちなみに、私は、その大伯父の父親つまり曽祖父の弟になる人の墓を継いでおり、父親をそこに埋葬している。いずれ私もそこに入ることになるのだろう。








