1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2012年05月22日

旧家の没落と消滅

テーマ:過去現在の日々の事ども
 私の部屋の窓の外には、父の代までは旧家として交流のあった某家の屋敷がある。季節の変わり目にはいつも植木職人が来て、終日かけてパチンパチンと、その庭にある植木の処理をしていた。その光景は、窓から見える緑の木立と共に私には、見慣れた親しいものだった。ところが聞く所によると、今年の夏に、その屋敷も庭も無くなるとのことだ。
 私が帰阪した1987年頃は、まだ子供の頃は私の父親とよく一緒に遊んだという先代の当主が健在だった。ところが子供は娘一人であり、この人はマスメディアの仕事に関係した社会意識のしっかりした女性だったが、先代の死後、数年にして病気で死に、そして婿養子もまた数年前に死んだらしい。先代からすると孫にあたる現在の後継者は、一人は横浜に住み、もう一人は細君がドイツ人で外国住まいであり、いずれも、生まれも育ちも、私の窓の外に見える家屋敷とは関係なく、それゆえ売却したとのことだ。目の前に視線の対象として見ていた旧家が1つ、このようにして消滅していくのだが、おそらく都市においては、このようにして無数の旧家が消滅していったのだろう。
 私の父の家も母の家も、それぞれ趣の異なる旧家だったが、すでに没落しており、今は見る影もない。
 父の家は、江戸時代には油問屋を営んできた家で、住吉大社で使用する油類は、すべて父の家から住吉大社が購入していたものだったらしい。元は、摂津源氏の傍流で、南北朝時代から足利時代にかけては備前守忠勝が赤松円心の重臣だったが室町時代に帰農し、当時は、現在の神戸市の東灘区にある御影にいたが、江戸時代に大阪の住吉に移り商家となったらしい。平安末期の良忍開祖の融通念仏という家の宗旨から、平野区の坂上氏に連なる豪商の末吉家の一族と何らかの関係があったらしいが詳しいことは分からない。江戸時代は、元武家ということで苗字帯刀を許された富裕な庄屋の一族だったらしく、その痕跡は近隣の神社や寺への寄付などで刻まれている曽祖父や祖父の名前からも分かる。
 没落の発端は、大伯父にあたる当主が、学生時代に左翼運動に関係し、米騒動の頃に大阪の政治活動のりーダー格で政治事件に連座したことにあった。大伯父の母(私からすると高祖母になるが)が、地元に置いてはおけないと判断し、本家の後継者としての大伯父の相続する資産を処分して金に替えて与え、大伯父は単身、東京へ転居した。残ったのはその妹で、婿養子を迎えて、新しく本家を擁立した。
 ところが、戦前は、婿養子はあくまでも婿養子でしかなく、彼は、社会的に私の祖母になる女性の「婿」でしかなかった。子供は11人も作ったのだから夫婦仲は良かったらしい(そのうち、3人は幼少で死去)。しかし、それでも婿という境遇に変わりはなく、彼、つまり祖父はそれに我慢出来なかったのか、社会的な奉仕感情の強い人物だったのか、生活に困った人の保証人になり続け、その結果、所有していた土地や家屋は次々と他人の手に渡っていった。今、国立の某大の総長になっている従兄弟から以前に聞いた話では、近隣には、一族の馬場があり、またモダンなテニス・コートなどもあったらしい。
 私の父親は八人兄弟の末っ子で、戦争の終わった次の年に戦地から復員したが、父(私の祖父)はすでに死去しており、家は空襲で焼け、焼け残った蔵の中に母親(私の祖母)がいたらしい。軍医で大尉だった父の兄も復員し、かろうじて残った蔵の跡地と、いくつかの散在する所有地で、戦後が始まったのだった。
 父親は意外なほどのモダンボーイでもあり、ジャズが好きでダンスホール通いも頻繁で、またダンスも巧かったと聞いている。母親とは恋愛で、女専(旧制)を出た20歳位の頃、ニキビの処理に、父親の兄が開いていた病院を訪れ、どうやらそこで手伝いをしていた父親と出会ったものらしい。恋愛結婚をして、阿倍野区の府立天王寺高校の近くの借家に新婚の住居を構え、そこで私が生まれたとのことだ。
 母親の生家も旧家で、資産上は商家だった父親の家に比べると士族だった母親の生家は慎ましいが、それでも摂津源氏の源仲政(源三位頼政の父親)に始まる家譜を伝え、新潟の生家所在地では有数の士族の旧家で、幕末・明治維新期に一度没落し、祖父が一家を為すことになり、親戚には華族(都築男爵家)もあり、祖母の生家の両親の家は江戸時代は鳥取藩と土佐藩の家老や家老格の家でもあった。その間に生まれた母親の母つまりは私の祖母だが、家事はすべてお付きの女性がやり、本人はしたことはなかったらしく、私の母親も、彼女の母が家事をしているところは見たことがないと言っている。
 ともあれ、父の生家の没落は、二段構造になっている。まず、本家の正嫡子の左翼政治運動への関与による本家の没落。次いで、新本家になった分家の跡継ぎの娘の婿養子による借財の保証人問題での資産喪失。加えて、戦後の家制度の変更も加わったことだろう。例えば、婿養子だった祖父の戸籍を取り寄せると、50代前後に隠居しており、家長を長男に譲ったことなどが記されてある。今だと、隠居とか家長の相続などは実体としてはなく、各家の家族の私意識の産物にすぎないが、祖父の頃まではまだ戸籍に記されるようなことだったようだ。
 ちなみに、左翼運動に関係し、東京へ行った大伯父は、晩年は、百科事典で知られる平凡社の重役だったらしいが、詳しいことは分からない。ただ、一族の菩提寺になる『往生要集』で知られる恵心僧都こと源信創建と伝える、住吉大社近くの融通念仏の寺にある大伯父が相続するはずの墓は、その妹である祖母の五男である伯父の子で、大学総長の従兄弟が相続し、線香と花を供えている。ちなみに、私は、その大伯父の父親つまり曽祖父の弟になる人の墓を継いでおり、父親をそこに埋葬している。いずれ私もそこに入ることになるのだろう。
2012年05月11日

水上滝太郎の大阪物の小説から

テーマ:文学関係
 水上滝太郎という作家に、『大阪』、『大阪の宿』という作品がある。東京の会社員が転勤で大阪へ来て、彼が体験し、見聞した大阪の断片を描いたものといえよう。
 初めて読んだのは小学生の高学年の頃だった。ませた文学少年だった私は、歳相応の少年が読むような文学は、小学校の低学年で読みつくし、通常の大人が読むような小説に手を出していた。しかも、夏目漱石や森鴎外というような正統派の古典から少し外れた、大衆小説の感覚を持ったようなものを好み、例えば獅子文六がそうであり、この水上滝太郎もそうだった。もちろん小学生の私に小説の内容がどこまで分かったかははっきりしない。ただ、記憶に残る印象では、子供の頃の私は、小説のストーリーよりも文体というか文章の方に興味があったようで、だから子供には分かるはずもないような、大人の生活感や心象を綿々と描いたような小説も平気で読んだりしていた。
 水上滝太郎の小説に描かれた大阪は、戦前の、人口が東京を抜き、日本一の大都市となり「大大阪」と形容された最盛期の少し後の大阪だろうか。主人公は、中之島界隈の宿に、転勤の間の、いわば臨時の生活空間を定め、そこから、東京のビジネスマンの視線で、周囲の、彼の目から見れば、猥雑な喧騒感の漂う人々の行状を、やや距離を置いて観察しているという案配だ。
 そこに描かれる大阪の断片は、あくまでも断片であり、現在も東京サイドの大阪像に少なからずあるような「大阪オリエンタリズム」の先駆とでもいえるような要素に満ちているが、おそらく東京のビジネスマンの視線に映る大阪は、大なり小なり、そのような要素があるのかもしれないと思う。
 私は父方は、大阪だが、母方は新潟経由の東京であり、今も母方の親戚は、世田谷区の上野毛など東京にいる。また私自身、1970年に20歳で東京へ行き、37歳まで東京暮らしをしていたこともあり、大阪と東京のチャンポンのようなところがあると思っている。だから、東京における大阪人の浮き具合も、反対に大阪における東京人の浮き具合も、非常によく分かる。分かりやすい例が、電車の中での、やや耳障りだったり、うるさいと感じられる会話の声だ。東京で電車の社内で関西弁の会話に接すると周囲とやや浮いた感じになり、その特徴ある語彙やアクセントが耳障りになったりすることもあるだろう。同じ現象は大阪でもある。大阪の電車の社内で東京弁の会話に接すると、丸みを帯びた大阪の言葉に対して、東京の言葉は角が立っているような感じになり浮いてしまう。
 水上滝太郎の小説は、そのような大阪で浮いてしまう可能性のある東京の人間の、いわば主観的な大阪観察記ということになるだろう。
 今でこそ大阪は、すっかり地方都市化してしまったが、しかし意外なことに、大阪には地方都市の面貌があまりない。それというのも近代大阪のルーツは、近世の日本経済の中心としての大坂にあり、もともと、政治の江戸と並ぶ全国的な中央都市として作られたからでもある。だから今は本社を東京に移した大手の総合商社などはほとんどが大阪創業であり、戦後も1960年代くらいまでは本社を大阪に置いていた。
 また、大阪はしばしば庶民の街といわれたりもするが、実は大阪は、日本屈指の大ブルジョアの都市でもあった。近世は、武士と職人の街だった江戸に比して豪商や商人の街であり、近代になっても日本経済の中心地であり、そのため、大阪の都心部には、明治・大正期の所謂クラッシックな近代建造物が残っている。大阪大空襲でかなりのものが焼失したが、それでもその数は、今でも東京より多いといわれる。
 その大阪の大ブルジョアは、戦前は、大阪市内の南部の帝塚山と呼ばれるお屋敷町に家を構え、天王寺区の夕陽が丘から阿倍野区、住吉区の帝塚山に続く上町台地の上の地域が、東京における山の手に相応するだろうが、戦後は、行政的には兵庫県になる芦屋市の六麓荘界隈を中心とする地域に住み、日本を代表する所謂高級住宅街とされている。東京ならば、田園調布や成城その他があるが、東京の高級住宅街は、大阪や関西のそれの後を追ったものにすぎないのが実情だ。
 ところで、大阪は大正時代に「日本のマンチェスター」とあだ名されたことがあった。工場地帯に煙突が林立し、そこから立ち込める煙は、その後はスモッグとして忌避されるようになるが、当時は、大阪の繁栄のシンボルのように見なされたのだった。この大工業都市としての大阪に対する評価は、どのようにでも出来るだろうし、疎外論的大阪論が可能ならば、物象化論的大阪論も可能だ。疎外論的な大阪論ならば、日本のマンチェスターなどは否定的な像にしかすぎないが、物象化論的な大阪論になると必ずしもそうではなくなる。
 水上滝太郎の描く大阪は、この大工業都市としての時期のものだろう。そのため、そこにはもはやブルジョア都市としての大阪の面影は無く、庶民の、それもオリエンタリズム的にデフォルメされた一側面での大阪となっている。そこの描かれた大阪と、織田作之助が描いた大阪との落差もまた面白いテーマかもしれない。 
2012年05月01日

小雨降る京都大学殺人事件

テーマ:文学関係

 三浦浩という作家がどれだけ知られ、またどれだけ読まれているかは知らないが、一時期、『京都大学殺人事件』『ウオッカは死の匂い』『海外特派員』『遠い祖国』などの彼の作品を一気に読んだことがあった。ジャンル的には国際謀略を背景とした心理的サスペンス小説とでもいうのだろうか。ただ、心理的サスペンスという言い方をしたところがポイントで、国際謀略という大筋が物語の背景にあるとはいえ、派手な話はない。むしろ、私たちが普段、生きているような、何の変哲もない、ある意味で気怠いばかりの何事も無いように現実が淡々と描かれ、その見えざる現実の背景というか裏側で、秘かにある種の国際的な政治謀略が行われているという感じだろうか。ありふれた日常の片隅にひっそりと顔をさりげなく覗かせている非日常とでもいえるかもしれない。
 最初に読んだのは『京都大学殺人事件』という、見方によっては身も蓋もないタイトルの小説だった。東京から大阪に戻り、ユンガーに言葉を借りれば、「実家に復員しても実家の庭で野営している」ような状態で、まだ何もやる気にならなかった頃、暇潰しに立ち寄った図書館で偶然に目にしたのだった。「◯◯殺人事件」というタイトルのよくあるミステリーにはさしたる興味もなかったが、京都大学という言葉が手を伸ばさせたのかもしれない。というのも、受験に失敗した大学名などあげても仕方のないことだが、1969年に受験した落ちた大学が京都大学だった。担任の高校教師はまず100パーセント受からないだろうと太鼓判を押したのだが、私は何とかなるのではないかと、何の根拠もなくそんなふうに思っていた。当時は、まだ偏差値などはなく、いくら合格の可能性はなくとも、こちらが強くいえば、教師によっては内申書を書いてくれたのだった。加えて、私は大阪府警の公安部からアナキストとして特別要注意の通達が来ていたこともあり、学校は私の要望を拒むことはなく、私は京都大学を受験した。しかし、試験場でたちどころに無謀だったことが分かった。つまり、いくら私の志望が文学系であろうと、私立大とは異なり国立の京大では、理数系の受験科目があり、それらがまったく歯が立たなかった。
 話を戻せば、『京都大学殺人事件』は、殺人事件というタイトルながら、それらしい話はなく、京都大学の理論物理学関係の研究所の助手である主人公の、大学での境遇や心象の描写が続く。私は、話の本筋よりも、むしろこの心象の描写の方に惹かれたといった方がいいかもしれない。それは鴨川であるとか京大のある吉田界隈その他の街の描写に重ね合わされ、またそこに「梅雨の前触れのような細かい雨が降っていた」りというような風景の描写が被せられていたりする。京大では将来に見込みの無さそうな主人公は、海外の研究所への出向を打診される。それは見方によれば栄転といえなくもないが、現実には左遷のようなものだった。それに対して、どうしたものやらと考えている内に、過去に京大の理学部で起きた事件が殺人事件だったことが分かり、しかもそれが海外の社会主義国家を背景にした謀略の一環だったという話だ。
 ストーリーも事件の内容も、またその顛末も、どうということはない。むしろ小説の本題は、そのような事件ではなく、主人公の、心のなかに小雨が降っているような心象世界の描写ではないかと思われるほど、事件の方はとってつけたかのような感がある。主人公は、京都の市内をあてもなく散策し、何かの秘密基地のような大学構内の奥深くにあるような研究室で物思いに耽るという案配だ。
 最初の方で、何の変哲もない日常の片隅に潜む非日常というようなことを書いたが、今でも京大に行くことがあれば、チラリとこの小説のことを思い出し、大学構内に入ると、研究室の建物が続く外部からは見えない奥底では得体のしれない何かの力が蠢いているのではないかと、根拠のない期待感に近いような感慨を持ってしまったりするのだった。

 京都大学についての蛇足を付け加えれば、1969年に京大受験に失敗した私は、その後、東京へ行き、20歳そこそこの高卒の身で思想世界の末席に身を置くようになるが、45歳の時に立命館に入り、卒業した。院に進もうと思ったが、院の面接において、私が提出した研究計画書と論文を見た三人の教授の内、ドイツ人教授は大いに共感してくれたのだが、二人の日本人教授は、ここまでやる気があるのなら京大の院へ行ったらどうかと、とんでもないことを口にしたのだった。私は別に立命館に愛校心など無いが、この二人の教授の口から出た言葉は立命館を愚弄するものではないか(笑)。

2012年02月21日

清長と広重の「六郷の渡」の絵

テーマ:絵画表現

 六郷の渡しといえば、現在の東京の大田区と神奈川県の川崎市を結ぶ、多摩川にあった渡しだが、そのほぼ同じような光景を描いた二つの浮世絵がある。
 一つは、葛飾北斎と並ぶ浮世絵の風景画の巨匠とされる歌川広重(かつては「安藤広重」として知られていた)の代表作とされる『東海道五十三次』にあるものだ。

時の過ぎ去るがごとく


 北斎の強い意志的で、形而上的なものさえ感じるような、いってよければ不自然さも何のそのという『富嶽三十六景』の絵と比べるならば、広重の描く風景画には、センチメンタルなまでに詩情に満ちた筆致が、絵の全体を支配している。むろん北斎にも詩情感に満ちた絵はいくらでもあるが、それでも広重の絵に漂うような情感性のようなものにはやや欠ける恨みはある。例えば、東海道物の評判に気を良くして作られた『木曽街道六十九次』は、当初は渓斎英泉が担当した。日本橋の雪景色から始まる英泉の木曽街道物も最初は可もなく不可もない風景画だったが、やがて別に風景画でなくても構わない盲人たちの集団喧嘩の絵や理屈っぽい絵が続き、そのような英泉の絵は不評だったのか、途中から広重が登場し、しばらくは広重と英泉が交互に描き、後半は広重が単独で描いている。英泉と広重の絵を比べても、英泉の乾いた絵と比べれば広重の絵の旅情感に満ちた絵が人々に支持されたことはよく分かる。もっとも私は、個人的には英泉の絵の方が好きなのだが。
 ところで、六郷の渡しの絵だが、もう一つは鳥居清長によるものだ。


時の過ぎ去るがごとく


 広重の絵は、ジャンル的には風景画だが、清長の絵は美人画になる。
 美人画といえば喜多川歌麿が最も知られているが、歌麿のブロマイド的な美人画に対して清長は、女性の全身像を現代的な八頭身美人として描いたところに特徴がある。
 さらに清長は、美人画の背景として風景を描いたところにも特徴があるといえるだろう。
 ここに取り上げた清長の「六郷の渡」もそうだが、面白いことにこれは上記の広重の「川崎六郷渡舟」と、ほぼ同じ光景を描いていることは、絵の正面に緑の木々が見え、右側の遠景に富士が見えていることからも分かる。
 私が注目したいのは、広重の絵ではなく清長の絵であり、しかもそこに描かれた女性たちではなく、背景に装飾として描かれた風景である。広重の風景画とは異なり、風景はあくまでも背景だから、広重の描く風景と比べるまでもなく装飾的に描かれているにすぎない。しかし仔細に眺めてみると意外に丹念に描かれていることも分かる。つまりメインの女性像を消して、背後の風景だけを見ても、それなりに見られなくもないのだ。これは清長の「三囲神社の夕立」の背景の山や隅田川の川縁で夕涼みする三人の女性を描いた絵のやはり背景である対岸に並ぶ家々の光景などの場合も同様である。美人画の絵師でもある清長にはまだ風景画の視点はなく、また風景画が確立されるには浮世絵においても一つの切断が不可避なのだが、清長が背景として描く風景には、まだ風景画には到らない風景の表現という、浮世絵にも見られる表現の変化の一つの相が見られるようにも思われる。美人画と風景画に描かれた同じ光景を、味わう楽しみもそのあたりにあるのかもしれない。


2012年01月25日

フィヒテの驚愕とドイツ観念論

テーマ:ドイツ文学・思想
 フィヒテというとシェリング、ヘーゲルと共にドイツ観念論の三羽烏の一人だが、ヘーゲル派による哲学史のため、ある意味では矮小化されてきた。つまりカントの批判哲学の後を受けてフィヒテは自我に基づく主観的観念論を展開し、次いでシェリングがそれに対し、フィヒテが非我と消極的に捉えていたものを自然として積極的に捉える客観的観念論を展開し、最後に、ヘーゲルがまだ抽象的だったシェリングの観念論を、歴史、社会へと展開する絶対的観念論を展開し、観念論を完成させたというわけである。ヘーゲル弁証法の図式風にいえば、正(フィヒテ)→反(シェリング)→合(ヘーゲル)ということなのだろう。
 むろんこれはヘーゲル派による整理にすぎず、いわばヘーゲルに都合のいいようにフィヒテやシェリングを位置づけているだけである。例えば、ヘーゲルの死後、ベルリン大学でシェリングは、その後の実存哲学のルーツになるような積極哲学の講義をしており、その聴講生の中には、それぞれ若き学生キェルケゴールやエンゲルス、バクーニンなどがいたことが知られている。
 同じ事はフィヒテに対してもいえる。当初、フィヒテ学徒として出発したシェリングは、フィヒテの自我と非我の捉え方に不満を覚え、フィヒテ批判を展開していく。哲学史上では、そのあたりを持って、フィヒテは舞台から消え、シェリングの独演となる。しかし、当然、シェリングに対するフィヒテの反論はあり、そしてそれはエピソード的なものではなく、重要な哲学的テーマを孕んでいる。同じくシェリングに対しても、ヘーゲルの『精神現象学』をはじめとするシェリング批判があり、舞台の主役はヘーゲルへと移っていく。しかし、ヘーゲルからの批判に対するシェリングの執拗な反論はあったのであり、その一端を示すものが上記のベルリン大学でのシェリングの講義だった。
 戦後の日本では、哲学でドイツ観念論をやろうとする者は、哲学徒を目指す者以外では、左翼のマルクス主義者であり、いうまでもなくマルクス主義の哲学的前史としてのドイツ観念論とりわけヘーゲルだった。つまりヘーゲルを批判したヘーゲル左派のフォイエルバッハをさらに批判して登場したマルクスの哲学的出発点を確認するためである。だからそこではフィヒテやシェリングなどは、克服される過去の哲学的遺物にすぎないヘーゲルの更なる前史にほかならず、名前くらいは出ることはあっても、その哲学がまともに取り上げられることはなかった。ヘーゲル左派の哲学にはフィヒテ回帰のような現象があるということから、対称的なスピノザとフィヒテを対置させるようなチャート的考察があるくらいだったろうか。
 私はフィヒテについては、シェリングやヘーゲル以上に親しみを感じていた。それは上宮高校に入った頃、高校近くの上本町六丁目にあった古書店で、フィヒテの『独逸国民に告ぐ』という戦前に翻訳された本を見つけたことに始まる。そこでドイツ、当時はまだプロイセンを占領したナポレオン率いるフランス軍に対するフィヒテの精神的レジスタンスを呼びかける思想に接したのだった。その後、南原繁の『フィヒテの政治哲学』を読み、フィヒテの政治や社会に対する思想を知り、高校生の私は未熟なフィヒテ学徒となりかけていた。当時、世の中は、三派全学連による羽田闘争の前後であり、私も政治や政治思想に強い関心を持ち始めていた。しかし、フィヒテ関連の政治思想史からの展開で、私はマルクスや共産主義に対しては断固たる批判派だった。革命は必要だが、共産主義は否定しなければならないというのが当時の私の政治意識であり、そのような中で北一輝に出会い、私は、フィヒテ+北一輝のような国家社会主義というのだろうか民族あるいは国民社会主義者のような立場になっていた。身近にいる学校の親しい友人は、反帝高評(解放派)の結成に参加しており、彼からのオルグを受けたり、また顔を出した集会ではブント系の府高連からのオルグも受けた。しかし、確固たる反共産主義の理念を持ち始めていながら革命派の私は、通常の反共主義者とは異なり、共産主義こそ革命の敵なのではないかという立場から共産主義への批判を始めていた。今から考えれば日本資本主義論における講座派に近い立場の、フィヒテ+北一輝的な変形だったのかもしれない。
 しかし、その後、まったくの偶然だが、バクーニンの「破壊への情熱は創造への情熱」であるという言葉に接し、それに霊感のような体験をすることになる。その経緯は以前の日記にも少し書いたが、私はバクーニンがきっかけでアナキズムの存在を知り、高校生のアナキストとなり、大逆事件の予備軍でもあるかのように公安の監視下に置かれることになったのだった。
 その後、アナキズム活動やアナキズム関連の思想の展開、マルクス主義批判に専念することになったが、フィヒテと再会したのは1973年頃だった。
 1970年に、反安保闘争と、アナキスト高校生連合以来の彼女と同棲するため東京に出たが、一年後に、私にとっては運命の女性に等しい彼女とは別れることになった。半年後に、別の女性と出会い、彼女と結婚し、たまたま彼女が申し込んだ団地に当選し、アナキズムの活動をする傍ら、練馬の新築の12階建の建物の8階の2DKの部屋で団地族生活なるものを始めていた。まだ風呂なしの木造アパートの多かった当時としては、鉄筋コンクリートの風呂付きの2DKというのは、ちょっとしたプチブル生活だったかもしない。
 前年に連合赤軍の事件があり、私も最初の著書である『歴史からの黙示』を出したが、当時の微妙な時代の空気の流れに時の変化を感じ、自分のアナキズムを総括しようと思ったのだった。私のアナキズムは、多くのアナキストたちのようなアナキズム一般ではなく、明確なバクーニン主義であり、その意味で私はプルードンやクロポトキンにはそれぞれ批判的でもあった。
 そのような経緯で書いたのが、500枚弱の「総破壊の使徒バクーニン」というバクーニン論だったが、いうまでもなくE・H・カーのような思想抜きのバクーニン伝ではなく、私が志向したのはバクーニンの思想形成の歩みであり、そしてバクーニン個人というよりバクーニン主義という思想の展開だった。当然ながら日本語でのバクーニン研究は、保守派のロシア政治思想史家である勝田吉太郎のものくらいしかなく、手近な海外のバクーニン文献を集めるしかなかった。たまたま妻が立命館の英文科を出ており、英語が堪能だったので、英語を中心にバクーニン関連や近代の革命運動史関連の文献を集め、当時まださして読めもしないドイツ語のリカルダ・フーフのバクーニン論なども手に入れたりしていた。
 そうしてバクーニンの思想形成を追い始めたのだが、青年時代の彼が最初に影響を受けたのはドイツ・ロマン派であり、哲学ではフィヒテだたことが分かったのだった。今度はさっそく、ドイツ・ロマン派やフィヒテの文献を探したが、今と違ってそれらの市販の著書はなく、国会図書館に足を運ぶことになった。久しぶりにフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』をはじめ、戦前の京都学派の木村素衛訳の『全知識学の基礎』を入手し、その頁をめくった。『ドイツ国民』の方は何とか分かるが、『知識学』については、哲学を独学してきたにすぎない23歳の私には皆目分からない難関書だった。ただこの時はバクーニンの思想形成がテーマだったので、あくまでもバクーニン・ラインで読解も進め、バクーニン論としてまとめ、『情況』に3回に渡って分載した。
 1975年に私生活上の変化もあり、私は離婚して国立駅北口の国分寺市富士本の近所に畑の広がるアパートで暮らすようになった。その時に、バクーニンが影響を受けた思想、つまりドイツ・ロマン派やドイツ観念論からヘーゲル左派、フランス社会主義などから、彼が関係したり関心を持ったワーグナーの音楽やショーペンハウアーの哲学などに取り組んでみようと思い、とりあえずフィヒテの『知識学』から読みはじめたのだった。
 当時の私は、イギリスのバークリー流の主観的経験論とでもいうような立場の只中におり、現実があるということが不思議でならなかった。意識はどこまでいっても現実にたどり着かず、中空を漂っていた。目に見えて意識の視野にあるものだけが、とりあえず存在し、それ以外は、後ろの壁も、隣の部屋も、駅前の店屋も、実は何も無いのだと思われた。自分をかろうじて支える理性の力がなければ、ひょっとすると神経症関係の病気になっていたかもしれないと思う。
 そのような中でフィヒテの『知識学』は、実に不思議な本だった。フィヒテは、主観としての意識があることの不思議さと、その成り立ちを思考し、説明しようとしているように思われた。フィヒテの師匠的な存在でもあるカントは、すべての現象の根底には、自我という意識があると述べていた。万物の根源としての「イッヒ・デンケ」である。この「イッヒ・デンケ」が消滅すれば、世界は消滅するのだ。死後の世界などはなく、また生前の世界などはない。それらは「イッヒ・デンケ」としての意識が構成したビルト(像)にすぎない。フィヒテは、では、その「イッヒ・デンケ」があるというのはどういうことであり、それはまたどのようにして生成されるのかを解明しようとした。それは言ってみれば、神無しに「無からの生成」を論理として解こうとしたものではないかと思う。おそらくフィヒテのシェリングやヘーゲルとは異なる難解さ、あるいは西欧哲学でもトップクラスに数えられる難解さは、このようなテーマとその展開にあるのだろう。なぜなら考えてみれば、普通、誰もが当然のこととしている状態、「ここの本がある」とか「飯でも食おうか」というような意識があるのはなぜであり、どうしてそれが生成されたのかというようなことを問題にしているからだ。下手をすれば、あいつは阿保ではないか、とでもいうような世界だ。
 当時の私が、どこまでフィヒテを理解出来たかは分からないし、正直、今もってフィヒテの著書を開いてみても、分からないことだらけだ。それは無の向こう側が分からない人間の限界なのかもしれないが、そういうところで思索の格闘をしたフィヒテは依然として私には刺激的な哲学者でもある。
2012年01月20日

「源氏と平氏」か「源家と平家」か

テーマ:日本史

 「源氏と平家」という表記は一般的だが、それにしても不思議だ。なぜ「源」は「氏」で、「平」は「家」なのか。源も平も姓であり、氏の名であるが家名ではない。それは藤原氏はあるが藤原家が無いのと同様だ。藤原は姓であり氏名だから藤原氏はあるが家名ではないため藤原家はない。藤原氏族の家名は、近衛や三条というものであり、平氏だと千葉や三浦などであり、源氏だと新田や足利、佐竹、武田などだ。
 平家に対して源家という言い方もあるがあまり用いられることはない。分かりやすい説明としては、平家という場合は、平清盛の一族に限定出来るが、源家の場合は、源氏の誰の一族を指すのかはっきりしないというわけだ。
 源氏よりも約一世紀ほど前に関東に下り、関東に蟠踞した平氏は、平将門の乱や平忠常の乱を経て、関東という地方の土着武士となり、平姓ではなく諸領の地名を名のるようになる。俗に言う坂東八平氏の武士たちであり、彼らは、平忠常の乱を収束させた、現在の大阪府の南河内を本拠地とした河内源氏の源頼信をはじめ、その子で前九年の役を平定した源頼義、その子で後三年の役を平定し、武家の長者の八幡太郎義家として知られる源義家の配下となる。中高時代の教科書にある「東国の源氏」とは、現在の住所では大阪府羽曳野市壷井になるが、大阪の南河内を本拠地とし、首都の京都で活動していた河内源氏が関東に進出し、関東在地の平氏出身の武士を配下とし、関東をその勢力基盤としたというのが内容であり、源氏が関東出身ということではない。
 ところが関東の平氏系の武士の中には、河内源氏配下の土着武士となることを受け入れない者もいた。その一族は、千葉や三浦、和田などのように在地の地名を名のる地方の土着武士となることを拒み、平姓のまま伊勢に移り、伊勢を本拠地とする。これが伊勢平氏である。平姓を名のり続けるということは、河内源氏や摂津源氏と同じく、地方に本領や本拠地を持ちながらも、地方に土着するのではなく、中央である京都にいわば活動の本店を維持し、中央の天皇や院、公家に仕え、中央の武士として存在することを意味する。
 源氏においても現在の兵庫県川西市多田の地に初めて源氏武士団を形成した源満仲の嫡子は、大江山の酒呑童子退治の絵詞で有名な源頼光だが、頼光の弟である前記の源頼信が関東の平忠常の乱を平定し、武士としての源氏のヘゲモニーが、源頼光の摂津源氏から源頼信の河内源氏へと移る。
 源頼光の子孫は、先祖の源満仲が開いた本拠地の多田に土着し、中央の武士ではなく、土着武士化する傾向が生まれるが、それが後の鹿ケ谷の変に登場する多田行綱で知られる多田源氏だった。しかしそれに対して摂津源氏には源頼光以来の中央の武士として活動しようとする傾向があり、それが摂津源氏の中でも多田源氏とは別の動きをした源頼政の一族であり、彼らは、源姓である河内源氏の源義朝とは別に、摂津源氏としての源姓を維持した。
 平治の乱で、源義朝が敗れたのは、同じ源氏である源頼政の日和見的な裏切りも一つの要因として指摘されているが、この「同じ源氏」というものが曲者であり、確かに源義朝と源頼政は同じ清和源氏の武士であり、その先祖は兄弟である。しかし、それぞれの祖である源頼信と源頼光の頃に、すでに活動分野や地域の分業的ともいえる区別は始まっており、源義朝や源頼政の頃は「別の源氏」と言ってもいいほどの距離があった。その意味からして、源頼政が、源義朝の指揮に従わず、独立的な独自行動をしたことは、日和見でも裏切り的なことでもなく、武家棟梁の源義家の流れを汲む源氏本流として存在する源義朝に対する、源頼政の源頼光の子孫としての本来の源氏嫡流としての矜持によるものだったともいえなくもないのである。
 話を「源氏」に対する「平家」の不思議さに戻そう。平氏においては平姓を維持したのは、平将門の乱を平定した平貞盛の流れを汲み関東から伊勢へ移った伊勢平氏だけであった。その伊勢平氏の主流が、平清盛の祖父の平正盛だった。当時、武家棟梁(武士のリーダー)だった河内源氏や大内守護(近衛師団の前身)だった摂津源氏に対して伊勢平氏は零落の極みにあった。しかし、河内源氏の源義家の後継をめぐる内紛に乗じて伊勢平氏は興隆のチャンスを掴むことになる。まず平正盛は九州で乱を起こした源義親(八幡太郎義家の嫡子)を征討し、続いてその子の平忠盛の頃には瀬戸内海の海賊討伐などにより、勢力を後退させつつあった源為義の代の河内源氏と並び得る存在となっていた。そして平忠盛の子が平清盛であり、彼は保元の乱、平治の乱を勝ち抜き、天下を手にしたことは周知の通りである。
 平姓の武士は伊勢平氏の平清盛の係累の一族のみであり、その意味で見れば、平氏=平家という等式も成り立たないわけではない。ちなみに関東土着の千葉や三浦、和田、北条などは平姓だから氏族的には平氏とはいえるが平家ではない。平家という名のりに対する彼らは、姓は同じく平姓であり平氏ではあるが千葉家であり三浦家、和田家、北条家になる。
 それに対して源家の方はどうか。源姓の武士は大別すると摂津源氏系と河内源氏系になり、源家を特定出来ないことになる。そこから「源氏と平家」という呼称は、「源家連合としての源氏」と、「単独平氏としての平家」という見方も生まれたりもする。それなりの説得力と説明力はあるのだが、しかしやはり後世の解釈だという制約を免れることは出来ない。
 確かに源家は複数で特定は出来ないとしても、所謂源平合戦の源氏方の最高司令官は源頼朝である。当初の以仁王の令旨では、平治の乱の敗戦の後、諸国に雌伏する河内源氏の生き残りに対して源氏の代表として平家打倒の武装蜂起を呼びかけたのは、摂津源氏で源氏の長老的存在だった源頼政の嫡子で、源頼朝が配流されていた伊豆の国守である伊豆守の源仲綱だった。
 つまり平治の乱で敗れた源義朝の河内源氏に対して、独自行動で生き延びた摂津源氏は、この時、武家源氏のヘゲモニーを八幡太郎義家以来の河内源氏から奪取(あるいは祖の源頼光が源満仲の嫡子だったことからすれば回復)しようとしたともいえる。しかし、源頼政・仲綱の親子は初期の宇治合戦で配下の、源頼光の四天王筆頭とされた嵯峨源氏の渡辺綱の流れをくむ渡辺党と共に奮戦するが敗れて討ち死にし、その結果として全国の武装蜂起する源氏の最高指揮官は河内源氏の源頼朝となる。
 頼朝のライバル的存在として、源義賢の子で従兄弟の源義仲がいたが、彼はすでに木曾義仲と、源姓ではなく自身が育った木曾を名のっていたことから源家のリストからは外れると見てもいいだろう。八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光の流れを汲む甲斐源氏の源信義や常陸源氏の源昌義も所領の地名から武田信義(武田信玄の先祖)や佐竹昌義であり、八幡太郎義家の四男の源義国の子の新田義重(新田義貞の先祖)やその弟の源義康の子の足利義兼(足利尊氏の先祖)、また河内源氏の本拠地の河内国石川の所領を相続した八幡太郎義家の六男の源義時の一族の石川義兼、そして源義朝の兄弟であり源頼朝の伯父になる志太義広や新宮行家なども源姓ではない点において、いずれも源氏だが、源家リストから外れるだろう。摂津源氏においても源姓を名のった源仲正の子の源頼政の一族以外は、清和源氏の本廟地にして摂津源氏の本拠地だった摂津国多田の地を相続し、源仲正の兄になる源明国の流れを汲む多田行綱などの多田源氏や源明国の伯父の源国房の後裔の美濃源氏の土岐光信なども源家リストから外れよう。
 であれば、源頼朝の係累の一族、つまりは源頼朝を頂点とする源義朝の遺児たちを、平家に対する源家と呼んでもいいのではないだろうか。あるいは、源氏に対して平清盛の一族も平家ではなく平氏と呼んでバランスを保つべきなのだろうか。
 このような疑問は解けることはないだろうが、平清盛の一族が「平氏」というより「平家」と呼ばれるところに、実はその面白さがあるようにも思われる。つまり「氏」から「家」への変化は、古代から中世への移行を表してもいる。その分かりやすい例が、中世の始まりである鎌倉時代から歴史上に登場する公家から「藤原◯◯」はいなくなることだ。それまでは藤原仲麻呂だったり藤原道長だったのだが、三条◯◯や近衛◯◯に変わり、呼称が氏の名から家名あるいは苗字に変化している。これは武士も同様で、鎌倉幕府は、源頼朝直系の将軍家のみが源姓を許され、たとえ頼朝の兄弟でも源姓は許されず、弟の範頼は、それが原因でいわば粛清されている。源氏の将軍家以外は、すべて源や平という姓ではなく三浦、和田、北条、足利、新田などの苗字を名のり、そして姓としての源姓を名のり、苗字よりも格上に位置した源氏将軍家も源実朝が最後になり、源姓を称する一族は消滅する。
 平家という呼称は、このような中世性を先取りするものだったと受け止められないだろうか。平清盛の時代は、平安的古代の最後であり、鎌倉的中世の先駆だが、その面白さは、滅び行く古代と興隆する中世の混在にある。その意味では、公家全盛の平安時代とも異なり、武家全盛の鎌倉時代とも異なる過渡期の面白さがあるのではないだろうか。平氏ではなく平家という呼称にそのようなものを感じ、勝手に理解している。

2012年01月14日

大河「平清盛」と松田聖子

テーマ:過去現在の日々の事ども
 久しぶりというか何年ぶりかになるが、85歳になる母親と一緒に今年のNHK大河「平清盛」を見た。一部の保守による「王家」という言葉への文句の根拠のなさについてはつぶやきにも書いたが、今年の大河の話題の焦点の一つであり、「秘密兵器」(中井貴一談)は、松田聖子の出演だろう。
 松田聖子は歌手としては、作詞家の松本隆が「文句なしの天才」と評価するくらい、その歌手能力は想像以上に高い。しかし演技力となると、その評価は逆転し、大根と悪評紛々だった。
 平清盛では、白河上皇の愛妾として権威を持っていたとされる祇園女御に扮していた。このドラマでは祇園女御は、平清盛の心の育ての親のような存在で、清盛をバックアップするらしい。
 意外といえば不適切かもしれないが、松田聖子がまさに意外なくらい好演している。
 伊東四朗扮する白河上皇は自分の子を孕んだ愛妾の舞子を、八幡太郎義家の孫の源為義に探索させているが、なかなか見つからない(この子が実は平清盛で、このドラマは清盛を平忠盛の子ではなく、白河上皇の子であるとする『平家物語』あたりの説を筋書きにしている)。しびれをきらした白河上皇は、探索方を源為義から平忠盛に変えようとするところに、松田聖子の最初のシーンがある。まず、白河上皇を軽く皮肉るような台詞が聞こえ、続いて台詞にのって松田聖子扮する祇園女御の姿が現れるという演出だが、祇園女御の格式や気品、そして優しさを、松田聖子は意外なほど自然に演じている。
 彼女については言うまでもないが、世間は彼女に対して、好き嫌いがはっきりとしている。それはかつてのワーグナーや、20世紀のユンガーにも似たような信奉と反発の構造だ。だから、このドラマに対しても彼女への無前提的な批判や反発、否定の感想は少なくない。むしろ、そのような反発者を依然として持つところにこそ彼女の、俗にいうスター性もあるのだが、それはともかく、このドラマの初回の女性出演陣では松田聖子くらいしか知らない母親は、これまたシビアな見方をする母親にしては異例なくらい高評価だったのには驚いた。
 私はドラマを見ながら、そこに描かれている時代と、ほぼ同時期に始まる松田聖子の先祖のことを思わず連想していた。
 彼女の本名は蒲池法子であり、彼女は柳川出身の国家公務員の父親と八女の農家出身の母親が結婚し新居を構えた久留米市の生まれだが、父親の生家の蒲池家は柳川が地元であり、おそらく柳川では歴史的にトップクラスの旧家というか名家だろう。江戸時代の柳川藩主家の立花家に続くとさえいってもいいかもしれない。それというのも江戸時代は、藩祖の立花宗茂の正室で、立花道雪の娘でもあった立花誾千代の菩提寺を預かる家老格の家だったが、戦国時代は、義将として地元では名高い蒲池鑑盛(蒲池宗雪)に代表される柳川城主であり、筑後南部に十二万石を領した大身の領主でもあったからだ。
 柳川市が刊行している市の歴史シリーズや史料集などには蒲池氏の歴史が詳しく記されている。むろん、蒲池鑑盛の子の蒲池鎮並の代に隣の肥前の龍造寺隆信の卑劣な謀略と冷酷な皆殺しや蒲池氏ゆかりの社寺の徹底した破壊により、失われた歴史は伝わるものよりも数倍大きい。それでも領主家であるため歴史をたどることは出来る。
 それによれば、蒲池氏の祖は、嵯峨源氏の源久直であり、嵯峨源氏は、嵯峨天皇の子で従一位大納言で左大臣であり、また紫式部の『源氏物語』のヒーローの光源氏の実在モデル説の強い源融に始まる。大阪の梅田にある太融寺は源融ゆかりの寺だが、源融の子孫として有名なのは、大江山の酒呑童子退治の説話で知られる源頼光の四天王筆頭の渡辺綱(源綱)だろう。前記の源久直は、渡辺綱の曽祖父の弟の子孫になり、元は九州ではなく京の都にいた。しかし、久直の祖父あるいは父とされる源満末の頃に、嵯峨源氏としても源融からかなりの後となり、都にいては将来性が無いと判断し、従五位下という貴族の位階を貰って九州の肥前国神埼に下ったのだった。それがちょうど平清盛の父親の平忠盛の頃である。
 当時、肥前国は平忠盛を棟梁とする平氏の支配下にあり、平氏はそこを拠点に日宋貿易で富を築いており、当地には、前記の渡辺綱の孫の松浦久を祖とする松浦氏を棟梁とする松浦党と呼ばれる水軍系の武士団が蟠踞しており、平氏の傘下にあった。源満末は、肥前国神埼にあった天皇家の直轄荘園だった鳥羽院領神埼荘の荘官として当地に来、土着して武士となり、同じく嵯峨源氏系の松浦氏と共に活動していたようである。
 平氏が平忠盛から平清盛に代替りた頃、蒲池氏の先祖も源満末から源久直にかわっている。この久直の時に、所謂源平合戦となり、そして戦場は九州北の壇ノ浦になる。壇ノ浦の合戦では、松浦氏は平氏側の水軍として出撃したが、相対した源氏方の水軍に、前記の源頼光の子孫の源頼政の傘下にいた渡辺氏(前記の渡辺綱が祖)がいた。この合戦で平氏あるいは平清盛の一族という意味での平家が滅び、戦は源義経を前線指揮官とした源氏の勝利となる。
 蒲池家譜に記された源久直の消息を見ると、彼はこの壇ノ浦の戦いでの勲功により、鎌倉幕府の鎮西御家人となり、さらに筑後国三潴郡の地頭となっている。そして三潴郡の蒲池村を所領とし、所領の地名を苗字とする鎌倉時代の傾向に倣い蒲池久直と名のっている。これが蒲池氏の始まりになる。
 ただ、元は平氏傘下の武家だった九州在地の他の武家と同じく鎌倉幕府からの信頼度は低く、幕府の代官的役割を帯びて守護として下向してきた少弐氏、大友氏、島津氏の下に置かれ、これが反幕府蜂起の承久の乱への参加になる。しかし乱は幕府の勝利となり蒲池氏は滅亡の淵に立たされる。当主の蒲池行房は終生流罪となるが、家は乱とは無関係だった源圓(山代圓)という松浦氏の庶流から婿養子を迎えて、かろうじて存続することが出来たのだった。その後、南北朝時代は南朝方にあり、再び南朝敗北と当主の蒲池武久の討ち死にで滅亡の淵に立つが、下野の宇都宮氏の分流で、南朝の懐良親王の征西府の武将だった宇都宮貞久の孫の宇都宮久憲を婿養子に迎えて家を再興し、その蒲池久憲の八代後が、先にふれた戦国期の柳川城主の蒲池鑑盛(入道宗雪)となる。
 話が松田聖子からいささか遠のいたが、この蒲池鑑盛の三男で塩塚城主でもあった蒲池統安が松田聖子の生家の直接の祖になる。
 このような話を、大河「平清盛」の初回を見終えた後、母親と話をしていたのだが、新発田藩士で新潟の士族だった母親の生家は伝来の家譜によると、源融の子孫だった渡辺綱が仕えた源頼光であり、さらには源平合戦にも登場する源三位として知られる源頼政が先祖として記されている。京にいた頼政の一族は宇治合戦で敗れて滅びるが、美濃にいた一族の源光衡(土岐光衡)がその後を継いでいくようになっている。実際にはこのような江戸期の武家に伝わる家系がどれほど信憑性があるかは疑問だが、少なくとも系譜の上では、松田聖子の先祖の嵯峨源氏と、母の生家の先祖の清和源氏が、平清盛やその父、その祖父の頃に結びつきがあったことも話題になったのだった。
 江戸時代は大阪の郷士の庄屋だった父親の生家も家系の上では源氏であり、源頼政の父親の源仲政の弟の源国直らしいが、どこかに平氏はいないものかと一族係累を見渡してみたが、平氏は見当たらず、代わりに藤原氏は母方の曾祖母の母方がそうであるようだが、何とも遠い。
 松田聖子でふった話が大きく逸れてしまったが、松田聖子については、その長く持続する人気の運動的・党的性格などについては折にふれて書くことにし、今回は尻切れトンボ的に終えることにしよう。
 
2011年12月28日

夢の中の誰なのか分からない女性

テーマ:過去現在の日々の事ども
 私が上京したのは1970年の4月だった。その上京については、当時の『読書人』か『図書新聞』に、過激な関西の高校生アナキストが東京へ跳ぶというような伝説的な記述があったが、まずは早稲田のアナキストが住む池袋の一軒家に投宿した。その後に、私より先に東京へ来ていたアナ高連の彼女と渋谷のハチ公前で落ちあい、まずは彼女は世田谷の弦巻に、私は若林にアパートを借り、6月の反安保の国会前デモの後、駒沢公園近くの目黒区東が丘で同棲を始めたのだった。
 東京へ来て、自由だなぁと感じたのは、いつまでも眠っていられることだった。実家にいると、平日は仕方がないとしても日曜や祭日でさえ、父親が軍隊の頃の慣習だか何だかは知らないが、朝早くから「起床!」と叫んで、家中のドアや窓を開けるため、嫌でも起きなければならなかった。ところが東京で生活を始めると、そういうこともなく、私は朝が来ようとも好きなだけ眠っていられるのだった。
 いつまでも眠っていることが好きなのは、前にも書いたが睡眠中に見る夢への嗜好が強かったからだった。夢を見るはとにかく必要以上に眠る(つまり浅い眠りの時間を長く持つ)必要がある。そして目が覚めても、それを忘れないためには、それなりの時間をかけて夢を反芻する必要がある。それを強く感じるようになったのは、アナ高連の彼女と別れ、東武練馬で団地生活をしていた妻と離婚し、中央線の国立駅北口のアパートで一人住まいを始めた1975年以降の頃だった。それまでのアナキズム活動の総括をも兼ねて長いバクーニン論を雑誌に書き、その延長でワーグナーを聴きながらドイツ・ロマン主義や世紀末デカダンスの夢に関する本を読みあさっていた。
 夢に出てくる光景や人物には不思議なところがある。それは、夜の半ば闇に沈んだ街であったり、ひと気の無い建物の地下へ降りてゆ階段だったりエレベーターであったり、また自分がよく知る建物にあったが知らないままだった未知の屋上に通じる梯子や天窓だったりする。知っているような場所だったとしても、夢に出てくる処は少し違っていたりする。例えば地名が少し違っており、小田急線のような電車に乗ってながら、駅名が、北成城とか経堂西だったりしていて、路線が少しズレているらしく一向に新宿に到達しなかったりするのである。このような夢については、以前にもこのMixiの日記に書いたが、最近、なぜか女性が登場する夢を頻繁に見ている。取り立ててどういうものでもない夢もあれば、妙に郷愁感に満ちたものもあれば、不思議なエロス感の漂ったものがあるかと思えばカフカ的な雰囲気のものがあったりする。
 ただ共通しているのは、夢のなかに登場する女性たちに見覚えがなく、誰なのか分からない場合が多いということだ。昨日というか今朝方に見た夢に登場した女性もそうだった。
 元解放派のイケメンの友人が、美人の彼女を伴って訪ねてくるのだが、私は彼女から相談を持ちかけられ、人の混んだ電車の中で会話をした後、電車から降りた彼女が駅のホームから微笑みながら手を振っているのを車窓越しに眺めているシーンがあった。次いで何かの会議で飲み屋へ行くのだが、その会議にはなぜか彼女も来るらしく、それに淡い期待を持っていたにも関わらず、ついに彼女は現れず、そればかりか私の上着が紛失し、店で一悶着あったりする。
 こんな程度の夢だったが、肝心のその女性が誰なのかさっぱり分からない。似たような雰囲気の女性は思い当たることはあるのだが、やはり違う。夢の中では、私は彼女から相談を受けたことに嬉しさを感じていたようだから、彼女に好感を持っているらしいことは分かる。だから車窓から見たホームで手を振る彼女の笑顔が印象的なのだが、その顔をよく見ようとするとカメラのレンズがボケるように顔の輪郭が曖昧になってしまうのだ。
 取り立ててどういうこともない夢にすぎないが、このようなさしたる特徴もない夢の方が波乱万丈な夢よりも印象的だったりするのは、どのような波乱万丈なことも、その根底には日常があったりするからだろうか。
2011年12月24日

アナキストの悲劇的にして滑稽な事件の孕むもの

テーマ:日本思想

 昭和初期のアナキズムの消息を伝える農村青年社は、ほぼ同時期の無政府共産党と共に、1968年に高校生だった私がアナキズム運動に参加した時、関心を持ったものだった。日本のアナキズムというと思想的には幸徳秋水と大杉栄によって語られ、運動的には幸徳や大杉に関連したもので代表され、付録的に大杉虐殺の報復として存在した中浜哲らのギロチン社がとりあげられる程度だった。
 しかし、戦前の日本アナキズムには、その後に、八太舟三や岩佐作太郎らの純正アナキズムがあり、さらに続いて無政府共産党や農村青年社の活動があった。アナキズムに飛び込んだ私は、周囲のマルクス主義系の新左翼諸党派の運動を瞥見しながら、アナキズムはどのような組織活動や運動を展開する必要があるのか模索していた。それには幸徳の啓蒙的なアナキズムや大杉の生の哲学的なアナキズムでは不十分だった。それらは、生き方としてのアナキズムとしては納得しえたとしても、運動としてのアナキズムとしては不十分だった。
 アナキズム関連の文献には、マルクス主義系の共産主義者がいかに革命を裏切ったかという批判と、アナキズムの理想を語ったものは多いが、ではアナキズムはどのような運動を展開するのかという運動論的なものは無いに等しかった。独自の運動論を持たないアナキズムなどは、単なる絵空事か、反共主義に利用されるだけではないのかということは高校生の私にも分かった。
 アナキズムは、共産主義を批判する。しかしそれは資本主義が展開する共産主義批判とは対極的なものでなければならないのは当然だが、その対極性は、単なる言葉ではなく、歴史的・社会的根拠を持った理論として抽出され、具体的には運動論として確立されなければならないと思われた。
 アナキストも独自の革命の党を形成しなければならないという無政府共産党や地域コミューンのような自治細胞構造を全国に確立するという農村青年社のことが関心の対象になったのはそのような経緯からだった。それは、当時の私の意識では、ロシア革命を裏切ったとされるボルシェヴィキに対して、では、裏切られた側はどうすればいいのかという問題にも関連していた。当時読んだヴォーリンの『知られざる革命』や『裏切られた革命』は、クロンシュタットの反乱やマフノ運動、さらにはロシアのアナルコ・サンディカリストなどの活動を報告し、ボルシェヴィキの反革命性を激しく告発していた。しかしボルシェヴィキ批判はあるものの、ではアナキストはどうすべきなのかという視点はなかった。ヴォーリンが批判するところの革命の裏切り者であるトロツキーは、その後、スターリンとの党派闘争に敗れて亡命し、自身の『裏切られた革命』を書くことになる。トロツキーは革命ロシア・ソ連の官僚制堕落を批判し、官僚制を打倒する政治変革を主張した。トロツキーの対ソ連視点で注意すべき点は、彼がいうところの「堕落せる労働者国家」を、にも関わらず、それを倒そうとする立場に対して支持せよという点にある。つまり彼は、スターリン主義国家のソ連の存在を肯定し、その内部的な官僚的堕落を変革せよと言っていた。これは、同じく「裏切られた革命」を言う先のヴォーリンとはいささか違う。つまり、ヴォーリンには、ボルシェヴィキの告発はあるが、それに対してどうすべきかという視点がない。それに対してトロツキーは、スターリニストを告発しつつ、ソ連を擁護しろと言っているのだ。むろん、スターリニスト批判とソ連擁護の間にある問題点については次の段階の理論を不可欠にし、またトロツキーの観点の是非もあるが、それはともかくトロツキーは少なくとも運動の視点を提出している。だからこそ、細々としたものであれ、第四インターとしてのトロツキズムの運動も可能だったのだろう。
 ところがマフノ運動のイデオローグでもあったヴォーリンには運動の視点がない。後にマフノの参謀格だったアルシーノフは、マフノ運動における党形成の視点を総括として提出するが、その党形成の是非はともかく、そこにおいてヴォーリン的な告発レベルを越える視点が提出されたといえるだろう。
 1968年当時、全国学園闘争や政治闘争の展開に伴い、アナキズムも復活の兆しを見せており、各大学にはアナキズム研究会なども生み出されていた。ただ、当時は、現在とは異なり権力のアナキズムに対する警戒心や監視度は異例なくらい強く、アナキストは「テロリスト的な政治犯罪人」という扱いで、アナキスト独自の合法デモでさえも許されなかった。例えば1969年に参加人員が500名近くになる戦後、あるいは近代日本最大のアナキスト組織でもあるアナキスト革命連合(ARF)が大阪で結成され、新左翼の統一集会にも参加していたが、ブントや中核派からプロ軍(武装蜂起準備委員会)、その他の党派やノンセクトも街頭デモに出発出来たが、アナキストのARFの200名くらいの隊列だけは、集会場から街頭へ出ようとした瞬間、倍近くの私服が襲いかかり、激しい乱闘となる有様であり、ARFの大阪芸大夜襲闘争も、学生運動ではなく野盗集団の狼藉という扱いだった。これには、前年の東京での背叛社の爆弾誤爆事件の影響もあったのかもしれないが、おかげで私も超危険視され、公安が張り付く有様だった。当時は東京や関東のアナキストが無数の小グループによる学習会レベルをあまり越えていないのに対して、関西のアナキストは統一組織を形成し、大学闘争にも介入し、ヘゲモニーを握った大学もあったため権力が必要以上に危険視し警戒したのかもしれなかった。ただ、それとは別にアナキスト特有の空気とでもいうのだろうか、同じように左翼、極左と分類され、時には共に連帯して闘いながらもマルクス主義系の共産主義者とは異なる独特の雰囲気はARFにもあり、それは、戦前の無政府共産党にも農村青年社にも、またそれ以前の純正アナキストたちの黒色青年連盟をはじめとするアナキスト組織に、ひょっとしたら共通してあったものではないかという気さえしなくもない。
 話が逸れたが、生き方ではなく運動としてのアナキズムを志向していた私は、当然ながら大杉流の哲学的なアナキズムよりも、組織論、運動論としてのアナキズムに関心があり、それが無政府共産党や農村青年社に関心を抱かせたのだった。しかし、1970年以前には、それらについてまともに読める文章は皆無に近く、半ば伝聞的な記述や伝説に依拠するしかなかった(無政府共産党や農村青年社についてのまとまった文献が現れるのは1970年代前半)。だから、私自身の十代の関西でのアナキズム活動の総括を、反安保闘争で上京した1970年に書いた約100頁ほどの小冊子『黒党』でも、無政府共産党と農村青年社については章を割いて触れながらも、感触的に察知した彼らの運動論的な問題意識への着目以上の言及は不可能だった。
 その思想はともかく、私も1970年代になって知ることになったが、実際のところは、無政府共産党はスパイ嫌疑の仲間を殺しただけであり、農村青年社は窃盗事件を起こしただけだと言ってもいい。農村青年社の場合は窃盗事件の数年後の満州事変の頃に、当時の権力から「全国黒色パルチザン武装蜂起の陰謀」あるいは「幸徳秋水以来のアナキストの大逆行為」として、関連者とされる者が全国に及び、およそ350名が逮捕される事件として世間に知れわたる。むろんこれは権力による完全なデッチあげの事件であり、その顛末は、当時の農村青年社の代表的人物たちに取材した保坂正康『農村青年社事件。昭和アナキストの見た幻』に詳しい。ただ、私は無政府共産党や農村青年社の、悲劇的でもあれば滑稽ともいえる事件とその顛末は、保坂が言うのとは異なり、近代のアナキズムが持っていた問題点が露出したものだと思えるのである。保坂は、アナキズムの政治思想としての無効性と人間の生き方論としての可能性を言い、農村青年社の顛末や人間群像もそれに関連づけて肯定しているのだが、それではむしろ、彼らの悲劇や滑稽さが孕む問題点を捉えきれないのではないかと思う。無政府共産党や農村青年社が着手しようとした運動論こそがその現場であり、そしてグローバリズムの現在においては、運動の現場論ではなく、運動の原理的な思想こそが求められているのではないだろうか。運動の原理的な思想とは、運動そのものの位置づけだが、それを欠落させた運動の現場論は、近代の運動思想の延長に位置し、実際には批判性の欠落した運動のマニュアルのようなものにしかならないからだ。そしてこれはアナキストに限定される問題ではなく、また左翼限定の問題でもなく、革命や維新を射程に入れた思想や運動全体の問題でもあると思う。
 再度言うならば、運動への視点を持つのであれば、言葉ではなく思想が必要だということだ。「一殺多生」とか「民衆の側に立つ」という言葉ではなく、その言葉が孕む内実はいかにすれば可能になるのかということを明らかにし、その根拠を示す思想が必要だということでもある。

2011年12月06日

夢と現実もしくは喪失と悲哀

テーマ:過去現在の日々の事ども
 つい今しがた目が覚めたが、昨日からほぼ、ぶっ通しで20時間以上は眠り続けていた。むろん20時間以上も眠り続ける身体上の必要があったわけではない。あえていえば、眠り続けたいという心理的な理由によるのだろうか。だから人間が必要とする睡眠時間を除けば、残りは単に惰性で眠り続けた惰眠ということになるかもしれない。
 私は子供の頃から趣味は睡眠と思うくらい眠ることが好きだった。理由は、この現実は偽りであり、いずれ、そのことは明らかとなるだろうという漠然とした思いだった。この思いは、後に読むことになった埴谷雄高の『死霊』の言葉を借りていえば、私なりの「自動律の不快」によるものだった。つまり、子供の私は、私が私であることが不思議であり、理由が分からず、それは何なのかといつも思っていた。そのため、しばしば、意識が脳裏の中で遠くに退き、言葉を紡ぐ感覚が崩壊したようになり、自分がいる今の現実がガラガラと崩れ、ほんの一瞬だが記憶喪失のような状態になることがあった。そしていずれ私は、あるいは私という意識は、この私ではなく、現時点では誰かとしか言い得ない誰かと一体になるだろうと朧気に考えていた。
 睡眠は、そうした真の現実に至るまで、この偽りの現実を過ごすための時間稼ぎのようなものと考えられていた。つまり、現実の私は、それ自体が現世の仮の姿だったというわけだ。
 むろん何時間眠り続けようと、何日が経過しようと、眠りから目が覚めた私は、いつもの私であり、鏡に写るのは見慣れた私の表情なるものでしかなかった。中学生になると眠りそのものへの嗜好は薄れ、代わりに、私が私である現実とは、そもそも何であり、どういうものかと考えるようになった。おそらく私が、小説に、それも少年向きのものではなく、大人が読む一般の小説を、小学生の高学年の頃よりも熱心に読み始めたのもそのためだろう。また、仏教の「空」とか「無」という言葉に惹かれ、たまたま中学の図書室にあった龍樹や世親の伝記を読み耽り、帰宅するのも忘れかけたことがあった。
 現実など、どうでもいいことだった。というよりも現実など、それ自体が仮のものであり、見せかけにすぎないのだから、学業などはほとんどそっちのけであり、成績などは端から問題外だった。むろん他方ではそれでも現実の中学生という私が厳然としており、彼はその限りでは屈託なく生きており、早熟だったせいもあるのか、学校のクラスや他のクラス、また親から言われて通っていた塾でも仲の良い女の子がいた。
 再び、睡眠への趣向が目覚めるのは、20代半ばくらいの頃だった。10代後半に政治活動に目覚め、アナルコ・ブランキストとでもいうような組織的運動志向のバクーニン主義的なアナキストとして活動していたが、それはある意味では夢の暴力的な蜂起であり、現実破壊の実行だったのかもしれない。そのような現場の活動から身を引き、その総括に取り掛かっていた頃だった。その前の年には『情況』誌に約500枚ほどのバクーニン論を3回に渡って分載し、次いで思想的にはバクーニンが影響を受けたドイツ・ロマン派や神秘主義、ドイツ観念論、ヘーゲル左派や初期社会主義、スラヴ主義から唯物論、さらに晩年に愛読したショーペンハウアーまでを、バクーニン抜きで直接に取り組みはじめていた。また並行して、ワーグナーの造形したジークフリートやドストエフスキーの『悪霊』のスタヴローギンにはバクーニン・モデル説があることから、ワーグナーの音楽やドストエフスキーの文学にもかなり熱心であり、その頃に書いたシェーンベルク論は、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』に続いてシェーンベルクの『浄夜』を聴いた産物だった。
 政治活動の総括は、単なる思想的なものだけでは済まなかった。例えばゲバルトと呼ばれた現実の暴力行為の行使については、思想的な動機や理由の説明や意味づけだけでは解決しないものがあった。エルンスト・ユンガーの『鋼鉄の嵐の中で』を、初級ドイツ語程度の文法で無謀にも読み始めたのも、そうしたことからだった。若きドイツの軍神的な英雄にまでなった特攻隊長としてのユンガーは、なぜ、言語表現が可能になったのか、暴力から言葉の可能性は、あり得るのかということだった。その帰結として、1978年頃にユンガー論を、正確にはユンガーの『鋼鉄の嵐』論を書いたが、当時は東大の独文の教授でもユンガーの名前だけでも知る人がいれば貴重だった頃であり、私のユンガー論などはほとんど見向きもされなかった。ユンガーを読むようになったのは、バクーニン晩年のショーペンハウアーに続いてニーチェを読み、ハイデガーの弟子でもあったカール・レーヴィットの「ニーチェの最も過激な弟子であるユンガー」という言葉に接したからだった。
 話を再び眠りに戻せば、この1970年代の半ばから後半にかけて、私は再び、睡眠への趣向に浸るようになっていた。1970年代の前半は、私には政治闘争のゲバルト体験の、いわば戦後的内戦の時期であり、内戦以降としての"戦後"は、1975年以降だった。その頃、一人で暮らしたいと思った私は、それまで東武練馬で幸運にも当った当時では貴重な団地生活をしていた妻と、私の身勝手な理由で離婚し、中央線の国立駅の北口のアパートに移っていた。当時の私はバークリー流の主観的観念者よろしく現実喪失のような状態にあった。そのため、暇があれば(実際は常に暇だったのだが)、やることも無く、ベッドに横になり眠り続けていた。アンドレ・ブルトンは私の好みではなく、ブルトンよりもバタイユの方を相対的に好んでいたが、それでも『ナジャ』や『通底器』その他のブルトンの作品も読み、眠りや夢についての私自身の嗜好について再び目覚めさせられたのだった。何時間も眠り続けると、数多くの夢を見ることになる。夢は目覚めると意識的に思い返してみても大抵はそのうちに忘れてしまうことが多い。だから、さしてやる事もなかった私は、目が覚めると、夢の内容を何度も反芻し、脳裏に記憶の印画紙を作るようにしていた。
 そうすると、再び、現実よりも夢の方がより身近で親しく思えてくる。現実は虚ろであり、夢の方が濃密になる。意識の関心の強度は、ますます現実から夢へと移っていく。だから国立(正確には国立駅北口の国分寺市だが)の頃の私は、半分は寝ており、夢のなかにあったことになるかもしれない。私を目覚めさせてくれたのは三島由紀夫の感情教育の師と評される蓮田善明の『有心』だった。それは中国戦線で負傷した蓮田少尉が休暇で郷里の熊本に帰郷し、迎えに出た妻の表情に戦場の記憶を持った意識が追いつかず、阿蘇の温泉に治療と称して出かける話だった。しかし蓮田善明による覚醒は、現実への導きではなく、その鴨長明論によって述べられているような隠遁への、いわば目覚めながら眠ってでもいるかのような状態への導きだった。おかげでその後の私は、20年以上にも及ぶ長い隠遁生活の日々を送ることになる。20代の頃からの知り合いの右翼の新民族派だった友人は、「隠遁」というから変な格好がつくが、要するに「引きこもり」だろうと私を揶揄したが、当たらずとも遠からずかもしれない。
 いつものように取り留めのない話だが、眠り続け、夢を見た後に眼が覚めると、プルーストの「失われた時を求めて」ではないが、ある種の喪失感とそれに伴う悲哀の感情に包まれていることに気づく。三島風にいえば、決断的にベッドから身を起こし風呂にでも入れば、そんな世界は一掃出来るのかもしれないが、では当の三島は一掃出来たのだろうか。逆にいえば三島由紀夫は眠ることを知らなかったのではなかろうか。

Amebaおすすめキーワード

    1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト