暴力革命と構造改革 | 時の過ぎ去るがごとく

暴力革命と構造改革

●Mixiの1月24日の日記より


 構造改革というと現在ではネオリベの立場の感があるが、かつて、つまり1968年にも構造改革というか構造改革派というものが存在した。当時は、俗に「コウカイ(構改)派」と呼ばれ、「コウカイ先に立たず」と揶揄されていた。
 構造改革派は、イタリアのグラムシあたりを思想的震源として、ボルシェヴィキ派つまりレーニン的な暴力革命派に対するものだったが、むろんこのような対比や対立はマルクス主義に限らず、アナキズムにもあり、プルードン主義が構造改革的であるならバクーニン主義は暴力革命的だった。あえていえば、一方に、バクーニン・レーニン的な暴力革命の路線があり、他方にプルードン・グラムシ的な構造改革の路線があったことになる。
 当時、つまり1968年においては、圧倒的に暴力革命路線の影響下にあり、構造改革路線は、遅れた左翼として半ば公然と馬鹿にされていた。面白いことに昨今においてはグラムシ的な構造改革が先進国的であり、レーニン的な暴力革命は後進国的なものと見られているが、当時は、構造改革派は、旧左翼の延長として捉えられ、新左翼とは別の範疇というのが実態だった。組織でいえば、共労党・プロ学同や統社同・フロントがあり、もう一つ日本共産党(日本の声)・民学同という志賀義雄の一派があったが、これは構造改革派というよりも、共産党から除名されたソ連派フラクであり、むしろ旧左翼の範疇に属し、新左翼の反スターリン主義の立場からすれば粉砕対象でしかないだろう。
 暴力革命と構造改革については、当時流行った党と大衆ということからいえば、前者の党的立場と、後者の大衆的立場といえようか。つまり前者は党の役割を重視し、武装・暴力・権力奪取を主眼とするのに対して、後者は大衆あるいは市民の役割を重視し、市民運動的なヘゲモニー闘争をメインとする。グラムシの言葉でいえば、前者の「機動戦」と後者の「陣地戦」だ。
 68年は暴力革命路線が主軸だったが、70年代に入り暴力革命路線は、一方の内ゲバと他方の爆弾闘争となり、そして連合赤軍の「事件」と日本赤軍という「亡命」へと到り影響力を喪失する。それに対して登場してきたのが構造改革路線だった。むろんもはや構造改革というような呼称ではなく、昨今風にいうならば、カルチュラル・スタティーズやポストコロニアル研究、ポスト・マルクス主義(ラディカル・デモクラシー)と呼ばれ、またネグリ、ハートらが『<帝国>』でいうところのマルチチュードというような語彙によって語られるものだ。あえていえば、このような新グラムシ主義とでも呼べるような立場が登場するイデオロギー的背景として、「大きな物語の終焉」論があるだろう。1980年代や1990年代と比べるとあまり多く語られることのない1970年代は、このような暴力革命から構造改革への移行の時代だったといえる。
 現在、左翼の主軸は、グラムシ主義の延長にあるといえるだろう。言葉をかえれば、暴力革命の党に対する文化左翼の時代だ。しかし、グラムシ的陣地戦の延長にある文化左翼的な構造改革は、所詮は資本主義的なものでしかないのではないか。そしてそうであれば文化左翼はネオリベの批判的補完物かネオリベ左派でしかないともいえる。
 暴力革命路線が革命戦争で頓挫したとするならば、その頓挫した革命戦争は依然として現在からするならば負の形で現在を規制している。要するに構造改革は、暴力革命・革命戦争に対する反動であり避難でしかないのである。その意味で、様々な言説商品や理論のジャルゴンが思想市場に登場しているが、依然としてその背後には、暴力革命・革命戦争があるとうことでもある。とはいえその暴力革命・革命戦争は、連合赤軍的残骸と日本赤軍的不在となり、可能な現実としては存在しない。これは左翼だけの問題ではなく右翼もまた無縁ではない。右翼もまた戦後に対しては、暴力革命的であるか(つまり維新的であるのか)、構造改革的であるのか(つまり反共的であるのか)が求められたのであり、右翼は天皇の玉音に従い戦後を肯定し、戦後の中での戦前回帰派たろうとした。分かりやすい例が、戦後を前提にしながら、日本の戦争は悪くはなかったというような言い訳論だが、このような立場にあるかぎり、右翼もまた所詮はネオリベの傭兵にすぎず、日本の戦争に対して日本無罪論に立つかぎり右翼に維新派としての未来は無いだろう。
 現在、ネオリベに対抗しているのは原理主義だが、原理主義はどこまでネオリベに対抗出来るのか。言いかえれば、原理主義はどこまでネオリベの対抗物として存在出来るのか、そして存在するための生存と自己経営の内実は何なのだろうか。さらにはポスト原理主義は可能なのだろうか。