美空ひばり、再び 「一本の鉛筆」を歌う | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

美空ひばり、再び 「一本の鉛筆」を歌う

(前書き)

 前回書いた通り、美空ひばりが「一本の鉛筆」を初めて歌ったのは、1974年(昭和49年)、広島平和音楽祭のステージでした。その後もう1回、彼女は同じ音楽祭でこの歌を歌っています。1988年(昭和63年)広島平和音楽祭が15周年を迎えたときのことです。

 

 そのときの有様、そもそものこの音楽祭のなりたちについて書いたコラムを古いスクラップ帳からとり出し、お目にかけたいと思います。

 

 ひばりがこの世を去ったのは翌89年6月24日のことでした。

 

 なお広島平和音楽祭は、第20回をもって終了しています。

 

(本文)

 あれは16年前のある朝のことだ。今は亡き古賀政男氏から電話がかかってきた。

「こんどね、広島テレビが音楽祭をやることになったの。といっても、東京のテレビ局がやっているようなものにはしたくない。広島という土地柄を反映した音楽祭にしたいと思っているのだけれども、力を貸してくれるかしら」

 

 表面はいつもの古賀さんらしい優しい口調だったが、その奥のほうから凛とした響きが伝わってくるような気がした。

 

 広島平和音楽祭は、運営母体は広島テレビだけれども、古賀さんの私への電話でもわかるように、実際は、この今は亡き大作曲家のお声掛りと肚入りで始まったものなのである。

 

 7月29日、広島サンプラザでその広島平和音楽祭の第15回目のコンサートがおこなわれた。私は、古賀さんの推薦で第1回目から実行委員をつとめてきたので、この音楽祭が第15回目を迎えたことにひとしお深い感慨を持たずにいられない。

 

 まず第一に、いちローカル・テレビ局が運営する音楽祭が15回も続いたということ、これがすばらしい。しかもこの音楽祭は、ほかのテレビ局がやっているものと違って、出場歌手が賞を競い合うことは一切ない。出場歌手全員が、歌に平和への祈りを込めて熱唱する、ただそれだけである。

 

 賞のある音楽祭には、当然ながら水面下の駆け引きが盛んにおこなわれる。しかし、賞のない音楽祭にはそんなものはカケラもない。すがすがしいかぎりだ。

 

 ことしは美空ひばり、堺正章、五輪真弓、近藤真彦らが出演した。司会の上條恒彦、斉藤昌子も歌った。斉藤昌子は、二期会所属のオペラ歌手である。美人で色気もあるので、私は以前からひいきにしている。ミュージカル「オペラ座の怪人」ではパリ・オペラ座のプリマドンナの役をやっているが、三枚目的なところもある役柄を巧みにこなしている。

 

 美空ひばりは、ステージ中央に歩み寄るまでは、ほんとうのところ足もとが危うかった。ステージに1、2段、段がついていたが、スタッフたちは、本番前、それはスロープに直したほうがいいんじゃないかと真剣に検討したという。

 

 しかし、いったん歌い出すと、その迫力は聞く者を圧倒する力にあふれていた。メリハリのきいた歌いぶりはさすが一級品だった。

 

  ひばりは、実は第1回広島平和音楽祭に出場している。その時、彼女のために特別に用意された「鉛筆が一本」(作詞松山善三、作曲佐藤勝)という歌を、今回も歌ったが、私は、15年前と同じように一種の違和感を感じないではいられなかった。「一本の鉛筆が/あれば/戦争はいやだと/私は書く」というような歌詞が、彼女の歌唱や全体の雰囲気とマッチしないのだ。よくも悪くも前近代性は彼女の特色だが、それがもろに露呈したという意味でとても興味深い一幕だった。

 (オリジナル・コンフィデンス1988年8月8日号 Bird’s-eyeより転載)



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