ジーン・クルーパとジョージ川口は兄弟分だった | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

ジーン・クルーパとジョージ川口は兄弟分だった

 前回、前々回に引き続き、もう1回しつこく、昭和15年(1940)吹き込みの「お祖父さんの古時計」(平井堅「大きな古時計」と同じ楽曲)のこと、というよりそれから連想される人物、出来事について書きます。

 この曲がなぜレコーディングされたのか。戦前のジャズにくわしい音楽評論家の瀬川昌久先生が推測するところ、このレコードの編曲者に仁木多喜雄が、ジーン・クルーパ楽団の演奏を聴いて思いついたのではないかという(瀬川昌久+大谷能生著「日本ジャズの誕生」、青土社)。

 日米開戦は昭和16年12月8日だから、その前年にジャズの新譜をくまなく渉猟していた音楽家がいたとは、驚くべきことだし嬉しいことでもある。

 もちろん戦争が勃発したあとは、ジャズは敵性音楽(凄い言葉です。でも実際に使われていた)として聴くことも演奏することも一切禁止となったのです。

 私はクルーパをジャズ史上最大のドラマーと信じて疑わない。最高の腕前の持ち主であり、強烈なオーラを発するスター・プレイヤーでもあった。

 私がこう云い切れるのは、彼の生のプレイをこの目で見、この耳で聴いているからだ。

 ジーン・クルーパのただ1回の来日は、昭和27年(1952)4月、公演は今はない有楽町・日劇でおこなわれた。

 通算何日、何回公演がおこなわれたか調べるすべもないが、3000人は入ったであろうあの大劇場が、毎回、3階席まで鈴なりの観客で埋め尽くされたものだ。

 その演奏は、ひとことでいえば機関車を思わせる圧倒的迫力で客席に迫って来た。彼のドラミングは正確無比、いやむしろ自由自在で大いに遊びもあった。

 日本人でジーン・クルーパを心より尊敬し彼を目標にしたドラマーがいる。ジョージ川口(1927~2003)だ。

 ジョージは、幼年時代を大連で送っているが、小学校5、6年生のとき、街の映画館でアメリカ映画『ハリウッド・ホテル』(1937)を見て、そのなかに出て来るクルーパの颯爽たる姿に痛く感動したそうだ(ジョージ川口『ドラム・ソロは終わらない「私の履歴書」』(日経事業出版社)。

 その幼時体験がルーツとなってジャズ・ドラマーを志したのか。

 ジーン・クルーパは、来日のおり、ジョージ川口が出演していた日本橋のクラブ「マキシム」に遊びに行っている。以下、ジョージの著書から。

 私のベースドラムには、ジョージ川口のイニシャル「GK」の文字が入っていた。ジーン・クルーパも同じGKである。彼は自分のドラムセットを、どういうわけか他人がたたいていると思ったようだ。
 演奏を終えると、近づいてくるなり「なぜGKなんだ」と尋ねた。「私はジョージ川口だ」と答えると「やっぱりそうか。おれとお前はブラザーだ」と言って肩を抱きしめてきた。

 ジョージ川口は、生涯スター・プレイヤーだったが、絶頂期は昭和28~29年(1953~54)のジョージ川口&The BIG-4時代だろうか。私には、これも今はない浅草・国際劇場でその熱演を楽しんだ思い出がある。

 ジョージ以外のメンバーは、松本英彦(テナー・サックス)、中村八大(ピアノ)、小野満(ベース)。全員、超スター級のジャズメンだった。

 1960~70年代、ジョージは、越路吹雪のバックバンドの一員をつとめたが、シャンソンのコンサートではじゅうぶん腕の揮いようがなかったろう。ただし歌なしが1、2曲あり、そこでは豪快なドラムソロを披露していた。

 彼は、昭和27年(1952)以来、2ベース・ドラムに固執し続けて来た。高度な演奏技術を要求されるのに、それをやすやすとこなしていた姿が、今も目に浮ぶ。

 ひとりでステージに立って客が呼べるドラマーを、私はほかに知らない。



The BIG-4の絶頂期の演奏が楽しめます。
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ジョージ川口の自伝。日経に連載後単行本になった。
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