この記事は、先日、オートレース公式モバイルサイトに提稿したものです。

ひとりでも多くのオートレースファンの方に、

釜本和茂の功績、足跡、仕事ぶりを知っていただきたく、

釜本さん本人、竹谷隆レーサー、モバイル運営会社の承諾を得て、

本ブログに再録(一部加筆)いたします。


なお数枚の写真が鮮明ではありません。ご了承ください。



『飯塚のこころ』


オートランタブレーブス

みんなが待っていた。ずっと待ちわびていた。 
オートレースが飯塚の地に戻ってきた。


2011年4月28日。この日から新年度の開催が、いよいよスタートする。
震源から遠く離れた、九州は福岡の筑豊地方。
ここにいると、テレビや新聞で見聞する痛ましい被災の惨状が、
とても現実のものとは思えない気がしてくる。


震災の前も、そして後も、ここ筑豊にはいつだって静かで、のどかで、平穏な空間がある。
飯塚オート場のロッカールームもそうだ。
首を大きく左右に振って、あちこち、あたりを見回す。
やっぱり、3月11日以前と何も変わっちゃいない。
あるひとつのことを除いては。


共に闘う選手のみなに、愛され、あまりに多くの厚い、篤い、熱い尊敬を集めた男のロッカーが、からっぽだ。


ロッカーのあるじは、もうこの業界にいない。
釜本和茂。今は、元オートレーサー。
近年の成績不振により、2011年3月いっぱいをもって、
主催するJKAより、引退勧告が発せられ、選手免許の返上を求められたのである。


確かに、数字は上がらなかった。
どんなに懸命に走っても、全力で仕事に向き合っても、いつも、いつも後方に沈んだ。


言い訳はできない。

したくもない。
しかし、釜本和茂は、”成績のさえないレーサー”というレッテルよりも、
実は、もっと素敵な枕詞を持っていることを、ほとんどのファンに知られていない。


”飯塚のこころ”。


「釜本和茂の存在が、今の飯塚最強を作り上げたと言っても、それは間違いではない」。
竹谷隆は、そう言った。


そして、続けた。
「本当のアニキは、釜本和茂なんです。カズ兄なんです。そのことをね、この機会に、どうしても、ファンのみなさんに知ってもらいたいんです」。



オートランタブレーブス
(愛弟子、松尾隆広と。「なんかこういうのテレちゃうから、ふたりで写真撮ったことはないです」)


◇「辞めたくない。オレには仲間がいる」


大地震が来る前の、2月20日。
竹谷レーサーに紹介される形で、引退が決まった直後の釜本レーサーと初めて話した。
「えっ?竹谷がそんなことを言っていてくれたの?そんなこと、全然ない、ない。あるわけない」。
照れに照れて、こちらの視線を避けに避けながら、ぽつり、ぽつりと彼は語り始めた。
「引退は仕方ない。ルールだから。自分はそれに従います。でもなあ…」。

釜本は大きく息を吐いた。

「でもオレ、辞めたくないですよ。だってオレ、オートが好きだから。ここには大切な仲間がたくさんいるんだ。離れたくないよ。ずっと、飯塚の仲間たちと戦っていきたかったなあ。残念だなあ」。


少し顔が紅潮しているのは、照れているからでも、取材に緊張しているからでもない。
無念。

その一念からであろう。


◇中村政信との出会い


20歳。成人の誕生日を迎えた22日後の1991年6月28日に、レーサー釜本和茂は誕生した。



22期。同期には、あの高橋貢がいる。
「自分がデビューした当時の飯塚は、強くなかった。なんていうのかなあ、ベテランの選手がすごく多かったし、上下関係も特に厳しかった。いろんな意味で息苦しいというか、閉そく感があった。お互いに協力し合って、一緒に成績を伸ばしていこうとか、そういう雰囲気はなかった」。


そんなムードを、ひどく嫌った男が、ひとりいた。
当時の飯塚最強レーサー、中村政信だった。


「当時はね、先輩が後輩にアドバイスをするとか、情報を交換し合うとか、そういう風潮は全然なかったんです。自分さえ勝てば、自分さえよければ、それでいい。みんながそんな感じだった。でも、中村さんは違った。”みんなで強くなっていこうよ”といつも、やさしく、先輩、後輩を分け隔てなく、アドバイスを送り続けていたんです」。


トーマスに、ついていこう。
若い人間が伸び伸びと仕事をできる空間を作りたい。
釜本の気持ちは固まった。


「そんな機運が高まった時ですかね、自分のデビューから2年後だったかな。竹谷隆が入ってきたんです。中村さんが言ったんですよね。”あいつは強くなるぞ、うん。そしてリーダーシップがある。あいつを面倒みよう”」。


中村、釜本、そして竹谷。
役者はそろった。
最強飯塚の土壌が耕されはじめたのが、この頃だった。


◇中村の殉職、そして竹谷隆との結託


1999年12月23日、オート界最大の悲劇の日。
中村政信が、オーバルに散った。
「何も言えなかった。どうしようもなかった。泣けて仕方なかった。何もかもがイヤになった。辛かった」。


志半ばで、この世を去った大エースの意志は、自分が継ぐ。
絶対に、継いでみせる。


中村の提唱した明るく、元気で、誰もが頑張れる気持ちになる環境を作るべく、
釜本は、仲間を助け、いたわり、時に声高らかに激励、鼓舞して、絆を紡いだ。
それが自分の使命であり、ライフワークのように思えたから。


2000年を前後して、威勢がよくて、感性の尖った若者たちが次々と、飯塚に集結した。
25期には有吉辰也、東小野正道が、
26期には久門徹、田中茂、篠原睦が、
そして27期には荒尾聡がいた。


キャラクターまぶしい、個性に溢れた若き才能は、

自由で明るい空気の中で、大らかにどんどん力を伸ばしていった。


その流れに引っ張られるように、

飯塚エリアから、次々と、続々とS級レーサーが誕生していった。


いつしか、人々はこう言った。

「最強は、飯塚だ」。



◇若手を徹底的にサポート


若い彼らのそばには、いつも釜本がいた。
デビューから14年。

ついに昨年、NO1レーサーまでに昇華した有吉は、こう話した。

「自分なんかが、どうこう言える立場じゃない。でも、本当に助けてもらったし、世話になった。SG優出を何度も果たしても、どうしても優勝戦で勝てない時期があった。そんな時、いつも釜本さんが”大丈夫、勝てる、オマエなら勝てる”とずっと励まし続けてくれた。レーサーとしては終わりかも知れないけれど、別に会えなくなるわけじゃないし…。でも、寂しい、寂しいっすよ。寂しいなあ、ホントに…」。


有吉の愛車には、釜本のシールが力強く貼ってある。

「釜本さんのスピリットを受け継ぐつもりで、貼ったのですか?」と聞くと、
小さく、ウンウンと何度も頷き、「これ、厄除けにならんかなあ」。
有吉は静かに笑い、そして下を向いた。
数秒の沈黙が、有吉の想いをより重く、伝えることになった。



オートランタブレーブス
(モモイロ王者の愛車には、釜本和茂のシールが貼ってある。
「せっかく撮影してもらうんだから、きれいに磨かんとね」)



「あのう、有吉は大丈夫ですかね。この前も、”NO1勝負服が重い”と弱気になって、悩んでいた。”そんなこと言ったら、ダメよ!”と叱咤したんですが、有吉は大丈夫かなあ。あいつが心配だなあ」。


あと1か月と少しで、自らの選手生命が終わろうとしている時期に及んでもなお、
この日も釜本は、全国1位の重圧を背負い、苦悩していた後輩をずっと気遣っていた。
選手たちの語る「カズ兄像」が、すいて見えた気がした。


◇同期、高橋貢に声をかけずに…


釜本が動くと、いつも、自然と義勇が発散される。
2月の全日本選抜。
釜本は、見事にファイナル出場を決めた竹谷隆を応援するため、福岡から伊勢崎オートへでかけた。


高橋貢が5日間、5つの白星をきれいに並べて、完全Vを達成した。
「ミツグ、おめでとう」。
心の底から、同期に祝福とねぎらいの言葉を掛けたかった。
でも、釜本はそうすることなく、消えるようにレース場を後にした。


圧勝パフォーマンスを決めて、表彰式を終えて、ロッカーに戻ってきた絶対王者は、
「なんか、カマちゃんがいたような気がするんだけれど。えっ、やっぱ、来ていたのか、カマちゃん。まだいるかな、カマちゃん。来てくれたらいいのに」。
高橋は、ロッカーをキョロキョロと見渡し、同期の姿を追い求めた。


釜本がうれしそうに笑った。

「ミツグ、気付いてくれていたんですね。でもオレは、竹谷隆を応援に行った。だから、ミツグのところに行くことはできなかった。それは竹谷に失礼になる」。


◇「竹谷隆がいれば、飯塚は大丈夫」


取材の合間、釜本は、少しずつ言葉を変えては、何度も同じような内容を繰り返した。
要約すると、こうなる。
「自分の精神というか、伝えたいことは、もう全部、竹谷隆という男に言い尽くしてあるんで。あいつがいれば、この後も、ずっと飯塚は大丈夫です」。


絶大なる信頼を置く側近にスピリットは託したとはいえ、
このリーダーシップが、
求心力が、
影響力が、
飯塚ロッカーから去ってしまうのは、あまりにも惜しいし、もったいない。

もしも、釜本が野球選手だったらならば、
きっとコーチや監督として、業界に残り、繁栄に尽力する機会がたくさんあったはずだが、
残念ながら、オート界にそういった慣習、システム、レールは整備されていない。

どうにか、有効活用はできないものなのか…。


「そうですね。自分は教官とか向いているかも知れませんね。頭では理解していても、自分ではどうしても体現できなかったことが、有吉とかセンスのいい選手にアドバイスして教えると、おもしろいようにできて、強くなっていくんです。それが自分は、たまらなくうれしかった。
”なんで、アイツらはこんなに簡単にできるんだ!”と驚いたもんです。あ~、そうかあ。教官とかアドバイザーとか、そういう仕事があれば、自分はもっとオートのために役立つことができるかもなあ。そうそうこの前、31期の養成所にも行ってきましたよ。女子にケツバットしてきました。はははっ」。




スポーツの世界には、”名選手、名監督にあらず”という格言が存在するが、その逆があっていい。
この業界に後進を指導するような職種が用意されているならば、必ずしも名選手ではなかった釜本は、きっと素晴らしい指導者になることだろう。


釜本が、まるで自慢の家族を紹介するように、話してくれた。
「選手はね、お金のために走る。いい成績を残して、たくさんお金を稼いで豊かな生活につなげる。それは間違いじゃない。でもね、いい車に乗りたいとか、素敵な女性と付き合いたいとか、おいしいご飯を食べたいとか、そういうものは本当のモチベーション、真の意欲にはなりえないと思うなあ。飯塚の選手がなぜ、強いのか。それは”仲間のために走る”からなんだと思うんだよね。仲間の車が故障すると、仲間が困っていると、飯塚では自分の仕事の手を休めて、みんなで駆けつけて手伝うんです。これをされるとね、”みんなに迷惑をかけて申し訳ない、なんとか頑張ってサポートに応えなければ”。自然とそんな気持ちになるんです」。


さらに言葉に、熱をこめて、語り続けた。
「このパワーは、本当に強いですよ。極端なことをいえば、”家族のため”というより、”仲間のため”と思って走っているやつは、結構います。こんなこと言ったら、家族には怒られちゃうけれどね。でも、それだけ、絆が深いんですよ。生死を目の前にして、ずっと一緒に闘って、長い時間を共に生活するわけだから、家族以上の強い信頼関係が芽生えるんです。これが、飯塚です。飯塚なんです。自分の誇りです」。


◇仲間が、有志が集まって、引退セレモニー


3月27日、山陽オート場で、釜本はラストランを迎えるはずだった。
出場予定のない多くの選手が、彼の最後を見届けようと、スケジュールを申し合わせた。
ご存じの通り、日本中が被災に見舞われる中、ラストランの開催だけでなく、3月11日以降のスケジュールはすべてキャンセルされた。


釜本和茂の選手人生は、静かにあっけなく幕を閉じた。



このまま、フェードアウトでいいのか。

言い訳がない。

有志たちが動いた

同じ3月27日、山口県内にあるアマチュアのオートレースコースに、多くの仲間が集まった。
身内だけによる、釜本和茂の引退式が行われたのだ。



オートランタブレーブス
(最後のスタートラインに立つ)


誰ひとりファンのいないコースで、釜本は、自分が目をかけた、愛した仲間たちに、見守られながら、約20年間のレーサー生活に潔くピリオドをうった。
当日の様子は、竹谷レーサーが提供してくれた写真をご覧ください。
どれだけ彼が、信望を得た男だったのか。
一目するだけで、理解できるはずである。


オートランタブレーブス
(有吉が、篠原が、荒尾が、そして竹谷が。釜本の功績をねぎらった)



オートランタブレーブス
(カズ兄ファミリー、大集合)


「日本がこういう時期だし、自分のために会を開いてもらうことに、少し躊躇はありました。でも、みんなが集まってくれて、激励してくれて、見送ってくれて…。あいさつをしなければならないのに、みんなの顔を見たら、涙が出て、言葉が詰まって出てこなかった。なんかオレ、選手になって本当によかったな、と。その時、心からそう思いました。幸せですよ、自分は。うん、幸せな男です」。


そんな様子を知る同期の日室志郎が、無念を語る。
「なんでだろう。ずっと頑張っていたのにね。残念なことは、結果が出なかったことだけです。みんなに必要とされている人間だと思うし、本当に悔しいな。オレは悔しいよ」。


 
オートランタブレーブス
(信奉する中村政信のパネルを、信頼する竹谷隆が目の前に運んでくると、
もう涙が止まらなかった。言葉にならなかった)


◇影山伸と号泣した夜


やはり同期の影山伸は、釜本の進退が決した後、都内で、ふたりきりで、盃を交わし合ったという。
「最初はね、”しんみりはイヤだよ!”なんて言いながら、明るく飲んでいたんです。”別にもう会えなくなるわけじゃねえし、お疲れな!よく頑張ったよ!”なんて言いながら飲んでいた。でも、オレは知っているんだよ。あいつがずっと頑張っていたことを。養成所からずっと一緒だったから、もう20年だよ。あいつは頑張っていたんだよ、本当に。うちの同期には、ミツグがいる。あいつは勝って、勝って、勝ちまくらないと周りが許してくれない。本当に大変なわけだよ。普段は、愉快で面白いあんちゃんなわけよ、ミツグは。でもね、彼は周囲が求める”絶対王者”ってやつをね、必死に演じているっていうのかなあ、期待に応えようと必死なわけなんだ。陰で苦悩しているのとか知っているんだ、オレは。同期だからね。そして釜本の場合は、負けても、負けても、仕事に打ち込んでいた。それはすごいことだと思うよ。ミツグみたいに勝てばさ、結果が出ればさ、まだ報われるってもんだけれど、あいつは結果が出なくても頑張ってたんだからなあ。2人ともすげえよ、全く。オレは、すごいヤツらと一緒に仕事をしているんだよね。そう思った」。


店を出て、駅に向かったという。
ふたりで電車に乗り込んだ。時間は浅かった。
まだ午後8時とか、9時だった。



「都内の電車だからね、ちょうど帰宅ラッシュの時間だったんだ。車内は普通にサラリーマンとか学生でごった返していたけれど、オレたちさあ、もう悲しくて、悲しくて。釜本に”ありがとな”って言われたらさあ、もう洪水だよ。涙が止まらなかった。前が見えねえんだ。だからオレも”ありがとう”って返した。そしたら、向こうも、ワンワン泣いていた。もう何がなんだか、わからなくなって、ふたりで電車の中で号泣してしまった。いい年したふたりの中年がさあ、帰宅時間の電車の中で大泣きしているんだから。上野だよ、上野。周りは、びっくりしただろうね(苦笑い)。でも、オレたちは、ずっと涙が止まらなかったなあ」。


今後のことは、未定だという。「自分ね、これまでオートばかりの人生だったから、何も資格とか何もないんです。だから、今の時間を大切に使って、何か資格とか取りたい。そうそう、大型免許は、早速取りました。久しぶりに自動車学校に行って、なんか恥ずかしいというか、照れますよね」。
すでに吹っ切れたように、明るい口調で未来の展望を口にした。


◇「男はな、背中で語るんだぞ。だから、いつも背中をきれいしておけよ」


このエピソードを紹介して、文章を締めたい。
引退が決まった直後の日、宿舎でのことだったという。
釜本は、風呂に入るなり、選手、ひとりひとりの背中を流して回った。
「おまえらね、男は背中で語るんだぞ。だからさ、背中はいつもきれいにしておけよ」。
やさしい笑顔を浮かべて、ひとり、またひとり、ていねいに背中を洗い清めたという。


「まったくカズ兄らしいというか、まったく何、言っちゃっているんだよ。ホント笑っちゃうよね」。
竹谷は顔を崩して大笑いしたが、その目は赤く潤んでいるようにも映った


 
オートランタブレーブス
(中村政信から、釜本へ。そして竹谷隆を通じて、”飯塚のこころ”は今後も受け継がれていく)


今年は、31期生がデビューを迎える予定である。
新しい血が、業界活性に投入される。
そして、業界を追われる者がいる。
体が元気で、意欲も萎えていないのに、その場を退かないとならない者がいる。


釜本の生き様を見聞きすると、
弱肉強食、優勝劣敗なんていうフレーズは陳腐に聞こえてならない。


ここには、本物がある。
刹那的な時空がある。
だから、ファンはオートレースを愛する。
そして、選手もまた、オートレースを愛する。
これが、オートレースなのだ。


オートランタブレーブス
(レース人生の集大成を収めたDVD。仲間が作成した)



男、釜本、ロッカーを去る。
でも、釜本の”こころ”は、いつまでも、ロッカーに残る。
強固な結束力と、絆を築き上げた釜本和茂は、いつまでも選手の胸に残り続ける。
伝説のレーサー、中村政信と同じように…。
通算110回の1着ゴール。
1回の優勝。
そして、たくさんの感動をファンに残して、釜本はオートレーサーの看板を静かにおろした。



「オレ、オートレースの選手だったんだよ!って、いつまでもみんなに自慢したいんだよね。
だからね、この先もずっと、オートが続いてもらわないと困るんだ。ファンのみなさん、オートを本当によろしくお願いいたします。心からお願いいたします」。釜本和茂




オートランタブレーブス