○○の秋~DISCOVER JAPAN~③ | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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この地球は今大きく変わろうとしている。自国主義からコロナ禍を経て、調和・融和へとイノベーション(変革)し、人生100年時代へ向けて脱炭素の環境優先へとベクトル(地球的エネルギー動向)が動いた。
常に夢を持って波に乗ろう!

キンモクセイの甘い香りと萩の紅い可憐な花がウオーキングを楽しませてくれます。

 

先日、水戸の名所旧跡で言葉を交わした素適な方々へ感謝をこめて

                           私独自の感性で観た水戸市内漫遊記を書きます。

 

 

旅のはじめは、先ず航海の安全を願う女神像の舳のような老舗JTBで手配していただいた旅の切符とバウチャーを手に所定の時刻に所定の場所で所定の特急席に乗り込み、都内から2時間弱で水戸着。

 

 

ほーら、ちゃ~と水戸駅と書いてあるでしょう。

 

 

こっちは南口。

 

 

随分近代的でしょう。こっちは。 標準語で通じる。

 

 

そして旅のお宿も見えてきました。今はホテルの近くにコンビニが必ず建っている。系列グループかな。

おっと、それはいいが、駅の反対側、北口に立ったらそこはもう古代の時代。茨城弁を勉強しておがなくては。

 

 

まんず、こごわ、いばらぎでねぇっす。いばらき、とはづおんすべ。ん?だれだおめえ。こーもん様でねえか。こりゃまんずすつれいすますた。

ほーれーもっど、納豆食っで粘り強いはづおんばしねえっどわらぁわれんどぉ。

あれぇ、由美かおるがいねえど。風呂にでも入ってるんでねえべか。   ごんな時間にが。 ばかこくでね。 

 

 

んで、これがらどっちさいぐべ? まんずお城、水戸城に登城すべ。

 

 

こごに徳川光圀さんや、斉昭さん、慶喜さんが住んでたのけ?

 

 

こごわ、義公生誕の地どある。義公って黄門様のこどだべ。

 

 

こ、こーもん

あ、もう下手なバラキ弁はいい。誤解されるから標準語オンリーでいくよ。黄門様つまり徳川光圀公は1628年に家臣 三木仁兵衛之次の屋敷で生まれ、4歳まで三木家の子としてここで養育されました。現在この地に水戸黄門神社が祀られています。絵馬は向かいの美容室で。

 

 

こりゃまた、古いんだが、あだらしいんだがわがんねハイカラな建物でねが。

 

もういいっでば。あれっ、こっちまでうつったべか。え、おほん、(気を取り直して)えー、これは水戸市水道低区配水塔です。水戸市の低地への配水を目的として1932年(昭和7年)に造られた配水塔で有形登録文化財に登録されています。二階塔屋部の壁面や窓の周囲に施されたウエッジウッドのような細かいレリーフ、流麗なテラス風の廻廊、そして一階入口のゴシック調装飾など優雅で瀟洒な外観ですね。

 

 

旧水戸彰考館跡

 

 

義公、徳川光圀公が1657年、「大日本史」の編纂をここ水戸彰考館ではじめて以来紆余曲折12代250年かけて402巻完成した。

 

 

250年に亘って藩主リレーされていった一大事業。(年平均1.6巻、一代あたり約34巻の宿題?)

 

  偕楽園での石碑

 

「大日本史」は古代神武天皇以来、歴代天皇とその周辺で関わった歌人武人女人等の言行録。といえば「日本書紀」や中国歴代王朝の帝王学「貞観政要」や邦史「本朝通鑑」を思い出すが、こちらは当時の儒医学者(安積、幽谷、立原ら)を招じて進講もし、また史料収拾の為諸国を旅した佐々宗淳(介三郎)<助さん>と格さん役の覚兵衛こと安積澹泊が「彰考館」の総裁を務め15歳年長の光圀義公の意思でもある人材教育を次代に繋いだ。

それらから天皇を主体とした尊王攘夷という水戸藩の伝統もうかがわれよう。

 

 

 調べれば調べるほど奥深い人間模様。時代が変われば権威も価値観も少しずつ変わるのが世の倣い。やがて編纂から二世紀を経て、その間、人材育成や人民のための娯楽として弘道館や偕楽園もできた。絵画に例えるならミレーの<種をまく人>が二代目の光圀義公ならば、ミレーの<落穂拾い>は人材や民意を耕した九代目の斉昭烈公といえよう。

 そしてその九代水戸藩主・斉昭の子七男の慶喜がのちに江戸幕府最高位の第15代征夷大将軍・徳川慶喜となるのである。(慶応2年・1867年)

 なぜ徳川光圀公が1657年、「大日本史」の編纂をここ水戸彰考館ではじめたか。また何世紀にも跨る大事業を最初から計画していたのか?

当時の関係者の声を聴くこともままならないが、現存する古文書や歴史年表から前後の状況を検証して推測するのも歴史の楽しみだ。

 

①1628年光圀は水戸藩主・徳川頼房の庶子として産まれる。思春期は吉原通いなど乱行三昧。

②1646年光圀18歳元服を機に司馬遷の「史記」を読み通ずる処あり感銘を受け以後素行改まる。

③1657年明暦の大火(振袖火事)。江戸幕府でも林羅山らが史書の編纂をしていたが、江戸大火に包まれ多くの史料焼失で編者の林羅山も傷心からやがて病死。

④1657年光圀30歳で羅山の遺志を継ぎ復興策の一助として「大日本史」の編纂を始める。

⑤1661年34歳で水戸藩28万石の第二代藩主となり、亡命来日中の明・朱舜水の助言を受け徳政に務。

⑥1662年林鵞峰を藩邸に招き史書編纂に関する意見交換。

⑦1668年光圀41歳以降、水戸に相次ぐ災害。城下町大火~水不足~飢饉~洪水等に城下視察・対策。

⑧1687年光圀60歳。将軍・綱吉に引退を届けるが諸大名が光圀に助言を求め相談役、のち63歳で隠居

⑨1700年、光圀、隠居先の西山荘(現・常陸太田市)で12月6日しずかに息をひきとる。73歳。

⑩1906年、「大日本史」が完成し後裔の徳川圀順が明治天皇に献上。1929年「大日本史」の歴代編纂功績に対し公爵に叙す。ついで1962年貴族院議長となる。

 

光圀公は後裔が公爵になり、議長となる。果たしてそこまで先見の明があったかどうか。までは推測できませんが、このようにこつこつ正しいことを繰り返していけば子供や孫が恩恵を受けるという、まさに世紀を超えた実例でもあり、史書を編み歴史を振り返ることにより、物事の善悪や行動の指針としようという経験からくる確かな考えでもあったのでしょう。

 

「大日本史」は単なる藩主藩士の認知症予防生涯学習ではなかった。

 

 

 

これは一体何だったのか。「大日本史」があったから「弘道館」で教育もでき、学者や文房具関連の生産雇用も生まれ、また観光遺産ともなって今では地域社会をも潤している投資の好循環ともとれる。

 

 

そして水戸城跡を後にして次は藩校・弘道館に。

 

 

第十五代将軍 徳川慶喜は最後の将軍で水戸徳川家初代・頼房、二代光圀、と続き、九代斉昭の第七子として小石川水戸藩邸で生まれた。 光圀の教育方針を踏襲した斉昭が慶喜に少年期をここ弘道館で学ばせた。  

 

 

弘道館  http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html

 

 

 

あんれ、こんな丸瓦にまで黄門様の印籠が。瓦屋も大変だべ烙印も保存も。

 

 

<尊王攘夷> (当時の時代的背景)ペリー来航以前の江戸幕府鎖国令の中、水戸藩内大洗海岸などにもロシア船等異国船の強引な接岸、上陸という事態を受けて、藩内には適確な判断措置のできる人材の育成が急務となった。

とうとう1825年幕府は異国船打払令を下した。当面はそれで凌げたが、1862年薩摩の参勤交代行列を横切った英国人を無礼討ちで島津藩士が殺傷したことから起きた生麦事件に対し、翌1863年英艦隊が薩摩に報復来航し薩英戦争に。また同1863年長州藩が英仏蘭艦隊を砲撃したが、戦争が続く欧州の艦隊相手では砲や戦のスキル、スケールが違っていた。同胞を見殺しにした無力幕府の威信低下と共に士農工商の階級を排し天皇のもと同じ日本人として外国からの侵略から祖国を護ろう。という機運が拡がっていった。つまり、尊王とは王政復古で攘夷とは外敵を払って国内に入れないこと。

 

 

 

<藩主就任と藩政改革>水戸藩の徳川斉昭(1800~1860)がこの時代国内に与えた影響は大きい。

徳川斉昭(烈公)は第七代藩主治紀の三男として江戸小石川藩邸(現・後楽園遊園地)に生まれ、30歳で藩主に就任。就任後すぐに藩政改革に着手。倹約の徹底、軍制改革、藩内総検地、弘道館と偕楽園の造成、定府制の廃止などの施策を推進(天保の改革)

 

 

<致仕謹慎>しかし弘化元年(1844年)改革の行き過ぎなどを理由に幕府(当時の大老は酒井忠勝)から致仕謹慎を命じられ、藩主を退き、子の慶篤(順公)に譲る。当時の幕閣は無能ばかりと思ったか。

 

 

<藩政復帰>やがて、斉昭の謹慎は士民の雪冤(無実の証明)運動により半年後には解かれるが、藩政への参与が許されたのは5年後の嘉永2年(1849年)のことでした。嘉永6年(1853年)のペリー来航を機に斉昭は海防参与として幕政に参加。藩内においても那珂湊に反射炉を築造し大砲を鋳造するなど対外軍備の充実にも傾注した(安政の改革)。

 

 

<激動の中>

安政5年(1858年)将軍継嗣問題と日米修好通商条約をめぐり、斉昭は再び幕府の処分をうけます。

将軍継嗣問題では、斉昭の七男で一橋家の養子となっていた徳川慶喜(のちの第十五代将軍)を推す一橋派と紀伊藩主・徳川慶福を推す南紀派との対立が表面化していました。

 南紀派の井伊直弼は大老に就任すると通商条約に調印し、徳川家茂(慶福)を第十四代将軍にしました。直弼の断行に強く反対した斉昭や尊攘派の志士たちは、安政の大獄と呼ばれる弾圧や処分をうけ、安政6年(1859年)8月、斉昭は水戸城に永蟄居を命じられた。

 

 

 翌万延元年(1860年)3月、桜田門外の変。 

 同年8月、斉昭は水戸城内で逝去。烈公と諱され水戸徳川家歴代の墓地瑞龍山(常陸太田市)に祀られました。

 

 

 

楷書の由来

字体に楷書とか隷書、草書、とかありますが、漢字としての基本は楷書です。その理由はこれです。

さらに「大日本史」の書体をご覧いただければ納得できるかと思います。

もっとも今の中国では孔子を知らない風潮もあるようですが。

 

 

烈公の偉業はまだありますぞ。

その前に藩校・弘道館のおさらいをしておいた方が入り易いでしょう。

弘道館は今でいうユニバーシティー(総合大学)ですが、ただ残念ながら当時「男女七歳ニシテ席ヲ同ジュウセズ」で共学ではなかったようです。

で、藩の人材教育としてどんなことを教えていたかといいますと、まず沿革から説明します。

 

 

<沿革>旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の一つとして開設された。

弘道館建学の精神は天保9年(1838年)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されています。

 

 

弘道館は天保12年(1841年)8月仮開館、安政4年(1857年)5月本開館式を行う。

弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で卒業は無かった。

学問と武芸の両方が重視され、学問では儒学、礼儀、歴史、天文、数学、地図、和歌、音楽など。

武芸では剣術、槍、柔術、兵学、鉄砲、馬術、水泳など多様な科目が教えられていた。

 

 

この至善、最高善というのは何でしょう? なんだか抽象的で迷ってしまいます。

仕方がないので二代光圀(義)公の彰考館~九代斉昭(烈)公の主張を落ち着いて見つめ直してみます。手がかりは設立趣旨ではないかと思い「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」を洗い直してみます。

「神儒一致」とは神道と儒教は同じように大事。

「忠孝一致」忠義 而して 孝行。義理と親孝行は人間の基本。

「文武一致」知識馬鹿にならないで躰も鍛えよ。

「学問事業一致」学者バカにならず事業も手掛けよ。

「治教一致」うーん、これがわからん。今は政教分離の時代。時代を遡って宗教哲学書をあさってみると、西田幾多郎博士の「善の研究」に価値観と宗教と人格的善の記述があった。

 

 

現代語要訳すると、宗教とは神と人との関係でお互いに敬うことから人格が磨かれていく。また価値観に於いてはどの時代にも共通する、富、名声、力、知識におぼれることなく中身、人格形成に重きを置いて自他を育てていく心がけ。そして一致ということは、「対象を愛し、自身を委ね無心になり一体感を感ずる」。多分、これは今でいう共感のことでしょう。

善とはなんと奥深いものか。 私は一日一善でいいや。

 

そういう東洋的な善でなく西洋的な情操教育で善を学ぶなら

こういう方法もあります。 理論で解らなければ感性エモーショナルに訴える。

そう、魔法です。人間愛。ちちんぷいぷい。出てこい。 

 

 

ハンス・ウイルヘルム(童話作家の言葉に)

 

【すきなら好きと言ってやればよかったのに、だれも言ってやらなかった。

いわなくってもわかると思っていたんだね。『ずーっと、ずっと、大すきだよ』     (評論社)

 

「すきだよ」 「大すきだよ」

 

こんな言葉を言ってもらえたら、どんなにうれしいでしょう。

みじめなとき、辛いとき、言ってもらえたら、

     どんなになぐさめられ勇気づけられるでしょう。

 

だから、君も大切なだれかに言ってあげてください。

君のペットに、君の友達に、君の家族に・・・・・・。

 

これからもずーっと、ずっと、

一番長くつきあっていく自分にも。

 

恥ずかしがらずに、勇気を出して、

「すきだよ」 「大すきだよ」って・・・・・・。】

 

 

と、幼子に諭すことばですが、これも一種の善ではなかろうか、いじめのない弱者救済の精神は徳善、道徳教育に洋の東西もないと思います。ただ、共学でもない武士の子弟を預かる藩校でそんな女々しい教育はできなかったでしょう。よって他藩の藩校の如く文武両道を基本とし、それに加えてこういう扁額まで懸かっていた。

 

   資料名:「游於藝」扁額 (「げいにあそぶ」 へんがく)

この扁額は、対試場に面した正庁の長押(なげし)に掲げられています。縦90㎝、横248㎝の大きな欅板に斉昭書で「游於藝(げいにあそぶ)」と刻まれています。「游於藝」は、「論語」述而篇の一節「子曰 志於道 據於徳 依於仁 游於藝」(子曰く 道に志し 徳に拠り 仁に依り 芸に遊ぶ)によります。「游於藝」の「藝」は六芸(りくげい)、礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)をさします。「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」という意味があります。 

 

この弘道館は文武両道プラス藝で文武藝三道ですか。

 

また一芸に秀ずれば百芸に通ず。ともいいます。

という訳で前回の拙ブログ「○○の秋~DISCOVER JAPAN~②」で取り上げた水戸芸術館に現代の「游於藝」の精神が息づいていましたね。文武両道のみならず芸術に秀でる者をも育てる。

そうして育ったのが・・・・・・最後の将軍徳川慶喜。

 

一方その頃の国際情勢は、1840年に中国東岸部で勃発した阿片戦争で英国が清国領・香港を占領し列強の植民地化が進んだ。そして1846年、英・米・蘭船がしきりに鎖国中の日本に鮫のように頻繁に来航するのであった。日本もその獲物にされていて、列国武器商人らの思惑通り、やがて幕府令である異国船打払令を履行した薩長戦争、馬関戦争での藩敗戦.。安政5年(1858年)将軍継嗣問題と日米修好通商条約をめぐり前年来航した黒船のペリーと屈辱的な日米修好条約や日露条約を結ばされるなど、このままの弱体幕府では日本が危ない。なんとかせねばと立ち上がる勤王の志士vs.そうはさせじと保守佐幕。日本人同士の内戦となり、幕府の弱体化そして列強の国内分断侵略か、という危機的状況に陥っていた。清国の轍(被占領)を踏まないでしかも水戸藩是たる尊王攘夷も外せない。ここで内戦が長引けばどうなるか。無駄な日本人の血を流させたくない。逡巡葛藤の末、名を捨て今後の日本という実を採った政権移譲、大政奉還という対外的国体国力温存優先という苦渋の選択をした国家の危機に際して、ある意味時代国家の救世主ともいえよう。

 

燕雀安知鴻鵠之志哉

 

論語、禅学、善道をここ弘道館・至善堂でご幼少のみぎりご修得なされた第15代徳川宗家将軍・徳川慶喜公がその善の道の恩恵を受けられたのが、大政奉還にあって犠牲的精神を有する千人以上の彰義隊という尊王恭順有志隊に護られながら母国水戸領まで無事落ち延びられ天寿を全うされた善というか仁徳というか人望のご威光は測り知れないものがある。

 

 

ついでに申しておこう。官軍に政都江戸を奪われた徳川家はどうなったか。

徳川家は駿河より興り、そしてまた駿河遠江に移封された。膨大な数の幕臣たちもまたとぼとぼ刀尽き矢折れたようにしな垂れ付き従って野に下った。

その幕臣たちの多くは麹町、番町、九段近辺に屋敷を構えていたため、その一帯は空き家だらけになった。今さら田舎侍官軍などに仕えられるか。武士の誇りが屋根瓦からも睨みを利かせる。

官軍もそんな埃だらけの古家に住めるか。じゃ、その辺一帯を更地にしてしまえ。ってんで、そこに官軍の戦死者を祀る神社を建立した。

それがくだんの、靖国神社であった。

以来犠牲となられた建国、忠国の志士たちの慰霊、御霊を奉るわが国固有の忠魂の拠り所となったのである。

 

 

さて、神社といえばここ弘道館の裏手に鹿島神社があります。

 

 

鹿島神社。武甕槌神(たけみかづちのかみ)が祀られています。

 

 

八卦堂。これも神儒一致で徳川斉昭の建立

 

 

孔子廟。たいていの藩校(昌平黌然り)に行けば儒学の祖・孔子廟は並立されています。

 

 

要石。烈公自筆。 意思あるところに道あり。

                  (Where there is a will, there is a way.)

 

さて、字数制限になってしまったのでこの続きはまた。次は偕楽園を予定しています。

 

 

 

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