Science has been through the centuries the scourge of all creeds which embodied an act of faith and was supposed ---- and is commonly still supposed ---- to be built, in contrast to these creeds, on foundation of hard facts, and on facts alone.

この英文はこちらから拾ったもの

The Logic of Liberty: Reflections and Rejoinders/Michael Polanyi
¥1,058
Amazon.co.jp

結構前に読んだ箇所の英文なのだが
そもそもヒュームを調べるきっかけとなった問題を
改めて確認するために読み返したら
以前読んだときとはかなり印象が違っていたため
差し当たり飽くまで英文解釈と翻訳の問題として
この英文を扱ってみる

とりあえずあちこちに関係詞や接続詞があるので
そこで分割して、便宜のために名前を付ける

A: Science has been through the centuries the scourge of all creeds
B: which embodied an act of faith
C: and was supposed ---- and is commonly still supposed ---- to be built, in contrast to these creeds, on foundation of hard facts,
D: and on facts alone.

A の文は、文法的にはどうってことはないのだが
語法が厄介だ
through the centuries は副詞句なのでいったん無視
of all creeds は形容詞句なのでいったん無視
すると、骨子はこうなる

Science has been the scourge

scourge って単語、オイラはこの英文で初めて見たと思う
辞書によると元々は鞭打ちの刑に使われた鞭のことだったみたい
それが拡大解釈されて、むしろ今日一般的には
災難の意味で使われることが多いようだ
ただ、まれに、なのかな? 天罰とか祟り、なんて意味もあるようだ

ともかく、すると、骨子は「科学はずっと災難/祟りだった」
現在完了の継続用法って奴だな
すると through the centuries はその継続の期間だな
「数世紀に亙って」ってことだ

で、問題なのは scourge の語法なのだ
ロングマンには語義、コロケーション、例文に
こんなのがある

 something that causes a lot of harm or suffering
scourge of  
the scourge of unemployment
 
the scourge of war

日本語の語彙でしっくりくるものを探すと色々あるんだろうが
語義としては「多くの害や苦難の原因となるもの」
で、例文を見ると
of 以下が具体的な害や苦難のようだ
失業だとか戦争だとかね

すると、the scourge of all creeds だと
all creeds が害や苦難で、なにかその原因を問題にしている??
じゃあ、その原因が科学だってぇの??

ところが、この文が出て来る手前でなされた議論が
それこそかつての教会の権威に対する反抗として科学は位置づけられる
なんて話がなされてたんだよね
なので、辞書には反するんだろうけど
the scourge of all creeds は「all creeds に対する罰」
とでも解釈しないと意味が通らない気がするのだ
そういう用例はないか? と色々調べたのだが
goo 辞書の中身であるプログレッシヴだと

the scourge of war
戦争という悪

と言うのがあるので、ここでの of は同格、だな

Excite 辞書の中身である研究社の辞書だと
プログレッシヴと同様の例文の他に示しているのはこれ

the scourge of God 神の罰, 天罰.

これだと scourge を下す主体を of で示していることになる
オイラが上で示した解釈を当てはめるなら
むしろ「神に対する罰」なんだが、うーむむむ
やはりそういう用例はないのか??

というわけで、辞書による裏付けがないので怪しいものの
ここでは敢えて、オイラは次のように解釈しておく

A: 科学によって、数世紀に亙ってすべての信条が罰せられてきた

直訳すると「科学は数世紀に亙ってすべての信条に対する罰だった」
となるが、無生物主語であることを配慮した上で、上のようにしてみた


続いてB

B: which embodied an act of faith

関係代名詞 which の中身(先行詞)は all creeds なので

all creeds embodied an act of faith

これも無生物主語だが、オイラの感覚だと
むしろこの文は無生物主語のまま訳した方が分かりやすい気がする

「信条は全て、信念の行為を具体化したものだ」

日本語としては all creeds よりは each creed を訳した方が
自然な日本語になる気もするので、そうしちまうか?

「信条はどれも、信念の行為を具体化したものだ」

あと、faith は信念よりは「信仰」なんだろうけどなぁ
いずれにしても、「信念/信仰の行為」ってのも変な日本語
むしろぼかして

「信条はどれも、信じるという行為を具体化したものだ」

なんてのはどうだ?? って、そうか

「信条とは、信じるという行為を具体化したものだ」

で充分だな

【後日追記】
やはり無生物主語に配慮するなら

「信条には、信じるという行為が具体化されているのだ」

とも言い換えることができそうなのだが
どっちが分かりやすいかね??
【追記終了】


続いてC

C: and was supposed ---- and is commonly still supposed ---- to be built, in contrast to these creeds, on foundation of hard facts,

こいつはちょっと厄介

冒頭が等位接続詞の and で、続く動詞が was と過去形だから
省略された主語は 単数だし
and が「等位」接続詞だけに、was と接続されている動詞は
当然過去形だとより「等位」に適う
となると、B にあった embodied は有力候補で
だったら主語は which
ところがその先行詞は all creeds と複数形だし
そもそも C には in contrast to these creeds とあるので
およそ creed とは対照的なものが主語でなければ不合理

というわけで A まで遡って主語は Science としたいのだが
A の動詞は現在完了なのだな。。。

かと言って他に主語にふさわしい語句も見つからないので
文法的には根拠薄弱だが敢えて Science で解釈を進める
まぁ、数は単数で合致しているのであり得なくはないし、いっかぁ?

Science was supposed ---- and is commonly still supposed ----

「科学は……だと考えられた──一般には未だに考えられている」

to be built, in contrast to these creeds, on foundation of hard facts,

「こういった信条とは対照的に、厳然たる事実という土台の上に築かれる」


続いて D

and on facts alone.

やはり等位接続詞が登場し、続く on facts alone は前置詞句
となると、C にある on foundation of hard facts とつないでいる?

ただ、それだったら C にある hard facts とつなぐために
むしろ of facts alone とすることで

on foundation of hard facts, and of facts alone

とした方が自然な言い回しに思える
ちょいとまどろっこしいがある種の強調表現として

「厳然たる事実、ただ事実のみの土台の上に」

って感じ?
いや、いっそ最初から

on foundation of hard facts alone

「厳然たる事実だけでできた土台の上に」

の方がすっきりして良さげだが……

ただ、実際には原文では and on facts alone となっているので
直近ではやはり foundation と facts がつなげられている見かけ
これだと「土台と事実の上に」となってしまうが
C の on foundation of hard facts から察するに
むしろ foundation が facts からなる、というか
foundation の中身が facts なわけだから、変だよなぁ。。。

内容に照らすと、信じるという行為を具体化した信条と違って
科学は信じるとかそういうことが入り込む余地のない
厳然たる事実に基づいているってことを言いたいだけだろうから
文法的な根拠は更に薄弱になるのだが(っていうかむしろこじつけ)
of facts alone は C の to be につなげて

science was supposed ---- and is commonly still supposed ---- to be on facts alone

と考えて
「科学はただ事実のみに関するものと考えられた──一般的には依然そう考えられている」
と解釈したい

日本語を整理すれば

「科学とは事実だけを扱うものと考えられた──一般的には依然そう考えられている」

ってところかな?


というわけで、今回は語法の上でも文法の上でも
オイラ自身まともに説明できない読解をしているので
端的に誤訳でしかないかもしれないのだが
一応オイラの訳をまとめておく

科学によって数世紀に亙り、あらゆる信条[all creeds]が罰せられてきた。信条とは、信じるという行為[an act of faith]を具体化したものだ。科学はこうした信条とは対照的に、厳然たる事実[hard facts]という基盤の上に築かれる。そして、科学とはただ事実のみを扱う。このように思われていた──一般には、依然そう思われている。


さて、仮にこの解釈でよいとしても
科学によって信条が罰せられるってのはどーゆーこと??
と思う方もいらっしゃるだろうけど……



というわけで、英語を離れて中身の話、以下蛇足

啓蒙思想を踏まえて考えればそんなに不自然じゃない
と、オイラは思う

イギリス経験論はちょいと違う面があるものの
大陸合理論はかなり明白に反宗教の傾向が強いので
「散々神だ何だといってきたのに中身は事実に反するではないか」
という形で、科学で宗教を断罪するような雰囲気が
確かにあったからね

【後日追記】
デカルト自身は神の存在証明もしたけど
考えることが存在意義である自分の考える能力を
司る理性に照らして、疑わしければ偽と見なすという発想からは
当然死後3日で復活する神の子だのという話は疑わしい→偽
という判定が出てくるはずだからね
大陸合理論から反宗教が導かれるのは実に分かりやすい
【追記終了】

というわけで、この文を含むパラグラフ全体の訳を示してみる

 科学の成果[findings of science]を受け入れる人であれば、これ[this]を〔成果を見出した科学者の〕信じるという個人的な行為[a personal act of faith]と見なすことは、そうそうない。〔むしろ〕証拠におとなしく従っていると考える。 証拠の本性ゆえに、人は思わず〔証拠を〕承認する。証拠には力があり、その力によって、合理的な人間であれば誰であっても、同じように思わず〔証拠を〕承 認する。というのも、現代科学とはあらゆる権威に対する反乱の帰結なのだから。デカルトは、普遍的懐疑[universal doubt]:de omnibus dubitandum〔一切を疑うべし〕のプログラムによって、この道を先導した。王立協会 [The Royal Society]設立のモットーは、Nullius in verba:一切権威を認めない[We accept no authority]だった。ベーコン はこう主張した。科学とは純粋に経験による方法に基づくものであり、Hypotheses non fingo :推理無用![No speculations!] ニュートン も これに賛意を示している[echoed Newton]。科学によって数世紀に亙り、あらゆる信条[all creeds]が罰せられてきた。信条とは、信じるという行為[an act of faith]を具体化したものだ。科学はこうした信条とは対照的に、厳然たる事実[hard facts]という基盤の上に築かれる。そして、科学とはただ事実のみを扱う。このように思われていた──一般には、依然そう思われている。

【後日追記】
冒頭付近の this が指す中身は
findings of science としか思えないんだけど
数が一致しないんだよね……
【追記終了】


ポランニー自身は信じるという行為が
科学でも重要だという話をしたい訳ですが
その前に、一般に科学がどういうものとして理解されているか?
これを説明するために、啓蒙思想を通じて
信条がそもそも経験による裏付けのない思い込みであり
「そんなの迷信だ」と「罰せられてきた」って話を
ここではまずしている、とオイラは読む
ちなみに、この様な考え方は実証主義に結実するわけです

さらに蛇足
一頃オイラはデカルトを調べていたんですが
それはここに出て来る「普遍的懐疑」ってなんだ??
と思ったからです

恐らく通俗的には、デカルトといえばコギト
つまり、「我思う、故に我あり」なわけですが
ここに至るために何でもかんでも疑って掛かって
絶対確実と言えないなら偽と見なすってことをした
この懐疑は、俗に「方法的懐疑」と言われてるわけですが
「普遍的懐疑」って、これとは違うの??
という訳で、色々調べたわけです

結論から言うと、どうも中身は同じらしい
って言うか、どうも「方法的懐疑」も「普遍的懐疑」も
デカルト自身が著作の中では使ったタームではないようで
後の研究者がデカルトを特徴づけて
そういう用語を作ったっぽいんですよね

「方法的懐疑」については
デカルトの著書『方法序説』で説明されている懐疑を
呼ぶもので、それこそコギトに至るための方法として
採用された懐疑、ということのようです
(よくよく考えれば「方法的」って日本語は意味不明
中身からすると絶対確実なものを見出すための
「方法としての懐疑」ってことだな)

で、その方法的懐疑で何をやったのかというと
結局何でもかんでも例外なく普遍的に疑ったので
これを「普遍的懐疑」と言うようなんですね

オイラ自身は「普遍的懐疑」って言葉を
日本語で書かれたこの本で見つけた

デカルト入門 (ちくま新書)/小林 道夫
¥735
Amazon.co.jp

上に述べたことも、小林の説明を読んだ上で
オイラなりにまとめたものでげす

ただ、小林は「普遍的懐疑」について
研究者たちが慣習的に用いているタームなのか
デカルト自身が使ったタームなのか
などといったことを説明していないんだよね
なので、これを英語にして universal doubt といったところで
英語圏のデカルト研究で一般的に使われるタームなのかどうか
実は甚だ疑問だったりもするわけですが
少なくともポランニーによる言及に照らす限りでは
「普遍的懐疑[universal doubt]:de omnibus dubitandum〔一切を疑うべし〕」
と述べていることからして
小林が言う「普遍的懐疑」と中身は一緒と見なして良さげなので
一応これで解決、ってことで

次に、王立協会のモットーについて
ウィキペディアの説明 にこうあります

【引用開始】
古代ローマの詩人であるホラティウスからの引用で、原文は"Nullius addictus judicare in verba magistri"(「権威者の伝聞に基づいて(法廷で)証言しない」)つまり(聖書、教会、古典などの)権威に頼らず証拠(実験・観測)を以って事実を確定していくという近代自然科学の客観性を強調するものである。
【引用終了】

ポランニーは別な論文で
中欧のナチス、東欧の社会主義では
自由の矛盾が引き起こされたのに対して
英米ではそういう問題が起きなかったのは
信教の自由を認めていたからだ
なんて話もしてるんですが
少なくともイギリスの「科学に」限ってみれば
反宗教の態度は貫かれていることになりそうです
というのも、イギリスにおける信教の自由は
むしろ当時キリスト教同士で政治を巻き込んで争いつつ

・アングリカン: 国教会、王室推奨
・カトリック: 敵国フランスと繋がるので断固拒否
・ブロテスタント: オランダ経由、勤勉で国益に繋がる
・クウェーカー: カルトめいていかがわしい

と、大体こんな感じの評価が次第に固まったことから
ロック辺りから(ロック以外にも色んな人が論じて)

・カトリックは断固排斥
・プロテスタントは容認するか、懐柔するか
・クウェーカーはいかがわしいので、だましだまし懐柔

という形で「寛容論」が論じられただけのことで
決して今日的な意味での「信教の自由」ではないんだな

ただ、そういった議論があったからこそ
アメリカの独立宣言だの憲法では
今日的な「信教の自由」という制度にもなったし
動機はどうあれイギリスでは
それこそ国益に反する勢力は排斥されるにしても
そうでもなければ弾圧はされなくなってきたので
英米どちらにしても、結果的に宗教が「許された」とは言える

大陸では反宗教だったのに対して
英米では結果的にであれ、宗教は容認された

この違いが、自由を破壊するかどうかに
あるいは自由が自己矛盾を起こすかどうかに関わる
なかなか重要な要素だったのだ
──という議論をポランニーはするのだが……

そういう話の流れに照らして
今回問題にした英文の解釈は
語法、文法の根拠がかなり危ういにしても
筋なら通りそうです



おおっと、忘れてた
なぜこの英文を読んだのか?
ヒュームを調べるきっかけと関わりがある
今回取り上げた文の後に続くパラグラフに
ヒュームへの言及が見られるので
その前提を確認していたのだった
……そちらは、またの機会に


で、やはり蛇足

ポランニーはクリスチャンだったようだし
信念を非常に重視したものの
だからと言ってポランニーの議論をキリスト教に結びつけ
キリスト教信仰を擁護したものとして読む必要は
全くないとオイラは考えています
むしろ、「個人的知識」や「暗黙知」というタームからも伺えるように
ポランニーが言う信念というのは
ぶっちゃけて言えば「勘」だと言って差し支えないと思います
(いや、ホントはまずいんだがイメージとしては分かりやすいハズ)
それを、「根拠薄弱だ」とか「そんな事実はない」とか言ったところで
逆に一切信念を抱かずに(何も信じずに)
何かを知ったり認識したりってできるのか? できないだろっ
という話「でしかない」とオイラは考えています
ただ、この余りに当たり前過ぎる話が軽視されすぎることで
それこそ客観性の理想だとか、ムチャな話が出て来る

それこそポランニー自身述べているのですが
懐疑だって信念なわけです
例えば

「神の存在を疑う」

ということは、

「神が存在しないと信じる」

ことに他ならない
疑うにも信じなきゃ疑うことすらできないわけです

それを、個人の判断一切なしに
客観的に事実のみに依拠する実証主義
なんてことをいうのは馬鹿げている
一定の作業を機械的にす済めれば真理に至る
って、んなことあるか
むしろ、勘だろうが何だろうが一定の信念に基づくことで
科学も成立するし、他方勘が外れれば
アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったように
間違うときは間違うけれど
それが発見の本性なんだ、という話ですね

これ、ポランニーが史実としてクリスチャンだったかどうか?
んなこととは独立した議論なわけですが
妙にくっつけたがる人が(特に海外に)多い気がする
この辺に歯止めをかけるにも
ヒュームの捉え返しって有効な気がするんだよね

まぁいいや