徒手空拳で猪突猛進

雑談一般、身の程知らずに考えたことを好き勝手に書いてます。

過去にアップ済みの翻訳コンテンツは、このブログで今後とも閲覧できます。
NEW !
テーマ:

自由論 (光文社古典新訳文庫)/ミル
¥540
Amazon.co.jp


面白いけど
やっぱりノートは作りづらいねぇ

論理のつながりというのかなぁ?
とにかく連続してるんですよ
なので、区切りがつけづらい
時間などの都合で読書を中断して
続きから読み始めると「??」となって
結構手前から読み直さないといけない
なので、適切な範囲を抜き書きして
ノートを作ろうと思っても
下手すると全部抜き書きしたくなる(笑)


ともかく、なので、漏れがあるかも知れないが
オイラが理解した限りで序章の筋だけおさらいしておく

・権力者と国民(一般大衆)は歴史上ずっと対立してきた
・権力者は統治するため大衆をコントールするし、大衆は権力者の圧政から逃れて自由になりたがる
・なので、大衆から権力者を選ぶ民主制ならこのような対立はなくなると思う人がいるかも知れない
・ところが、実際には「多数者の専制」という問題が起こる
・それも、純粋に政治に限った話ではなく、道徳・慣習にもその影響は及ぶ
・かといって、この問題の解決は難しい
・というのも、道徳・慣習は、好き/嫌いの感情に根ざすからだ
・何かが好ましいか/忌まわしいか、という感情に基づく判断を等しくする多数派によって、道徳・慣習が定められる
・このような派閥形成には宗教が絡む
・宗教は、自分の宗派こそ正しいと主張し、他の宗派・宗教を迫害する傾向にある
・よって、少少数派は多数派にとって代わろうとするが、失敗すると、容認してもらおうとする
・ここから、良心や宗教の自由が結果として成立したが、結局は少数派の妥協の産物でしかなく、本音はやはり下克上を狙っている
・このため、多数派の専制はやはりそうそうなくならない
・ならば、結果としてたまたま成立した「自由」の考え方を一般化・定式化して、多数派の専制を防ぐ原理とすべきだろう

このあと、第一章も読んだのだが
面白かったという感想は覚えているが
中身をまるで覚えていないんだよな(^_^;)

やっぱり頭が悪くなってるなぁ
備忘録としてもノートを取りたいんだが
ミル、かなりノートを取りづらいんだよな。。。
最近の画像つき記事 画像一覧へ ]

テーマ:
どうもやはり最近頭が悪くなっているようだ
サプリのDHAも最近効かないようだし

なので、これまで以上にしつこく読書ノートを書かないと
読んだ本の筋を追えなくなりかねない

そういう恐れもあって近年はGoogleドキュメントに
読書ノートを記録していたのだが
読んでいる最中はリズムを崩したくないので
読んだ本の気になる所に付箋をつけておき
後からノートを書こうと思っていると
結局ノートを作るのが面倒に思えたり
付箋を付けた箇所を後から読み返しても
自分が気をつけるべきと思った所がどこなのかを
読み返しても気づけなかったり
なんてことが起こっている
下手したら認知症の初期症状だったりして??

んなことはともかく

そんなわけで、ミル『自由論』については
そういったことを防ぐために
付箋を付けた箇所が貯まらないうちに
早めにノートを書くことにした

もともとブログは何でもありで
その都度気になったことなんかを
ジャンル関係無しに書いてきた
一時期はネタのジャンルごとにブログを書き分けようともしたが
整理整頓が苦手なオイラらしく
結局は他のブログはいつの間にか手付かずになっている

そんなわけで、ジャンル無関係に
このブログに読書ノートを書くことにする

ノートの対象となるミル『自由論』はこちら

自由論 (光文社古典新訳文庫)/ミル
¥540
Amazon.co.jp


p.16
権力を行使する「国民」は、権力を行使される国民と同じだとは限らない。「国民の自治」とされているものは、各人が自分を支配することではなく、各人が自分以外のすべての人に支配されることを意味するのである。それだけでなく、国民の意思とは現実には、国民のうち人数がもっとも多い部分の意思、またはもっとも活動的な部分の意思、つまり多数派か、みずからを多数派だと認めさせることに成功した人たちの意思である。

オイラが卒業した高校はすこぶる居心地が悪かった
「生徒会」ではなく「自治会」と名乗ることを
伝統だかなんだか知らないが、教師に強制された組織があったが
そんな自治意識の高い生徒がいる筈もなく
どういう基準で選ばれたのかは知らないが
教師の覚えめでたい生徒が数名いつの間にか選出されて
自治会の執行部に就任していたので
結局教師の傀儡だったわけだが
それを「自治会」と称していたのだから厚かましい

もちろん、オイラに対して
「そんな文句を言うくらいだったら
立候補でも何でもすればよかったではないか」
との批判もあるだろうが
これが一高校の自治会のレベルを超えて自治体や国政の選挙になれば
そのまま投票率の低さに反映されていることを思い出して欲しい

部活や学業で忙しかったり
成績が悪くてひがんで周囲に気を配れない奴が
自治会の仕事までヤル気にはとてもなれないものだ
ほとんどの連中はこういう形で自分のことで手一杯なのだ
文化祭などでハメを外して遊ぶことは楽しくても
教師に喜ばれるような上品な出し物を企画し
全体を仕切るような面倒な仕事を
自主的にやりたいやつなどいないのだ

同じように、自治体や国の政治についても
原発事故被災地の復興や社会保障などなど
さまざまな問題があって文句のひとつも言いたい国民は
無数にいると言って良い
他方で、ではどうすれば良いのか?
対案があるから「俺に任せろ」と言えるやつなどいやしない
国会ですらそうだ
議論はなされても何も決まらない、なんて批判が最近挙がるのは
結局国会議員も「怠けているわけではない」という
アリバイ工作として議論はしても
下手な決定を下して責任を負わされたくないのだ

そういう意味では、国政も高校の自治会も同じだ
ホントの多数派は面倒なことをしたくない
それでも、なにかせざるを得ないのだとすれば
それは、集団として規模がでかくなりすぎているってことだ
高校ですらこの有様だ
自治体や国がどれだけ身動きが取れないのかは
嫌でも分かる
ところが、現実に高校や国は既に存在している
さまざまな制度が既に動いている
シムシティのようなゲームならリセットできようが
現実にはそんなマネはできない

そういう現実の前に無力感を味わいつつ
せめて自分の周囲の生活が円滑に進めば
他はどうなっていても構わない、というのが
圧倒的多数の本音に違いないのだ

そんな中、だからこそ高校では実は教師が全て牛耳っている
みんなそうと分かっていても、生徒から選ばれたとされる代表が
仕切っていることにしていく
みんながみんな分かっていて率先して騙されるのだ

それでも高校ならまだいい
3年で卒業できるのだから
むしろ面倒事を教師がわざわざ処理するなら
その方が面倒がなくて良いとすら思うだろう

国や自治体はどうだ? そうはいかない
外国に移住するならともかく
死ぬまで日本から「卒業」できないのだから

教師に代わって仕切るのは当然官僚だ
その官僚が天下りだの渡りだので荒稼ぎする
当然批判が出るし、政治を国民の手に取り戻すとか
国民に選ばれた政治家が主導するとかいった
民主党にしたって
長年行政を専門にしていた官僚にそうそう太刀打ちできるはずもない

そういう意味では、いつの間にか慣行を成り立たせて
「保守」と称される世論まで形成しているのは官僚だと言っていい
多くの国民は「なんでこんなことを」と思いながら
面倒な年末調整や確定申告の手続きをしているが
だからといって対案などあるはずがない
文句をブツブツ言いながらも官僚によっていつの間にか定着した慣行に
唯々諾々と従っている
下手にそのような慣行を変えるようなことを言い出せば
改革といえば聞こえは良いかもしれないが
逆に言えば長年回ってきたシステムを壊すことになる
当然、下手なことはしないほうがマシだと思う
そうやって、結局は官僚による行政を我々が支えてきてしまったわけだ

そういう意味では
「国民の意思とは」「みずからを多数派だと認めさせることに成功した人たちの意思」
結局は官僚の意思であって
それなりに問題点はあっても一応は機能しているシステムを
下手にいじったらどうなるか分からないことから
国民も官僚に従うことになるのだから
官僚に従うその他大勢の国民が、国民を相互に支配していることになる
余計なことはするなよ、という形で
つまり、「各人が自分以外のすべての人に支配される」わけだ

なぜこうなるのか?
小中学校の頃を思い出してみれはいい
顧問だかなんだかの教師が結局は全部牛耳るので
児童生徒は言うことを聞いていれば済んだのだ
自分の頭で考え、自分の身の振り方を考えたりはしないのだ
しかも、6年なり3年なりでおさらばする集団について
そんなに真面目に考える必要すら覚えない
そういう習慣になっているのだ

町内会なんぞがそこそこ機能している場合にしても
どういう経緯でその代表が選ばれたのかについて
堂々と公表できるところは恐らくないだろう
金持ちだったり代議士を排出していたりする家に
何かそういう力があるし、張り切ってるようだから
やらせておいたら、ホントに好き勝手されてしまって
今さらどうにもできないとか
そういうことじゃないのだろうか??

高校の自治体や生徒会は、実は少数の教師が牛耳る
町内会は少数の有力者が牛耳る
自治体や国も、選挙で選ばれた代表といったところで
実は官僚が牛耳る
これまで問題を孕みつつも、それなりに機能してきたものを
なまじ変えるとどうなるか? なんて不安を煽ることで
自分たちの考えこそ多数派だと思い込ませるわけだ
あるいは、無党派層が文字通り動かないので
張り切っている連中の意見が「総意」とされてしまうのだ

p.16-17
このため、国民のうちある部分を抑圧するよう望む場合があり、この点に対しても、権力の乱用の一種として十分な予防策を講じる必要がある。したがって、個人に対する政府の権力を制限する必要は、権力を握る支配者が社会に対して(実際には社会の中で最強の政党に対して)、つねに説明責任を負っている場合でも、重要性が低くなるわけではまったくない。この見方は思想家の知性にも、ヨーロッパ社会の主要な階級のうち民主主義とは利害が実際に対立するか、対立すると考えている階級の人たちの好みに訴えるものだったので、簡単に社会に受け入れられた。こうして、いまでは政治について考えるとき、社会が警戒すべき悪のひとつとして「多数派の専制」が挙げせれるのが通常になっている。

「国民の意思とは」「みずからを多数派だと認めさせることに成功した人たちの意思」
だと思い込ませることに成功した人たちは
「国民のうちある部分を抑圧するよう望む」

そりゃそうだ、そもそも自分の意思が多数派だと
どうして国民に思わさたかったのかというと
自分の利害を優先して都合の良いことを押し付けたいからに決まっている
こういうことが起こるので
実は一握りの人間が、多数派だと思わせるようなことは、本来なら
「権力の乱用の一種として十分な予防策を講じる必要がある」

日本ではこのの対策がなされなかったので
長年自民党一党独裁が続いたし
独裁が破れても、長年連立政権の一翼だった
しかし、だからといって政権交代がなされても
マニフェストがどれだけ画期的だったとしても
実際になされる政策は自公連立時代よりも
いっそう従来の自民党的な内容になったことを考えると
日本においては政権はどこが取っても同じ
結局動かすのは官僚だと言うことが嫌でも分かる

官僚は選挙で選ばれた存在ではないから
大臣が何を言ったところでほとんど困らない
官僚が政治家を動かし、国を動かすことは「権力の乱用の一種」なのだから
「十分な予防策を講じる必要がある」にもかかわらず
全く対策が講じられていないのだ

国民が選挙によって支持した与党は
国民自らが選んだ多数派なのだから
文字通り自治であって、権力乱用なんて問題はない
なんて考えるのは、こうした事情で甘い

「個人に対する政府の権力を制限する必要は、権力を握る支配者が社会に対して(実際には社会の中で最強の政党に対して)、つねに説明責任を負っている場合でも、重要性が低くなるわけではまったくない。」

ミルの時代に既に認識されていたこの問題が
日本では未だ解決していないことになる

「この見方は思想家の知性にも、ヨーロッパ社会の主要な階級のうち民主主義とは利害が実際に対立するか、対立すると考えている階級の人たちの好みに訴えるものだったので、簡単に社会に受け入れられた。」

つまり、長谷川三千子や中川八洋のような
民主主義って実は怪しいのではないか、とか
その背景にルソーがいて、その直系である社会主義が
どうなったか考えてみろ、などと主張する
自称保守の連中によってこそ
このような問題点は強調されていたのだ


民主主義とは何なのか (文春新書)/長谷川 三千子
¥735
Amazon.co.jp

正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒/中川 八洋
¥1,995
Amazon.co.jp


この問題点をミルは「多数派の専制」と命名する
それも「社会が警戒すべき悪のひとつとして」

このような考え方には、そもそも
一般大衆に対して「権力」とは恐ろしいものだ
という考えが前提にある
その権力として、絶対王政のような分かりやすいものだけではなく
民主政体においても「多数派の専制」が存在する
というわけだ

p.17
いまでも一般にはそうだ。だが、思慮深い人たちの見方は違う。社会そのものが専制的になり、社会がその一員である個人を抑圧する際には、抑圧の手段は国家権力を担う官吏の行動だけに限られているわけではない。社会はみずからの決定を実行できるし、実際に実行している。その決定が正しくなく、間違っているか、社会がそもそも干渉すべきではない事項に関する決定である場合には、社会による抑圧は通常、政治権力による抑圧よりはるかに恐ろしいものになる。

つまり、日本で言えば官僚だけが
「多数者の専制」を行っているわけではない、というわけだ
むしろ、「社会がそもそも干渉すべきではない事項」
それこそ、官僚が手出しをしない様な事柄でさえ
「多数者の専制」がなされている、というのだ
この場合、「社会による抑圧は通常、政治権力による抑圧よりはるかに恐ろしいものになる」
というのだ
どうなるのだろうか?

p.17
政治的な抑圧ほど厳しい刑罰を使うわけではないが、はるかに深く生活の細部にまで目を光らせ、人の心まで支配するので、抑圧から逃れる余地がはるかに小さくなるからである。

要は、イジメだ
昔はガキ大将が暴力でクラスを支配していたのだろうが
今では、よく分からない空気によって支配される
なんとなく異質・変わり者に思える者がいれば
吊るし上げる
吊し上げに加担しない者は、異質・変わり者の同類とされ
同じように吊るし上げられる
吊るし上げられたくなければイジメに加担せざるを得ない
裏で「ホントは苛めたくない」だとか言っていることが発覚すると
やはり同じように吊るし上げられる
逆に言えば、そのような瑣末なところまで監視するスパイが
「はるかに深く生活の細部にまで目を光らせ」ているのだ

バブル期のサラリーマンも似たような状況だったに違いない
接待ゴルフは業務でも仕事でもないが
参加しなければ出世コースから外れる、とかね
今でもパワハラなどの形で似たような問題は残っているだろう

主婦の生活についても
公園デビューの流儀であるとか
買い物の仕方やゴミの出し方などでイジメが発生するだろう

身の回りの小さな集団における多数派には
なかなか逆らえないのだ

学校のイジメについては教師という権力に訴える
なんてことも原理的には可能だろうが
教師がボディガードよろしく張り付くわけでもないし
当然「先公にチクリやがったな!?」と
火に油を注ぐだけとなるだろう

職場や地域社会では、もはや逃れようがなかろう

p.17-18
このため、当局の抑圧に対して予防策を講じるだけでは不十分であり、多数派の意見と感情による抑圧に対しても予防策を講じる必要がある。多数派の思想と慣習を社会の行動の規則とし、刑罰以外の方法を使って反対派に強制しようとする動きに対して、さらには、多数派の習慣と調和しない個性の発展を妨げ、可能であればそうした個性の形成すら妨げ、ひとつの模範にしたがって性格を形成するよう社会の全員に強制しようとする動きに対しても、予防策を講じる必要がある。

子供にとっては、このような多数派の専制の手先は親だ
勉強が嫌いでも「今時大学くらい出ていないと」などと言って
進学を強要する
そう言われても授業が嫌だからサボったりすると
親がどれだけ苦労して学費を稼いでいるかについて
恩着せがましい説教をたれたりするわけだ

だが、その親たちも子供だった頃
同じように親から強制を受けてきた
その経験があれば、自分の子供に同じ苦しみを与えるなどという
非人道的なことがなぜできるのか、理解に苦しむが
まぁ、「親とはそういうものであり、親になった以上そうしないと
責任を果たしたことにはならない」とでも思い込んでいるのだろう

その結果、国家全体から見たら
実際には求人があるとしても、応募がなくて
失業者があふれる、なんてことにもなる
つまり、みんながみんな子供時代に勉強で苦労すると
大人になってから肉体労働などやってられるか
と、妙にプライドが高くなったりするわけだ

もちろん、だからといって「勉強するな」とは
やっぱり言えない
体は弱くても頭がいい、などといった個性だって
当然存在するのだから

二宮金次郎の像を撤去する動きはむしろ
「ひとつの模範にしたがって性格を形成するよう社会の全員に強制しようとする動きに対」する
予防として有効ではなかろうか?

まぁ、残そうと言っている連中にしたって
二宮金次郎の像によってどのようなメッセージを伝えようとしているのかを
実は丸で分かっていないようなのだから
結果的にはどうでもいいことになるのだが

テーマ:
ケーブルテレビで『嵐が丘』を見た

嵐が丘 [DVD]/ジュリエット・ビノシュ,レイフ・ファインズ,ジャネット・マクティア
¥1,575
Amazon.co.jp

公開当初劇場でも見た映画で
同じ日に映画館をはしごして
クリント・イーストウッドが出た
『シークレット・サービス』も見たのだが
一緒だった友人は『シークレット・サービス』を
オイラは『嵐が丘』をそれぞれ支持した

しかし、やっぱりブルーレイというか
HD画質の影響もあるのだろうか?
公開当初『嵐が丘』を見たときは
荒地や空など、自然の映像に圧倒的な迫力があり
ヒースクリフやキャサリンの気性との関わりもあり
どこまでも映像が美しく
坂本の音楽も相まって
ストーリー、演技、映像、音楽が
渾然とした、正しく映画、と思えたものだが
今回見返して、やはり映像が古い上に
あれだけのストーリーを2時間弱に収めた無理というか
そういった粗が目立ってしまった

それでも、時代に伴う技術の進歩もあって
今から見れば見劣りするというだけの話で
おいらはやはりこの映画が好きだ

はっきり言って、登場人物がそれぞれ強情で
ツンデレのデレをお互い欲しているのに
ツンしかできないというか、ある意味
どうしてここまで不器用なのか? という気もするものの
当時の貴族社会を背景に考えれば
先日読み終えた『赤と黒』の理解も相まって

赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1)/スタンダール
¥800
Amazon.co.jp
赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)/スタンダール
¥1,020
Amazon.co.jp


キャサリンの父親であるアーンショー氏が
そもそもヒースクリフをどうしてヒンドリーの弟にしようなどと
考えたのか? こちらの方が不思議だ
そういう時代に逆行したアーンショー氏が死んだ後
ヒンドリーがヒースクリフを召使とするのは当然だからね

ただ、貴族が没落することと
ブルジョアが台頭するといった
やはり当時の時代に見られたことが
姿を変えて登場していることを考えれば
設定自体は実はそんなに不自然ではないことになる
ヒースクリフがいかにして財をなしたのかは不明だし
当初はジプシーとされつつも出自については最後まで明かされない
そのような得体の知れないヒースクリフが
どうやってか大金を用意したからこそ
ヒンドリーから嵐が丘(屋敷)を引き取れたのだろうから

もっとも、エドガーが憶測するように
ヒースクリフが博打でだまし取ったのかもしれないが
ヒンドリーが妻を失って自暴自棄になった状態なら
日頃から博打をしていた可能性は高いし
そのヒンドリーとヒースクリフが賭けをした上で
ヒンドリーが負けて、払えないので屋敷を差し出したなら
ヒースクリフが博打で騙したというよりは
ヒンドリーが見境なかったと言わざるを得まい

そういう意味では
アーンショー氏の態度こそが謎だが
それ以外は没落貴族と台頭ブルジョワの対立を背景にした上で
貴族自体の意固地なまでの守旧ぶりと
この守旧故に愛情を捨てたキャサリンに対する
ヒースクリフの「可愛さ余って憎さ百倍」な復讐劇
として見ることができるし
そう見ると実に分かりやすいのだ

だからこそ、無理にこの設定を日本に移し変えたものは
随分昔に一度見たが、当時単純に
「これが『嵐が丘』かよ? まさかっ」と拒否反応が出たが
おそらく今見ても同じ感想しか抱けないだろうな

嵐が丘 デラックス版 [DVD]/松田優作,田中裕子,名高達郎
¥4,935
Amazon.co.jp


元の『嵐が丘』に戻るが
このヒースクリフを見て初めてレイフ・ファインズを知り
ファンになった
ただ、その後彼は作品に恵まれてない気がする
『嵐が丘』以外に彼が好演したとオイラに思える作品は
このニ作品だけだ

ストレンジ・デイズ [DVD]/レイフ・ファインズ,アンジェラ・バセット,ジュリエット・ルイス
¥5,565
Amazon.co.jp



レッド・ドラゴン [DVD]/アンソニー・ホプキンス,エドワード・ノートン,レイフ・ファインズ
¥1,565
Amazon.co.jp
レッド・ドラゴン 【Blu-ray ベスト・ライブラリー100】/アンソニー・ホプキンス,エドワード・ノートン,レイフ・ファインズ
¥1,980
Amazon.co.jp


いや、出演作自体はたんまりあるんだけどね
やはりオイラの好みが特異なんだろうか??

テーマ:
レトルトカレーを食べようと
箱に入ったパウチを取り出し
更にパウチのご飯とカレーを盛り
ラップ替わりになる蓋をかぶせ
レンジでチンしている間に
箱を解体していたところ
左手親指の爪の生え際を
箱で切った

鋭い紙で皮膚を切るならわかるが
そこそこ厚い箱の紙で切れるかなぁ?



テーマ:
現在こちらを読んでいる

自由論 (光文社古典新訳文庫)/ミル
¥540
Amazon.co.jp


恐らく、学術系翻訳にはありがちな
原文の一文は翻訳でも一文、なんて律儀な訳し方をしているようで
ところどころ非常に分かりづらいのだが
幸いグーテンベルクで原文を読める
基本的には読みやすい翻訳なので助かっている
イヤ、ひどいのになると何が書いてあるのか分からないからね
これは、ところどころ分かりづらいってだけだから
かなりマシな翻訳だと思います

ただ、元の段落を踏襲しているからなんだろうけど
段落が長くて、抜き書きしてメモを作ろうと思うと
抜き書きする範囲をどうするべきかで悩まされるね

ともかく

自由を巡る議論は元々宗教が発端だった!
という、政教分離に関わる話が早々に出てきた
かなり重要だと思えるので、長くなるが引用する

引用するにも、前後のつながりがあるから切りづらいのだが……
うーん、少し前提を要約してからにしよう

道徳というか、倫理というか
そういったものって結局のところ感情論になる
つまり、ある事柄が好ましいかどうかによって
そうすべきだ、とか、そうすべきじゃない、なんて話になる
タバコが好きな人は喫煙を許容すべきというし
嫌いな人は禁止すべき、というわけだから
好き/嫌いをめぐる感情によって道徳が定まる
そういったものの中で、一部は法律となって権力によって強制され
そうじゃないものも世論・習俗・慣習でそういう雰囲気になる
不倫しただけでは罰せられないが
バッシングを浴びる、とかね
そういう意味では、道徳は感情によって定められる
しかも、支持者の多寡がモロに影響する
多数派の感情によって道徳が定まり
道徳の一部が法律になる、というわけだ
不倫にしたって「別にいいじゃん」という人が多数になれば
不倫が道徳的に非難されることはなくなるだろうし

すると「俺はいいと思うことが周囲に反対される」
なんてことが出てくると、「実はいいもんだぜ」とか
周囲の共感を得ようとしたり、なんてことがなされるようになる
朝食にこってりしたものはどうも……という人が多い中
朝カレーとか朝ラーメンなんて習慣が提案されるのも
実はこういった道徳感情に関わってくる

朝に何食ったって自由だろ? とか思う人も多いだろうが
だったら逆に「朝からこってりしたものは……」と何故思った?
もちろん、そうは思っても、これが「道徳?」と疑問に思うかもしれない
こういうことになるから、多くの反対もあるなか
道徳は倫理と並べて扱われる
つまり、どれだけ些細なことであっても「……べし」と言われるものは
さしあたり倫理(当為)なのだ
「朝食にこってりしたものは食べるべきではない」という倫理に対抗して
朝カレーや朝ラーメンが登場したと捉えることは可能なのだ
道徳と倫理は違うという立場もあろうが
ここでは並べて(区別せずに)捉えておく

というわけで、これまではどういった事柄が
社会には好ましいのか、むしろ忌まわしいか、という形でなら
道徳の問題として色々議論されてきた
ところがそういったことを、個人に守らせるべきかどうかについては
問題にされてこなかった


p-22-23
自分が少数派になっている個々の点について、人類の感情を変えるために努力することを好み、さまざまな少数派と協力して自由の擁護という共通の目標を掲げようとはしてこなかった。その中で唯一、もっと高い立場から自由の原則が一貫して主張され、しかも何人かの孤立した個人によってではなく、幅広い層によって主張されてきたのは、宗教の自由だけである。


つまり、それこそ朝からこってりしたものを食べたっていいじゃないか
などなど

「自分が少数派になっている個々の点について、人類の感情を変えるために努力する」

ということなら、これまでも色々な事例があった
それこそ、個別な道徳問題なら色々ある
今でこそ24時間営業のコンビニやファミレスもあるが
古い人は今でも夜の外出を咎めたりするのは
その人にはそういう道徳・倫理があるからだ
しかし、性的嗜好の少数派、音楽志向の少数派、などなど

「さまざまな少数派と協力して自由の擁護という共通の目標を掲げようとはしてこなかった。」

つまり、具体的な事柄については自分の好みを訴え
悪いもんじゃない、むしろいいもんだ、と
「人類の感情を変え」ることならそれぞれバラバラになされても
様々な少数派が連携することで、より抽象的な形で
「何やったって自由じゃないか、何についてであっても好きにしていいだろ」
と、抽象的で共通する形で「自由」を求める運動というのは
実はなかった、というわけだ

ただ、唯一の例外がある
それが「宗教」だというわけだ
それも、「孤立した個人によってではなく、幅広い層によって主張されてきた」
と言うんだから凄い

オイラには、曽我と物部が仏教vs.神道で
宗教対立したと言われても全くピンとこないし
新宗教に限らず宗教は基本すべてカルトと思っているので
宗教が「何を信じたっていいじゃないか」という自由の問題となること自体
かなり奇妙に思えるのだが(こんなの容認するから
オカルトや霊感商法が後を絶たないんだ)
「クェーカーだっていいじゃないか」
「改革派だっていいじゃないか」
「イスラムだっていいじゃないか」
などといった個別具体的な話じゃなくて
「そもそも良心は自由で、何を信仰したっていいじゃないか」と
抽象的・一般的に宗教の自由が主張されたというんだから
西欧人には、やっぱり宗教って重要なんだね
オイラにはまるで実感が沸かないけれど

ともかく、続きを見てみよう

p.23
宗教の事例をみていくとさまざまな点で教訓が得られるが、中でも重要な点として、いわゆる道徳感情が誤りに陥りやすいことを見事に示す実例になっている。違った宗教に対して本物の狂信者がもつ憎悪は、道徳感情の特にはっきりした例だからである。普遍教会と自称したカトリック教会の束縛を打ち破った宗教改革家も当初、宗教的な意見の違いを許そうとしない点では一般に、カトリック教会とほとんど変わらないほどであった。

宗教の事例からミルは教訓を引き出そうとする
つまり、少数派が「いいじゃないか」と個別に言うのではなくて
もっと一般的に「なんだっていいじゃないか」と主張する上で
宗教をめぐる事例から教訓を引き出そうというわけだ

では、宗教では何があったか?
まず、カトリックが他の宗教を迫害・弾圧した
これに抗して、プロテスタントが
「カトリックは間違っている、自分たちこそが正しい」と
がっぷり四つで対抗して、下克上を狙った
カトリックに取って代わろうとしたのだ

「宗教的な意見の違いを許そうとしない点では一般に、カトリック教会とほとんど変わらないほど」

他の宗教を認めないどころか、むしろ排斥・迫害する点は
プロテスタントもカトリックと似たりよったりだったわけだ

p.23
だが、どの宗派もそれまでに確保した地盤を維持することしか望めない状況になると、少数派は多数派になるとは期待できなくなり、改宗させることができなかった多数派に対して、宗教上の違いを許容するよう求める必要に迫られた。

つまり、プロテスタントはカトリックとの下克上に失敗したため
やむなく「プロテスタントだっていいじゃないか」とトーンダウン
カトリックにプロテスタントを寛容・容認してもらおうという形で
戦術を転換したわけだ
つまり、「プロテスタントだっていいじゃないか」との主張は
到底カトリックには敵わないと負けを認めた結果なのだ
だが、そのまま力でカトリックにねじ伏せられて
プロテスタントが消えてなくなることは避けたい
そういう意味では、武士の切腹に通じる発想に照らせば
プロテスタントは実に潔くない、散り際が無様、ということになる
だがもちろん、凡人なら当然「命ばかりはお助けを」と言う
プロテスタントもそうだったというわけだ

p.23-24
このため、ほぼ唯一、宗教という戦場では、社会に対する個人の権利が原理原則という一般的な根拠に基づいて主張され、社会が少数派に力を行使することへの反対論が公然と主張されてきた。宗教の自由の確立に貢献してきた偉大な思想家のほとんどは、良心の自由を不可侵の権利のひとつとするよう主張し、人が自分の信仰について他人に説明し許可を得るという責任があるという考えを強く否定している。しかし、人間はほんとうに重要だと思う点については寛容になれないのが自然なので、宗教の自由が実際に確立している国はほとんどない。例外は、宗教に無関心な勢力が宗教対立によって平和が乱されるのを嫌い、宗教の自由を支持する側にまわって力関係が変わった場合だけである。

こうしてプロテスタントが認められると
他の宗派だって「だったらうちも認めろ」と言い出すに決まっている
そういうことが続けば、宗教一般何を信じたっていいじゃないか
という話になる
結果として、どの宗教を信じるか? と言う事柄が
「社会に対する個人の権利」という「原理原則」として扱われることになる
そのような「一般的な根拠に基づいて」どの宗教を信じるのも自由だ
と主張されるようになり、
「社会が少数派に力を行使することへの反対論が公然と主張され」るようになった

なので、宗教の選択は、もはや
そのような一般的原理原則の下位に位置づけられるのであって
各宗教が掲げる神が「我こそは造物主」と言おうがどうしようが
そのような一般的原則には敵わないってことだ
近代国家における宗教は、この一般的原則を定めた憲法や基本法のおかげで
かろうじて存在が許されているに過ぎないのだ
当然、総体革命を目指す創価学会はそれだけ厚かましいってことになる

アメリカの事例は、そのような原則のもとに、集まった市民が
たまたまみんなピューリタンだったので
結果的に政教一致になってしまったというだけの話で
神聖政体ではない、ということになる

というわけで、良心の自由が確立したのは
プロテスタントの下克上失敗による怪我の功名だったことになる
残念だったねぇ、神より「偉い」ものを生み出してしまったんだから

こうして、基本的人権を構成する良心の自由が成立したものの

「人間はほんとうに重要だと思う点については寛容になれないのが自然なので、宗教の自由が実際に確立している国はほとんどない。」

というんだから、繰り返しだが
西洋人には宗教ってそれほど重要なんだね
良心の自由といったところで
実際はその国における多数派を占める宗教が幅を効かせているわけだ
(オイラが強硬に反宗教を主張するのも
「ほんとうに重要だと思う点については寛容になれない」からだ)

「例外は、宗教に無関心な勢力が宗教対立によって平和が乱されるのを嫌い、宗教の自由を支持する側にまわって力関係が変わった場合だけである。」

つまり、宗教対立が平和を乱す原因だということを
ミルは明確に認識しているのだ
もちろん、相対立してお互いに相手を攻撃するんだろうが
「宗教に無関心な勢力」にとっては当然いい迷惑だ

だが、相対立する宗教勢力のうち
「宗教の自由を支持する側にまわって力関係が変わった場合」
つまり、対立が沈静化するとか、冷戦よろしく均衡が取れるなら
その場合は宗教の自由が成り立つわけだ

つまり、

・既製宗教の下克上を企む宗教が下克上に失敗することで、結果的に「宗教の自由」という理念が生まれたものの
・この理念を掲げる国家はほとんどない
・ただし、そういう国家は既製宗教でさしあたり「安定」しているだけのこと(少数派の鬱憤がいつ爆発するか分からないにせよ)
・宗教対立のある国では、宗教の自由を掲げる宗教に、無宗教が乗っかることで、対立が鎮まり、「宗教の自由」が現実の制度として成り立つ

ってことだな

やはり、宗教の自由、良心の自由は
成立の発端は決して近代的なものではないってことが
改めて確認されたわけだ

なるほどねぇ、こういうことにまできっちり言及しているんだから
ミル『自由論』は、なるほど古典だ

それにしても、このような宗教を巡る怪我の功名によって
基本的人権に通じる市民的社会的「自由」が
偶然成立したってのは、なんとも複雑な気分になる話だね
その宗教を依然捨てきれずにいる人類は
その意味では近代的ではない、後進的、ということか?

ついでだ、中川八洋を批判しておこう

『社会契約論』における立法者に対して
市民は自分の人権を預けて放棄して絶対服従する
この辺は、ホッブズ『リヴァイアサン』を踏襲してのことだろう
また、ルソーは中間団体も排除している
ここから、立法者が文字通り法律を作るにしたって
結局は立法者の独裁を許すことになるのだから
これは法の支配ではなく、人の支配だ、と
中川八洋はルソーを批判する
共産圏が独裁となるのも、これが原因なのだそうな

対して、イギリスは法の支配が確立しているからこそ
国王が何をしようにも法に抵触することはできないし
中間団体が国王の権威が直接個人に至らないよう
緩衝材の役割を果たすことで
そもそも人の支配ができないようになっている、と
中川は持ちあげる

ホントか?

ミルはこう言っている

p.25
 イギリスでは、政治の歴史が独特なことから、ヨーロッパのほとんどの国と比較して、世論の束縛は恐らく強いだろうが、法の束縛は緩くなっている。議会や政府が個人の行動に直接に干渉することに対しては、国民の警戒心がかなり強い。ただしこれは、個人の独立を適切に尊重するべきだという見方が強いからではなく、政府とは国民と利害が対立するものだと考える習慣が根強く残っているからである。

だからこそ、やはりイギリスは市民革命の元祖なのだ
議会が定める法律や政府による行政は
むしろ「個人の行動に直接に干渉する」傾向が強い
法の支配なんて嘘っぱち、ということだ
それこそ中川がルソーのいう「立法者」をして
結局は人の支配だというのと同じ理屈で
議会や政府による人の支配がなされやすいのだ
だからこそ、国民はそのような人の支配と化す
議会や政府の干渉に「警戒心がかなり強い」のだ
しかも、「政府とは国民と利害が対立するものだと考える習慣が根強く残っている」

国民の圧倒的な支持を受けて政権交代した民主党も
議会に入って政府を作ったら官僚の傀儡と化す様を
目の当たりにした日本人には実に分かりやすい話だ

イギリスでは法の支配がしっかりしているのではなく
支配する側とされる側の緊張関係が強いってだけの話なのだ
そして、これが恐らく世界の常識だ
だからこそ、日本では暴動が起こらないことを
諸外国は不思議に思うのだろう

そういう意味では、恐らく日本人は
まだまだ自由を理解・実践していない、ということになろうか??

テーマ:
トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で述べていることが
どうにもピンと来ないながら
読書百篇意自ら通ず、じゃないが
(自ずから通じてねぇよ、こっちがチマチマ読み込んだんだ)
愚直に読んだ限りでは、どうもこういうことになる
詳しくはこちら参照

・イギリスでは国教会が幅を効かせていたため、自由な信仰は無理だった
・ピューリタンは、国教会に縛られず自分たちの信仰を貫きたい
・どーして国教会じゃダメなのか? 彼らの信念では、国教会が間違っていて、ピューリタニズムが正しいのだから、当然だろうな
・そこで、世俗権力に対して良心の自由を主張することで、自分たちの信仰を認めさせようとする
・ここからピューリタンは、政教分離の必要性を(そのような形で定式化していなかったとしても)肌で感じ取っていた
・しかし、イギリスでは政教分離が実現しないものだから、新天地を求めるピューリタンはアメリカに移住しだした
・イギリスにしてみれば、植民地は欲しいが厄介者は国外から出て行って欲しいので、オーストラリアに受刑者を送り込むのと同じ発想で、アメリカにピューリタンが出ていくのは大歓迎、むしろ是非アメリカに行ってくださいと奨励
・アメリカに辿り着いたイギリス人は、ピューリタン→建国する市民の利害は当然一致しており、市民としても均質で、思想統制などしなくてもピューリタンで一枚岩
・イギリスでの経験からアメリカでは当然最初から政教分離
・市民総ピューリタン状態で法律を制定すれば、たとえ法律が結果的にピューリタン色で染まっていても、反対するものは皆無、むしろ全会一致で法案可決するため、結果的に見た目は政教一致となるが、実は政教分離
・こうして、内面で信仰を求めるように、市民生活における自由をも求めることになる

ただ、この政教分離が
たとえ結果として市民に信教・良心の自由をもたらしたとしても
この政教分離は決して近代的なものではないって話が
こちらの冒頭で述べられている

歴史のなかの政教分離―英米におけるその起源と展開/著者不明
¥3,045
Amazon.co.jp

元々は宗教世界における権力闘争として
国教会にとってかわろうとしたピューリタンの
従来通りの後進的下克上だったのに
いつの間にやら近代的な政教分離に至る
なんとも皮肉な話だ

まぁ、オイラの反宗教も同じように後進的だと言われそうだが
宗教によって実際に、歴史を見れば明らかなように
一般の人は迷惑被っているんだから
そんなものに自由なんて認めるわけにいくかってんだ

テーマ:
政教分離関係の本のなかに
バーリンによる自由の分類が登場したため
いずれバーリンもちゃんと読まなければ
と思った一方で、自由に関する議論を
そう言えばまともに追いかけたことがなかったことに思い当たった

元々はポランニーに関心があったオイラは
『自由の論理』もつまみ食いで読んではいるが
理系関係の前提知識が絶対的に欠けているため
こちらも中断しているものの
幸か不幸か、収録されている論文は
元々雑誌等に掲載されたものなので
さしあたりつまみ食いでも問題はないかな?
と自分をごまかしている

The Logic of Liberty: Reflections and Rejoinders/Michael Polanyi
¥962
Amazon.co.jp


というのも、ポランニーの基本的な議論は
「知的自由の擁護」に集中しており
これとの関わりから、何度もこのブログで取り上げている
ファシズムが英米で生じなかったのは
政教分離によって宗教が保護されたから
という議論が派生するし
同様に、実用的な応用が効くかどうかとは関係なしに
科学者の自由な研究としての純粋科学は尊重すべき
という議論も派生する

更に、後者の議論を擁護するために
そもそも何かを知る、理解するという事はどういうことなのか?
について、いわゆる「暗黙知」との議論を展開することになる

俗にポランニーの議論はこの暗黙知だけが取り上げられ
この暗黙知との関わりで位置づけられる暗黙的知識
あるいは個人的知識が、ナレッジ・マネジメントの脈絡で
(完全な誤解とは言えないまでも)かなり矮小化されてもいるので
こういった浅薄な理解からポランニーの全体を救出し
自由の擁護というポランニーのそもそもの原点を理解すること
これが、さしあたりオイラが目指していることだ

ただ、ここでオイラは完全に路線を見誤った

『自由の論理』序文で、ポパーの名前こそ出てこないが
明らかにポパー由来の「開かれた社会」を批判している
ならばポパーを読むべきだったのだが
ここで科学哲学との関わりが判明しつつも
オイラに理系の前提知識が欠けていることから
(翻訳で読む限り、クーンやハンソンも決して面白くはないし)
論理実証主義や分析哲学との関わりで
ポランニーを捉えようとするアホな見通しを立ててしまった

だが、『科学・信念・社会』においては
科学者の自由は、個人としての科学者の自由と相補的に
「科学の共和国」との概念が提起されている
ここでは科学者の間に一般意志が成立し
この一般意志によって共和国が成立するという形で
明らかにルソー『社会契約論』が意識されてもいるのだ

Science, Faith and Society (Phoenix Books)/M. Polanyi
¥1,203
Amazon.co.jp


そこで、ルソーを調べることにもなったのだが
そもそも『者水契約論』ニ登場する「一般意志」という概念が
非常に定式化しづらい
それでも『ジュネーヴ草稿』を読むとイメージなら掴める

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)/ジャン=ジャック ルソー
¥980
Amazon.co.jp

イメージとしては、一般論を成り立たせる意志、という程度のもので
例えば「人殺しはよくない」と一般的には言えるが
「緊急避難」と言われるような極限状況ではやむを得ないとされるなど
個別事情で対立が生じる

あまり良い例ではない気がしてきた、そうだなぁ
ソクラテスの「無知の知」の方が分かりやすいのかもしれない
ボクサーが減量しなければならないとき、食べてはならないってことは
分かっているけど、腹が減ってついつい食べる、という場合
ソクラテスに言わせれば「食べてはいけないということがホントは分かっていない」
「分かっていないということを分かっていない」ってことになるだろうが
この無知を知らない状態が、個別意志にとらわれている、と言って良いのかもしれない
なので、自分のことを棚上げすれば
それこそ医療費抑制のためにも健康であるべき、とか
よってメタボ対策すべき、とそれこそ「一般的に」誰もが言うが
いざ自分のがダイエットするとなると
「そうは言っても……」となかなか痩せられない
それこそ空腹を我慢するのが辛い・苦しいとか
美味しそうな匂いが漂うお店の前を通って辛抱堪らないとか
そうなるとダイエットそっちのけで食べてしまう
その時その時の自分の利害で食べる選択をするのは自分の「個別意志」って訳だ
この場合、一般意志はメタボ対策すべき、だし
個別意志は、んなこといったって食べたい、ということになる
個別意志に負けて食べる人だって、頭ではメタボ対策の重要性を分かっている
少なくともそのつもりだが、ソクラテスに言わせれば分かっていない
一般意志を尊重せず個別意志を振りかざしているわけだ
こういったイメージは『政治経済論』にも登場して
それこそ一般的に、一般意志は正しくて個別意志は間違っいる
なんて話も出てくる
このような素朴なイメージで
一般意志と個別意志という区別がなされている程度で
概念としてまともに練りこまれてはいないのではないか?
と言う気がする
ただ、定式化が難しいにしても
それこそ概して「深酒はよくない」とは誰もが分かってはいるが
ストレスなどで飲まずにいられないような個別事情は起こり得るし
かといってそういった個別事例を容認していては収集がつかないので
それなりの融通はきかせるにしても原則は通さなければならない
(健康な人が嗜む飲酒と、アル中の深酒を区別する、などして)
という意味では、ルソーの言っていることがめちゃくちゃとは
オイラには到底思えない
(中川八洋など、批判する人は定式化されていないことをやたら強調する)

そういう意味では、一般意志を巡る問題はむしろ広くは
社会秩序と個々人の自由の問題として捉えることが可能なのではないか?

こうなってくると、やっぱり歴史的に自由がどう論じられてきたのか?
をちゃんと追っておいたほうが良さげだ

実は、今思いつくだけでも

・ポランニーを理解するにも理系知識、特に数学・物理学を確認する
・ポランニーが知的自由の敵とする社会主義やファシズムがどうして生じたか
・知的自由を実現する科学の共和国の一般意志の由来をルソーに求める
・ルソーが議論した背景となる自然法論の流れを把握する

といった問題系列が手付かずのままで
正直言ってどこから手をつければ良いのかも分からず
途方にくれているというのが正直なところなのだ

ただ、知らないことを理解するには知っていることを手掛かりにして
情報を積み上げていくしかないし
やっていて面白くないと思えたことは、面白さを理解できていないことなのだから
そういうことは後回しにしたほうが良い、というのがオイラのやり方だ

そういう意味では、現在取り組んでいる政教分離とトクヴィルの関わりからも
自由について確認しておくのは悪くなさそうだ

そこで、こちらを読むことにした

自由論 (光文社古典新訳文庫)/ミル
¥540
Amazon.co.jp


冒頭数ページしかまだ読んでいないのだが
今日既に常識と化したような考えが言葉にされていて
改めて言葉で読むと「そう言えばそうだったよなぁ」と
なんか感心するのだな

例えば、この『自由論』で扱われる自由が
そもそもどういうものなのか? について
いきなりこんなことが述べられている

p.10
 この小論のテーマは、いわゆる「意思の自由」ではない。じつに不幸なことに、「自由と必然」という形で、哲学上の必然性という誤解を招く言葉に対立するものとされている「意思の自由」ではなく、市民的自由、社会的自由である。

これは、実に上手い戦略だ
必然は、現代哲学だと「決定論」と言い換えられるようだが
それこそ論理「必然」的なんて言い方にもあるように
自由は「哲学上の必然性という誤解を招く言葉に対立するものとされている」のだ

ミルは、そういう意味での自由ではなく
「市民的自由、社会的自由」を扱うと、真っ先に断っているわけだ

他方で、ルソーが『人間不平等起源論』で自由を問題にするとき
人間が今日相互に鎖でつながれていて不自由だとの認識を示し
じゃあどうしてこうなったのかというと
所有を契機に不平等が成立したからだ、なんて言う

人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)/ジャン=ジャック ルソー
¥780
Amazon.co.jp

ここから、そのような社会状態が成立する以前の
自然状態にある人間は自由だったはずだ、論ずる
すると、この場合、本来自由だったはず、という自由は
社会が成立する以前の、自然状態における自由であり
そのような自由を、社会状態に移行した人間において実現するには
どうすれば良いのか? という観点から『社会契約論』が書かれるが
本来の自由が、自然状態において成立していたなら
ミルが言う「社会的」自由とは、そもそも前提が異なることになる

つまり、ルソーは自然法論を踏まえて
人間がそもそも自然状態で自由であったはずなのだから
社会においても同等の自由が確保されてしかるべきながら
君主国体においてはそうはなっていないし
それは不平等の起源である所有による格差から帰結している
なんて話をすることで
社会がどうあるべきか? という大掛かりな話に取り組むことになる
対してミルは、そういった自然法論などに関わらず
ましてや必然の対概念としての自由も扱わず
市民社会における個人に望ましい自由に限定してしまうのだ

ただ、そうは言っても内実は
自然状態の自由と無関係で済むはずはないのではないか?
だとしても、問題をここまで限定することで
面倒に関わらずに済ませた上で
国体がどうあれ、社会の中で個人が自由であるという場合
その自由がどういうものなのか? に特化する論法は
『笑点』よろしく座布団に値する

すると、結局は政治の問題になる
つまり、支配する側が発揮する権威と
支配される側が要求する「自由」という問題になるわけだ
当然、支配する側は支配される側に服従を「強いる」のに対して
支配される側はそのような権威から「自由」になりたいと望む
これは君主国体において見出される分かりやすい構図だ
当然、権威の横暴をどうやって防ぐか? という話になる

しかし、共和国体、あるいは君主国体であったとしても
一応民主的な制度が成り立っている所では
支配する政府は市民・国民の投票によって選ばれることになるため
支配される者から選ばれた代表によって支配されることとなる
自分で自分を支配する分には、権力の横暴なんて問題は
もはや原理的に成立しなくなるのではないか??

ところが、ルソーはそれこそそうなって欲しいが
そうは簡単に問屋が下ろさないので、対策として
一般意志だとか、中間団体の排除だとかいう議論を展開したし
(つまり、支配される者の代表で問題なく支配するにはどうすればよいか?
これこそが『社会契約論』のテーマだ)
一般意志は全体意志とは違うとも断ったのだ
全体意志は、むしろ多数の圧政に繋がるからだ

そういう意味では、ミルはルソーが懸念した問題に
ずっとシンプルにたどり着き、議論を始めているのだ

まだ読み始めたばかりだが
ミルを読んだらルソーの議論が分かりやすくなるかも知れない

それにしても、必然、決定論の対概念としての
哲学的にヤヤコシイ自由ではなく
日常生活の中で実感しやすい支配に対する自由
ごく当たり前に誰もが肌で感じ取れる自由に話を限定し
『社会契約論』がそもそも扱っていた問題にまで到達するとは
ミル、うまいことやったなぁ

テーマ:
クラシックには詳しくないし
あいにくそんなに耳が良いわけでもないので
音楽好きを自認するにも趣味の域を出ないが
GyaO!で再配信中の『鋼の錬金術師』で使われている
サウンドトラックの弦楽四重奏と思しき曲は
どれもよく出来てるねぇ

CD買おうかな?

鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST Original Soundtrack 1/TVサントラ
¥3,150
Amazon.co.jp
鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST Original Soundtrack 2/TVサントラ
¥3,150
Amazon.co.jp
鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST Original Soundtrack 3/TVサントラ
¥3,150
Amazon.co.jp


そういえば劇場版もあったんだよね?
そのうちケーブルテレビで見られるかな?


テーマ:
こちらを読んでいるのだが

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)/トクヴィル
¥945
Amazon.co.jp

ピューリタンが米国への移住によって求めたものは
この3つだとトクヴィルはまとめている

・精神的財産: あの世の天国→救済されること(永遠の命)
・物質的富: この世での繁栄(お金で計れる財産)
・精神的喜び: この世での自由

救済とお金についてはウェーバーも『プロ倫』で指摘するので
違和感なく「なるほど」と読んでいられるが
自由となると話は別だ

そりゃ、ピューリタンが好き勝手な政教一致神権政治を行えば
自分たちにとっては自由だろうが
ここで言われている自由とはどうやら
後に政教分離として制度化される良心の自由であるとか
あるいはそれをも包含する政治的な自由一般のようなのだ
だとすれば、ピューリタンの政教一致とどのように両立するのか?

という訳で、トクヴィルの話を続けて愚直に読んでみる

p.70-71
 彼らの手にあっては、政治の原理も法律や人間の諸制度も、意のままに方向を変え、組み替えられる可塑的なもののように思われる。
 彼らの生まれた社会の周囲に張りめぐらされていた障壁は、彼らの前で崩れ去る。何世紀もの間世界を導いてきた古い意見は消えてなくなる。そこにはほとんど限りのない道、果てしない土地が姿を現す。人間精神がそこへ突進し、あらゆる方向に走り回る。だが、政治の世界の極限に達すると、精神はひとりでに立ち止まる。精神は恐れおののき、自らのもつもっとも恐るべき力を行使することをやめる。懐疑を捨て、改革の必要を放棄する。聖域のヴェールを剥がすことさえ自制し、敬虔にも真理の前に身を屈して、議論なしにこれを崇める。

冒頭はなんてこともない話だ
アメリカは新しい国だ
原住民を蹴散らして強引に建国したのだから
一から何でも組み立てることができた
当然、「彼らの生まれた社会」、つまり
イギリスで国教会が牛耳っていた社会と違って
それまでの文化・慣習・法律を無視して
「制度も、意のままに方向を変え、組み替えられる」し
まだ歴史が浅いため、なにか不都合があれば
ガラガラポンするのもそれほど苦がないという意味で
「可塑的」と言えただろう
(ただし、飽くまでトクヴィルの時代のことだ
現代ではガラガラポンするのはまず無理だろう
それでも、ウォール街への反発など、格差問題から
何らかの暴動が起こってもおかしくはないが
せいぜい法律を通す程度で終わるのではなかろうか?)

ピューリタンはイギリスを捨てたので
本国で自分たちをがんじがらめにしてきた
「障壁は」、アメリカでは「彼らの前で崩れ去る」
国教会が「何世紀もの間世界を導いてきた古い意見は消えてなくなる」
アメリカ原住民を蹴散らして自分たちの国を作り
一から好きなように制度設計するのだから
残るは広大な土地だ
「そこにはほとんど限りのない道、果てしない土地が姿を現す」
入植当初こそ過酷な自然に手を焼いたにせよ
「人間精神がそこへ突進し、あらゆる方向に走り回る」
どんどん開拓していったわけだ

ここまでは分かり易い
ところが、この後がピンと来ない

「だが、政治の世界の極限に達すると、精神はひとりでに立ち止まる。」

「政治の世界の極限」って何だ??

まぁ、目の前に手付かずの広大な土地が広がっている分には
「人間精神がそこへ突進」できたのだろうが
その土地の延長、行き着いた末、ということなのかな?
「政治の世界の極限に達すると、精神はひとりでに立ち止まる」

土地の果て、つまり、西海岸までたどり着くってことなら
まだ分かるんだが辿り着いた先が「政治の世界の極限」って
なんのこっちゃ??
しかも、そのような極限にたどり着くと
「精神はひとりでに立ち止まる」だって??

さっぱり訳がわからないが、先を読んでみよう

「精神は恐れおののき、自らのもつもっとも恐るべき力を行使することをやめる。」

目の前に広大な北米大陸が広がっている分には
精神は「突進した」のに
「政治の世界の極限」に達した途端、立ち止まり
「恐れおのの」くってんだから
ピューリタンがそうやって恐れるのは、やっぱり神なんだろうなぁ?

となると、天国が神の国、すなわち神が君主の君主国体なんだから
これが「政治の世界の極限」ってことになるのか??
そういう天国を前にすると、つまり、とりあえずこの世で死ぬと
最後の審判をいずれ迎えることになると連中は信じている
当然、裁く神の前で借りてきた猫状態になるわな
そういう話か??
東海岸から西海岸に向かって北米大陸を開拓していた話が
いきなり何の話になってるんだ??

トクヴィルの書き方は、むちゃくちゃだっ

まぁ、それでも続きを読んでみよう

「懐疑を捨て、改革の必要を放棄する。」

この世にあっては国教会が牛耳るイギリスを
ピューリタンは端的にダメだと思ったからこそ
イギリスとは根本的に異なる国家を
アメリカに一から建国したわけだから
当然本国イギリスとその国の政治制度や国教会に対しては
「懐疑」を抱き、ホントだったら国教会にとって代わり
イギリスを「改革」したかったんだろうが
そうする代わりにアメリカを作った
そうやってこの世でやることをやって
いよいよ死ぬと、ピューリタンは
自分たちこそ正しく信仰しており、神の意に沿っていると
信じて疑っていないわけだから、当然天国で復活し
永遠の命が手に入るものと信じている
国教会には懐疑の念を抱いていただろうが
天国や神を疑うなんて恐れ多いことをピューリタンがするはずもなく
「懐疑を捨て、改革の必要を放棄する。」
天国こそは理想郷に違いなく、神御自ら統治なさるので(笑)
天国の統治のあり方を改革する必要なんてあるはずがない

「聖域のヴェールを剥がすことさえ自制し」

天国を覆うヴェールがあるのかどうか
そういう描写が聖書のどこかでなされているのかどうかは知らないが
まぁ、あるんだろうな、カトリックのトクヴィルが言うんだから
で、そのヴェールを剥がさないと

ふむ

「敬虔にも真理の前に身を屈して、議論なしにこれを崇める。」

どうやら、「天国ってどうしてこんなに問題なく運営されるんだ?」
などと疑問に思うことも、「その秘密を解明しよう」とも
「解明したら地上に残る子孫に伝えよう」とも思うことなく
(あ、最後の審判を迎えているなら地上は滅んでるのか)
ただただ、神に従う訳ね

……という話でいいのか?
そう考えれば一応分かる気がするが
話の展開が唐突だな、オイ

だが、どうやらこういう理解で良さそうだ
こう考えれば、続きもなんとか理解できる

p.71
 かくして、道徳の世界ではすべてが予め整理、調整され、予見され、決定されている。政治の世界ではすべてが揺らぎ、何事にも異論が挟まれ、不安定である。一方には自発的だが受動的な服従があり、他方には独立心があり、経験の無視とあらゆる権威に対する疑念が存在する。

「道徳の世界」と「政治の世界」が対比されているが
どうやら「政治の世界」とはこの世のことで
その極限、あの世、天国が「道徳の世界」ってことのようだ
だったら政治の世界には道徳はないのか? とか
色々気になるにせよ、それでもこのように考えれば
なんとか筋は通る

・道徳の世界(天国): 神が万事管理。人間は自発的に服従。
・政治の世界(この世): 既存の国教会など反キリストがはびこるので「すべてが揺らぎ」喧々諤々。反キリストである既存権力から独立し、これまでの経験を無視し、権威を疑う。

ということだな

まぁ、なんとかそういう話として理解するのは良いが
これと「自由」の話はどう絡むんだ??

p.71
 この二つの傾向は外見上どんなに対立するようでも、決して互いに害し合うことなく、一致して歩み、助けあっているように思われる。

ここにも自由の話は出てこないが
とりあえずは、天国で神の言うことに自発的に従うためには
この世では反キリストに疑義を挟み、反キリストから独立しなきゃならない
という話だろうな

p.71
 宗教は市民的自由に人間の能力の高貴な実践を見出す。政治の世界は造物主が知性の努力に委ねた場所とみなすのである。宗教は自らの領分では自由にして強力である。だからこそそれは、政治の援けを借りずに宗教自身の力で人の心を支配すればするほど、その力が確立されることを知っているのである。

そうか、ようやく政教分離の話になった訳だ!

「市民的自由」ってのは、手前の箇所で言えば
既存の反キリスト(と勝手に見なしている権力)に従わず
むしろ対抗し、独立することで、そのような既存の権威から「自由」である
ということなんだろうな
なので、政治における自由とは、反キリストから逃れ
正しく信仰するために必要なこと、ということになるんだろう
すると、政治の世界における人権の主張など
国王などの圧政に抵抗するということは
そのような圧政がそれこそ反キリストの振る舞いと見なされているので
まさに神意に適う行為ってことになる
つまり、政治社会で市民である個人としての自由を求めることは
まさに神の意図に適う宗教的に敬虔な行為ってことになるわけだ
そして、ピューリタンはこれを実践してイギリスを後にし
アメリカに行った訳だ
そのためだったら原住民をどうしようが気にしないのだな
これ、シオニズムによるイスラエル建国と全く同じ構図だな

だが、どうして地上、この世はそういう面倒な状態になっているのか?
「政治の世界は造物主が知性の努力に委ねた場所とみなす」
つまり、神が一から十まで何でも手取り足取り命じていたんじゃ
人間が堕落するから、「可愛い子には旅をさせろ」というか
まぁ、そういうことだな

で、いよいよ政教分離だ
「宗教は自らの領分では自由にして強力である。」

宗教が、「自らの領域」つまり聖なる事柄
天国を目指してなされる精神的な事柄においては
「自由にして強力」、それこそ長髪を自主的に防止する結社を作ったり
そういうこと??
法律がなくたって、信仰に照らして好ましくないことは
やらないようにする、そういう判断を各自が下すような影響力が
宗教から及ぶ、ということか?

「だからこそそれは、政治の援けを借りずに宗教自身の力で人の心を支配すればするほど、その力が確立されることを知っているのである。」

つまり、法律がなくても、「政治の援けを借りずに」
宗教的な生活を送るよう各自の心を導く、という訳だ

すると、建国当初はそれこそ好き勝手にできるもんだから
聖書の文言を法律に取り込むなんて政教一致ぶりが見られたが
イギリス本国での既存権力、国教会との対抗を通じて
市民的自由を求めることが神意に適うとの発想も定着し
政治が法律によって生活に口出ししなくても
むしろ宗教が心を導き、信仰に適った生活を送るようになるのだから
政教一致の必要はもはやないどころか
宗教が十分に機能するためにも、政治から独立していたほうが良い
という話になるのか??

おいおい、随分重要な話じゃないか
こんな重要な話を、どうしてこんなに分かり辛い書き方で紹介するんだ??

で、ついに「自由」の話だ

p.71
 自由は宗教のなかに、手を携えて戦い、勝利を共にした盟友を見出し、自らを育てた揺り籠、自らの権利の神聖なる源とこれをみなす。宗教こそ習俗の保護者であり、習俗が法律を裏付け、自由それ自身の永続を保証すると考えるのである。

無生物主語がそのまま訳されているようだし
誤訳ではないとしても日本語としては変な言い回しが使われている
原文は見ていないが、無生物主語をそのままにするにしても
冒頭の「自由は宗教のなかに、手を携えて戦い、勝利を共にした盟友を見出し」は
むしろ「自由は宗教が、手を携えて戦い、勝利を共にした盟友であることを見出し」
ということではなかろうか?
宗教のなかに盟友を見出すのであれば
クジラの腹のなかに飲み込まれた人間を見出すような話になりそうだが
ここで言われているのはそうではなくて
フランス革命など大陸では自由にとって宗教が敵だと目されているのに対して
アメリカでは逆に、宗教こそが自由の盟友であり
自由を勝ち取る際に、自由は宗教と手を携えた同盟関係にある
という話だろ??

それだけではない、自由にとって宗教とは「自らを育てた揺り籠」だ
上の話にあるように、国教会と対立する形で市民的自由を求める発想は
そもそもピューリタンという宗教がなければ生じなかったのだ

更に、自由から見れば、「自らの権利の神聖なる源」こそ宗教なのだ
市民的自由自体、ピューリタンが自由な信仰を求めるからこそ得られたのなら
そのような自由は宗教を通じて得られた神聖なものであり
その神聖な自由の神聖な源は、それこそ神聖な宗教なのだ、というわけだな

すると、むしろこういうことになりそうだ
見掛けが政教一致な法律制定にしても
そもそも自由な市民がほぼ均質なピューリタンなのだから
自由な投票で可決される法律の文言が
ピューリタン信仰に基づいて聖書を踏まえたものとなったって
不思議はない
だからこそ、法律は習俗に比べればむしろ緩いのであって
習俗は法律の規制がないにもかかわらず
市民が自主的に厳しくしている
法律が安息日を定めなくたって市民がピューリタンなら
安息日が守られて当たり前!

なので、実は最初から政教分離だったのだ!
むしろ、分離していると考えるからこそ
国教会の抑圧に抗して自由な信仰を求めたのだし
その結果アメリカに辿り着いたのだし
政治でどうこうされなくとも自主的に信仰篤く暮らすことで
救済を期待するのだ
ただ、その前提は、飽くまで政教分離に基づく自由だ
だからこそ、救済を求めるなら自由も同じように求めることになる
その自由が実現する場がアメリカなのだっっ

どうも、こういう話のようだな


総体革命を目指す創価学会が泣いて羨ましがる状態だな


しかし、とんでもない逆説だな、これ
イギリスにピューリタンの居場所がなかったからアメリカに行ったにせよ
当初はイギリス国内で良心の自由を求めて活動していたのだから
本国に残った残党というか、そういう人たちもいただろうし
ロックの寛容論も絡んでくるだろうから
政教分離によってむしろ宗教が保護された英米で
ファシズムが起こらなかった、というポランニーの話に繋がってくるな

Amebaおすすめキーワード