1998年2月17日、長野県白馬ジャンプ競技場 - 1998年 長野大会 -
NHKアナウンサー 工藤三郎
長野オリンピックジャンプ団体金メダルの瞬間をブレーキングトラックで見ていた。
岡部孝信、斎藤浩哉、原田雅彦、船木和喜。飛び終わった日本選手たちに最初にマイクを向ける代表インタビューが私の仕事だった。

雪は激しく降り続いていた。
すぐ脇には原田雅彦選手がいた。ヘルメットを脱いだ原田雅彦選手は、髪先に湿った雪を積もらせ、顔全体をクチャクチャにしながら立っていた。直前、逆転の金メダルへ大きく近づく137mの大ジャンプを飛んだ彼は、まだ空中を漂っているかのように呆然と立っていた。そしてラストジャンパーの名前を繰り返し呟いている。
「ふなきい~ふなき~」

4年前のリレハンメル大会の団体で原田雅彦選手はラストジャンパーを務めた。そして、金メダルを目前にした2回目に失敗した。放送席にいた私は「途中で落ちた!」と実況した。帰国後の祝賀会などで挨拶を求められると、彼は「落ちてしまった原田です」と自嘲気味に自分を紹介していた。

長野オリンピック。2日前に行われたラージヒルで原田雅彦選手は銅メダルをとっていた。その2回目のジャンプ。私の実況は「さあ原田、因縁の2回目・・・」。そして、通常のフライトより遥か高く飛び出したジャンプに「立て立てたってくれ~」と叫んでいた。彼は、強烈な衝撃を受けながらほとんど平らな場所に見事に立った。その夜、苦笑いを見せる彼から「『因縁の2回目』はキツかったですね」と言われた。

原田雅彦選手はいつも周囲への気配りを忘れない。猛烈に圧し掛かってくるさまざまな重圧を明るい振舞いの中に隠してきた。隠しきれない本音をのぞかせた原田雅彦選手の一言に、実況アナウンサーとして冷や汗がでる思いをさせられた。

3万5000の大観衆が挙げる喚声と笛の響きが谷間のようなジャンプ台に反響する。
ジャンプ台を見上げても、雪とガスで白濁した大気のせいでスタート地点にいる船木和喜選手の姿はぼんやりとしか見えない。その影が動いた。
黒く小さく蹲ったようなクローチング姿勢が滑り落ちていく。カンテの陰に一瞬姿を消した黒い塊はバネ仕掛けのように勢い良く上体を吹雪の中に突き立てた。足元の二本のスキーがまるで扇を開くようにゆっくりとV字に広がった。下には来ない。前に進む。そして緩やかに下降を始めた。斜面を擦るような船木独特の滑空を見せる。二本のスキーが一列に揃い、左右の足を前後させたテレマークのポジションに入る。船木の両脇に蒸気の噴射のような雪煙が上がる。遅れてパタン!と激しくランディングバーンを打つ音が鳴った。

次の瞬間、左のスキーが降り積もった雪で横に流される。しかし、船木は堪えた。反射的に足首を戻してスキーを揃えながらブレーキングトラックを滑り抜ける。歓声と笛のボリュームが更に高まる。船木は両足でスキーを制御しながら方向転換して止まる。ゴーグルを外した。
期待と確信とが綯い交ぜになった大観衆の目が電光掲示板に注がれる。日本は勝った。
原田は船木に向かってもう走り出していた。岡部も、斉藤も走っていった。原田が船木を押し倒した。

インタビューで原田雅彦選手は泣きじゃくっていた。聞き手の私も泣いた。
この金メダルで、原田雅彦選手は「失敗」と「因縁」を乗り越えた。
そして、「失敗」と「因縁」を実況した私も救われた。