「異次元」に特例論議


 国際スケート連盟(ISU)の年齢制限に87日だけ足りず、出場できなかった06年トリノ五輪から4年。フィギュアスケート女子の浅田真央(19=中京大)は、金メダル候補として初めての五輪を迎える。あどけなさの残る顔で、華々しくシニアの国際大会にデビューした05年シーズンから今季まで、どんな道のりを歩んできたのか? あらためて全15回の連載で振り返る。


 「五輪はやっぱり金メダルがいいと思う。初めての五輪で思い切り楽しみたい」。昨年12月の全日本選手権で五輪出場を決めた浅田は、会心の笑みを浮かべた。4シーズン前の05年11月から、シニアの国際大会に出場し、ようやく五輪の舞台に立つ。4年は長かったか? と聞かれると「すごく早かった」と即答した。


 4シーズン前、当時15歳の浅田のサイズは158センチ、38キロ。今シーズンよりも身長は5センチ低く、体重は12キロ軽かった。全身がバネのようにぴょんぴょんと跳びはね、女子では世界で数人しか跳んだことのないトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を難なく決めた。シニアの国際大会デビュー戦となった05年11月の中国杯では2位。直後のフランス杯では、約3カ月後のトリノ五輪で金メダルを獲得する荒川静香らを退けて優勝した。


小泉首相「出てもらった方が」


 15歳の浅田真央は、05年12月のGPファイナル(東京)を制して、トリノ五輪を前に世界の頂点に立った。「残念ですが、10年のバンクーバー五輪を目指して頑張ります」。本人はもちろん、当時の山田満知子コーチもトリノ五輪出場はまったく頭にはなかった。しかし、浅田の五輪出場をめぐる国内の騒動はなかなか収束しなかった。


 当時の小泉首相が「あれだけ見事な演技だから優秀な人にはどんどん出てもらった方が五輪も盛り上がると思う」と話し、日本オリンピック委員会の竹田会長は「日本スケート連盟から要望があれば国際オリンピック委員会への対応などを考える」と発言した。「真央ちゃんを選ぶべきだ」「何とかならないのか」…。年末の全日本選手権を最終選考会と位置付ける日本スケート連盟が、五輪代表をまだ決めていなかったこともあって、都内の連盟事務局の電話は鳴りやまず、通常業務に支障が出るほどだった。


 「トリノは(頭に)ない。バンクーバーはあるけど」と、のびのびと全日本選手権に臨んだ浅田は、女子としては世界で初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を2度決めて、村主章枝に続く2位に入った。トリノ五輪の代表には村主、3位の荒川静香と6位の安藤美姫が選ばれた。


 06年2月24日、荒川の五輪金メダルが決まると関係者を通じてコメントを発表した。「家族と一緒に、自宅で観戦しました。昨年、世界ジュニア選手権で一緒になった選手も多く出場していたので、そのことを思い出しながら見ていました。大舞台で力を発揮するということは、やはり大変なことだと思います。荒川さん、優勝おめでとうございました」。4年後は私が取りたい-。浅田は金メダルへの思いを強くした。



ヨナとライバル物語の始まり



トリノ五輪の熱気が残る中で迎えた06年最初の大会で、浅田真央は負けた。相手は五輪で表彰台に立った荒川静香やコーエン、スルツカヤではない。06年3月の世界ジュニア選手権(スロベニア)。それまでジュニアの国際大会で無敗だった浅田は、同じ90年9月生まれで、当時15歳の金妍児(韓国)に24・19点という大差で2位に終わった。「近ごろ、そんなに悔しい思いをしたことがなかった。小学校5年生くらいで(姉)舞に負けた時以来かな」。悔しさを押し殺し、表彰台では自ら右手を差し出して金を祝福した。ライバル物語の始まりだった。


 総合153・35点は、約3カ月前にシニアで世界一となったGPファイナル(東京)で出した189・62点より、36・27点も低かった。ショートプログラムで、国際スケート連盟(ISU)主催の大会で、女子では初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に成功。だが予定していた2回転ループとの連続ジャンプは、1回転となった。フリーも3回転半を跳んだが、1回転半止まりと失敗。対する金は予選から2連続3回転、2回転半-3回転など高難度の連続ジャンプを決めていた。同年代では飛び抜けていた実力が、いつしか、もう1人の天才少女に追いつかれていた。


当時の山田満知子コーチは「もし金妍児さんがシニアに出ていたら、必ず上位に入ったはず。新時代はもう来ている」と、予感していた。浅田も「いいライバル。ずっと一緒にやっていくだろうし、お互いに頑張れれば」と、ガムシャラに追いかけた、トリノ五輪のメダリストたちとは違う感情を抱いた。


 浅田はシーズン終了後に、山田コーチのもとを離れた。より重点的に練習ができるようにと、山田コーチの親心で米国へと練習拠点を移すことになった。