祖父が亡くなりました。

がんで亡くなりました。

 

がんだと分かったのは3年前の冬のこと。

その時、手術をして、

一時は健康も回復したものの、

昨年の12月頃から体調を崩すようになり、

年が明けてからは、

何も食べられなくなりました。

 

みるみるうちに痩せ細っていく祖父。

食べられないのだから仕方ありません。

看護師さんは

祖父にご飯を食べさせようとしましたが、

祖父はそれを吐き続ける日々。

痰が絡み、絶えず吐き気を覚え、

常に吐しゃ物を受け止めるためのバケツが

手放せない状態。

そんな日々が1ヶ月近く続きました。

 

祖父はがんだと分かる前までは、

非常に元気な人でした。

80を超えて、

朝から晩まで農作業にいそしみ、

グラウンドゴルフに興じ、

祖母とともに農協の旅行に行くなど、

活動的でエネルギッシュな人でした。

 

だからこそ、あの祖父の状態を見るのは

かなりしんどかったし、

なによりも、パワーに満ちあふれていた

祖父のイメージとは

あまりにも乖離していたため、

僕はそんな祖父の状態を

俄に信じられなかったのです。

 

だけど、僕なんかよりよっぽど辛かったのは

他でもない祖父本人です。

社交的で、エネルギッシュな祖父は、

周りに集まる人も多く、誰からも慕われる人でした。

そんな祖父は、僕に向かってこう言ったのです。

「誰にも会いたくない。」と。

常に吐しゃ物を受け止めるための

バケツが手放せなくなった

自らの姿を一番みじめなものだと

感じていたのは祖父自身。

故に、家族以外、

誰にも会いたくないと言ったのです。

 

見る僕たちも、そして祖父本人も辛かった。

そして、ついに「ホスピス」への入所が決まります。

3月23日のことです。

いわゆる「緩和ケア」の始まりでした。

そこに入ってから、

祖父は生気を取り戻したかのようになり、

か細かった声もよく出るようになり、

あれだけひどかった

吐き気も覚えなくなりました。

3月29日、祖父は看護師さんに連れられ、

ホスピスの中庭にある桜の木で、

人生最後のお花見をしました。

その時、祖父は大好きは芋焼酎を片手に、

30~40分、花見を堪能したそうで、

付き添ってもらった看護師さんは、

「すごく気分が良さそうで(笑)」と

言ってくれました。

その時、ホスピスの部屋の中では、

「赤霧島」の

心地よい香りが漂っていました(≧∇≦)

 

時は過ぎて、今朝の9時22分、

出先にいた僕のスマホに

1本の電話がかかってきました。

見ると、それは母からで、

「おじいちゃんの呼吸数と

心拍数が低下している。

もうおじいちゃんは話すことが難しい。

けれども、最後に、

あなたの声を聞かせてあげて」とのこと。

あまりにも急すぎる展開でした。

僕は「ありがとう。

これからも僕は頑張るよ。」と

そう祖父に告げました。

それから10分後の9時32分頃、

祖父は安らかに旅立っていきました。

 

出先から再び電話を母にかけたときには、

すでに祖父は旅立っていました。

その時、母はこう言ってくれました。

「あなたの声を聞いて、

おじいちゃんは涙を流してたんだよ」と。

それを聞いた瞬間、

僕はもう

涙を流さずにはいられませんでした。

 

祖父は生前から、僕のことを、

「自慢の孫だ」と言ってくれていました。

本心か、それとも方便だったのか、

それは今となっては知るよしはありません。

けれども、僕にとっては確実に、

祖父は「自慢の祖父」でした。

 

あなたの孫に産まれてよかった。

 

今はそれだけです。

 

安らかにお眠りください。

 

 

2018年4月9日

 

あなたの「自慢の孫」より。