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(14)アカプルコ/暴風耐え新大陸到達
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牡鹿半島の月浦から米カリフォルニア州に至る黒潮の道は、およそ8000キロに及ぶ。
支倉常長らを乗せた慶長遣欧使節船サン・ファン・バウティスタ号は度重なる暴風をしのぎきり、黒潮ルートの分岐点となる北米大陸のメンドシノ岬沖に到達した。
1613年12月26日のことだった。
一行が無事に新大陸を望見できたのは、事実上の船長として針路を示し続けたスペイン大使ビスカイノの手腕と、操船経験豊かなスペイン人水夫たちの汗のたまものと言ってよい。
ビスカイノは、大西洋に面したスペイン南西部の港町ウェルバで1550年頃に生まれた。
若い時分にフェリペ2世のポルトガル鎮定戦に従軍し、その後、メキシコとフィリピンを結ぶ黒潮ルートの交易「マニラ・ガレオン」に従事した。
彼は、アカプルコを起点とするカリフォルニア方面の探査に2度出掛けている。
1602年の2度目の探査行では、4隻の船隊を率いてメンドシノ岬を越え、北緯43度付近に進出した。
米太平洋艦隊の根拠地となったサンディエゴ、リゾート地として名高いモントレーやサンタ・バーバラなどの地名も、この航海でビスカイノが命名したものだった。
カリフォルニア半島の中央部に、セバスチャン・ビスカイノ湾という地名を拾うこともできる。
メンドシノ岬からカリフォルニア半島、アカプルコに至る海域は、ビスカイノにとって自分の庭のようなものだった。
黒潮の末端はカリフォルニア沖でアラスカ海流とつながり、カナダの西岸を北上してゆく。
サン・ファン・バウティスタ号はここで船首を南に向け、緩やかなカリフォルニア海流に乗った。
食料と水の補給を行いつつ南下するに従い、海はコバルトの青さを深めてゆく。
14年1月28日、ついにメキシコの玄関口アカプルコに到着した。
メンドシノ岬から3800キロ余りを、ひと月で航走したのだった。
使節船はアカプルコの湾口で礼砲を放った。
答礼の砲声が紺ぺきの水面にとどろき、軽快な銃声がそれに和した。
スペイン人がこの地域を制圧したのは1520年代のこと。
メキシコ市との間に踏み分け道ほどの連絡路が開かれ、馬車道に拡張され、ウルダネータによって黒潮の航路が開拓されると、アカプルコは大西洋岸のベラクルスに次ぐ重要港湾の地位を獲得していった。
アカプルコには、リゾートホテルが林立する世界的な保養地のイメージがある。
銀幕のスターや歌手らが別荘を構えた1960~70年代ほどの勢いはないものの、今も年に市の人口の10倍を超す600万~700万人もの観光客を集める。
潤んだ風に吹かれながら街を歩くと、さまざまな肌の色の人々と行き合う。
幕府公使として一行を率いた宣教師ルイス・ソテロの伝記に「使節一行がアカプルコに上陸すると、(メキシコ側は)盛儀をもって迎え、王邸に宿泊させた」とある。
だが、使節船が入港した当時のアカプルコは、簡単な保塁を備えた辺地の浜にすぎない。
観光名所の一つであるサンディエゴ要塞が今に残る姿を整えたのは、オランダ艦隊の襲撃を受けた1615年以降のことだという。
王邸とは何であったろう。
ソテロやビスカイノに続いて、おびただしい数の異邦人が上陸してきたことに、現地人は目を丸くした。
使節船はローマ法王やスペイン国王への献上品のほか、1000梱(こうり)に上る交易品も運んできた。
珍客と珍品の到来を聞きつけ、人々が港に集まってきた。
そんな中、流血騒ぎが起きた。
岩に憩うペリカンや熱帯の花々に目を奪われつつ上陸した日本人を、人々が取り囲んだ。
無遠慮な若者が、侍の腰の刀に手を伸ばした。
武士の魂に触れられまいとして侍は腰を引いた。
その格好が面白かったらしく、周囲はどっとはやし立てた。
得意になった若者がまた手を伸ばした時、
白刃が一(いっ)閃(せん)して小手を切り落とした、と伝わる。
日本にいる宣教師たちの報告は「侍は好戦的」という点で一致していた。
報告を裏付ける事態を目のあたりにしたメキシコ側は
「日本人に危害を加えて紛争を招くな」
「日本人が携えてきた商品を奪うな。
商品売却の自由を妨げるな」と布令した。
その一方で、
侍たちの戦闘力を奪う方策を講じた。
常長ら数人を除き、使節の侍たちは、副王が待つメキシコ市に入る手前で、
やんわりと腰の大小を取り上げられてしまう。
(本稿は日本海事史学会会員、慶長遣欧使節研究家・高橋由貴彦氏の所説、および著書「ローマへの遠い旅」などを基に執筆した)
(生活文化部・野村哲郎/写真部・長南康一)