時間的によく寝たと感じる朝。
タバコ吸いながら店にへと。
二本目のタバコに火をつけ書斎に。
PCとストーブもつける。
何度か目覚めたたびに、外の静けさを感じてた。
積雪のせいで車の音がしなかった。
そんな風にして小まめな時間が過ぎてゆく。
コマ送りのように。
今朝も何度も再起動しないと起動しないPCにイラつく。
まるで持ち主みたいに。
要らぬものをいっぱい詰めすぎて、あっぷあっぷしてるのだろう。
雪と同じで、すべて溶かせばエンジン音が鳴り響きながらスムーズに本来の日常が蘇るはず。
だらだらと。
本当にダラダラとあとわずかな人生をやり過ごす。
長女が昨夜のカレーを温めてくれた。
風邪で具合の悪いカミさんに代わって。
確かに幸せがここにある。
それ以上に何もいらないほどに。
だからこそ……。
やらなきゃ。
何を?
その続きを。
でも、調子悪い。
重すぎる。
心も体も。
いったい、何故?
『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』
ライトノベルの範疇を超える文芸小説を読み終えた。
昨日までの雪が消えて無くなってゆく。
それを眺めながら時間に取り残されている感がする。
昔と変わらない自分を置き去りにして、時間が過ぎ、大好きな人が次々といなくなり、変わってゆく。
次はどうすべき?
今を生きるしかない。
今日の仕事を無心にしよう。
「タイムパラドックス」
この小説を読んでいて、そんな言葉が浮かぶ。
愛美が話すには、
「私は高寿の世界とは時間が逆向きに進むとなりの世界から来た」
「五年に一度、四〇日間だけ会うことができる」。
物語に没頭してしまうと、架空の想定にしては、とても真実味がある。
過去から未来に直線的一方的に流れるだけが時間なのではないのかもしれない気にさせる。
そもそも、時間などは便宜上、人間が勝手に観念として作り出したに過ぎないのではないかと。
無論、生老病死から逃れられない運命だが、それは所有物としての肉体や物でしかない。
小説を読むか映画を観るかしないと伝わりにくいかもしれないが、その凝縮した時間だけ、切なさを噛み締めながら生きてゆく二人。
「僕たちはすれちがってない。端と端を結んだ輪になって、ひとつにつながっているんだ。二人で一つの命なんだ」
この表現が一番印象に残った。
そしてそれは、二人に限らず、すべての生命(意識)が廻る輪のように時と場所を変遷しているのではないかと。
しかもそれは、時の経過としてではなく、常にそこに絶え間なく、繰り返しの中にあるものとして。
小説やこの物語の設定のように、台本があるようでありながら、喜怒哀楽を持つ人間生命に、限りなき愛と自由を保障されつつ。