世の中、うまくは回れないようだ。

「渡る世間は鬼ばかり」というより、「渡る世間は亀いらず」という感じ。

自分の不器用さにほどほど愛想を尽かしている。
世間の55歳と言ったら、もう将来の備えも済ませて暮らしも落ち着き、悠々自適の生活を満喫していてもおかしくない。

『論語・為政(ためまさ)』の孔子(こうし)の晩年の言葉。

「子曰(いわ)く、吾(われ)十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」

(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)

これにしたがって考えれば、私はまだ十代か二十代の段階ということになる。

ああ、無情。
人生は無常と無情でできている。
そんなふうに感じざるを得ない。
 
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

(天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずとは、人間はすべて平等であって、身分の上下、貴賎、家柄、職業などで差別されるべきではないということ)

福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭にある言葉を持ち出してみても、それは他者を見ての場合であり、自分を見つめる上においては、甚だ疑問が残る理想論に思えてくる。

それによく読むと、誰もが平等だと指し示しているのは、社会的な側面だけであることに気付く。

「身分の上下、貴賎、家柄、職業」だけであり、もっと人間の本質である「人格・人間力」に関して触れられてはいない。

そう、そこなのだ、私が自信喪失しているのは。
だからこんな愚痴めいたことを書いている。

「心こそ大切なれ」

すべてを剥ぎ取った後に残るもの、すなわちあの世があるとして、あっちに持っていけるものとは、生命に刻印されたものしかないではないか。

体も含めて、あの世に持込み可能なのは、永遠の生命(有るとしたらの話)のみなのだ。

そう思うと、今の精神状態(それを生命状態と置き換えられるならば)では、とてもとても、大手を振って三途の川を渡れる気がしない。

橋のたもとで小さくなってるところを、鬼にメダカにされて送り返されてしまいそうだ。

いったい、何が足りないのだろうか?

目的?
夢?
使命?
愛?

自己愛が強すぎて、他者や家族にさえ冷たく当たる。
自分のことで精一杯で、他に何も見ようともしない。

心が折れている。

いつしか失った心の余裕。
金もなければ信用もない。
ないない尽くしで、ないない病に苦しんでいる。

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「ここにコップの水が半分あります」

それをまだ半分もあると感じるか、半分しかないと思うか。

それが決定的な幸福感の違いになると誰かが言っても、コップを伏せたままの状態では、水も入らない。
つまり、心が開いていない。

飲む前にコップをひっくり返して水を注がなきゃ。

受け皿もなければその水も足りないので、自分の心の充実度なんか測れない。

雨は空から落ちる。

地面に染みて川に流れて海に注ぎ、また空へ還る。

それをただ傍観しているだけの人生。

水は生命。
捉えられていない己自身。

ダムを造ろう。
貯水しよう。
そうして乾いたときに、困った人の田畑に流そう。
その用水路を作ろう。

そうしてはじめて水が水として生き生きと活動を始め、心のオアシスが生まれるのだろう。

結局の所、世間をうまく渡るには、生命力を強くすることが最も肝心となる。

その方途を見いだすには、他者貢献と自分作りを同時に行うこと。

仕事であれ、遊びであれ、このブログでさえ、内と外の分け隔てのない行動が、幸福の絶対条件である生命力の高まりを満たしてくれるはずである。

前述の故事ことわざ、言葉を書き換えておこう。 

「渡る世間は生命力次第」

亀でも鬼でも幸せになれる。

「天は人と人、すべての人をつないでいる」

自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸せもない。

「コップの外にも水があります」

自分の許容量だけでは測り知れない無尽蔵の幸福のタネがこの世に溢れている。

 だからこそ、書き換えられなかった、
「心こそ大切なれ」となる。