私ってこんなこと経験してきました(家庭・学校編) | 永川智美(Thamba)オフィシャルブログ《ぶっちゃけ、天界の記憶があります!ごめんなさい☆》

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ある日突然、心の真ん中から飛び出してきた《天界》についてのこと。心や魂を整えるカウンセラーをしたり、講師をやったり、主婦をやったり。球オタクで実況アナウンサーの旦那氏と娘・鉄子氏と暮らしてます。元・証券営業マン。

私の幼少期~学生時代はなかなか荒れていて

家庭も学校の環境も住環境も

思い返せば、困難に溢れてました。



それでも、その時、

私の前にあるキラキラしたものに向かって、

「欲しい!」と思い、

それを目指し、全力で手を伸ばし、

そして必死で掴み取って来ました。


それを思い返した時、

「私、すげぇやん!!何自分責めとんねん!

今まで歩んだ道のりと、

今、責めてるポイントが不釣合い過ぎんねん!

そことちゃうやろ!ツッコミポイントが!

ツッコむんなら、

『ココとちゃうやろ!』やろがーい!

この状況に甘んじとることが、最大のツッコミポイントやろがーい!ムキームキームキームキームキーと、

自分で自分を突っ込んだ。


ツッコミきつい(笑)口悪い(笑)ゲロー




本当は自慢したかったこと。

それを今からこの記事で大いに自慢します。

不幸自慢もするし、経歴自慢もする。


今まで、

「いやいや、私なんてそんなそんな」って言って、黙ってたこと。


でも、誰かに気づいて欲しくて、

誰かに「えー!すごいよ!」って言って欲しくて、小出しにして来たこと。(笑)


「本当はすごいのに、ひけらかしてなくて、人間出来てはるわ」って皆に言われたくて、

言ってこなかったこと。(笑)


そんな、プロフィールを今日は書きます。




私の家庭は、いわゆる「不全」と言われる家庭でした。


父・母ともに性に関して奔放で、

私が小学4年の時に、父の不倫相手が家に押しかけて来たり、

母は母で、当時浸透したての「出会い系」で見つけた男性と、

受験勉強に励む中3の私の隣で電話したりメールしたりしていました。


で、結局、

1になる春、父が愛人に子供を産ませ、

父が出て行く形で別居。

離婚調停が長引き、その4年後に正式に両親は離婚しました。


この2人の様子を当時の私は

一言で言えば「諦念」の気持ちで見ていました。

ショックだった。辛かった。

ハァ?と思った。

でも、「私が我慢していれば、家庭は上手くいく」とも思っていた。


だから、結局離婚していくサマを見ていると、

最終的にはただ虚しく、ただ諦めた気持ちになりました。




また、私には10個歳下の妹が1人いて、

その妹は比較的重度の身体障害を持って産まれて来ました。

病気の名前が多すぎて、小さいものも合わせれば20個くらいある。 


妹は肛門がない状態で産まれて来たので、

産まれてから2歳くらいまでは人工肛門で排泄していました。


人工肛門の仕組みってどうなってるか?って言うと、

お腹を数センチ切って、そこから直腸をチョロっとだけ出して、腸の周りに袋をかぶせて、

排泄するっていう仕組みになってるんですよ。


そんで、腸を詰まらせて腸閉塞にならないように、

毎日1回は直腸に銀の棒を差し込む「ブジー」っていう作業をしなきゃいけない。


これを家庭でするんです。


母が銀の棒を差す係。

私はその間、妹を抑える係。当時私10歳。

妹はまだ赤ちゃんだったから、我慢出来ずにジタバタするんです。

でも暴れたりして、

差し込んだ棒が腸を破ってしまったら大変なことになる。

だから、どうしても抑える係が必要。

そこは普通、父がやるべきなのですが、

「俺はそんなことできへん」と拒否し、

私がやることになりました。


なんで私がやる流れになったかは覚えてません。

母が「あんたがやって」と言ったのか、

はたまた「私がやる」と私が言ったのか、

覚えていないけれど、

とにかく気づいた時には私がやっていて、

もう拒否という選択肢がなかった。


妹は痛いから泣き叫ぶし、

母は緊張から常に不機嫌だし、

でも私まで「嫌だ」と言ったら、

母は怒るし、妹は死ぬし、

もうひたすらに「我慢」していました。


辛かったよねー、

大人さえも逃げ出すことを、

たったの10歳でいろんなことを理解して、

飲み込んでやり切ってた。

自分を本当に褒めてあげたい。


その分、妹の成長もよく覚えています。

寝返りを初めて打ったとき、

初めて座れた時、初めて立てたとき、歩いたとき。


「寝たきりになるかもしれない」と言われてた妹の成長は奇跡で、いつも感動していました。


あと、無呼吸症候群という

1歳までは勝手に息を止める」っていう病気も持っていたから、

妹が寝てる時でも「は!!息してるかな?!」と常に息をしてるか確認してました。

だから妹が1歳になった時は本当にホッとしました。

やっと緊張から解き放たれる~って。


妹が障害を持ってるって、

正直しんどい。

一言「しんどい」。

介護的な部分もしんどいし、

世間の目も気になる。


でも、妹の笑顔を見たり

一緒に遊んでる時は

私にとっては癒しで、

とんでもなく愛しちゃうのが妹の存在でした。


(ちなみに今も妹は背骨が曲がっていたり、

手が奇形だったりと、

パッと見て「身体に障害を持ってるんだな」と言うことはわかるけれど、

命に関わる病気は全て治って、

現在は元気に女子大生をしてます。サークルに入って友達もいっぱいいます。バイトもしてます。彼女もすごい。)


で、学校は学校で、

高校で進学校に行くまでは、

かなり小・中とかなり荒れていました。


こっちも小学4年生の10歳の時がピークに荒れていて、

完全に学級崩壊してた。

どのくらい荒れてたかっていうと、

算数の時間に骨折者が出るほど荒れてた。

授業中に歩き回るのは当たり前、

暴れまくるから、骨折者が出る始末。


今考えたらすごいな荒れすぎやろ(笑)


中学校は中学校で、

その延長線上にあるような学校だった

ハハハハハ。。。


そんな環境の中、

私はというと

グレて不良になったり、


不登校になって引きこもりになったり、


そんなことはなく、

とんでもなく優等生として

成長していくのでした。



ー続くー


重いし、長いわってなるわゲロー(笑)


ここまで読んで下さってありがとうございます。

不幸自慢したかったんです。

こんなこと体験してきたの!って。


受け止めて下さりありがとうございます。

でも続きます。


次の記事では経歴を自慢します。


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