闇鴉が来た日から、早くも一週間が経った。其の間、誰も来ることはなかったが、龍影にとってこの一週間は最悪なものだった。

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闇鴉が来た日の夜。龍影は久し振りに修羅の仕事をしようと、ある屋敷に侵入した。
今まで何度もやってきた仕事。失敗のなかった仕事。しかし、この日は何時もと違った。

返り血を諸に浴びてしまい、其れによって吐き気を催してしまったのだ。

「……っ…ゲホッ…ゲホッ……」

乱暴に狐面を外し、其の場で嘔吐してしまう。
生理的な涙をポロポロと溢す龍影の背中を、狐火が心配そうな表情で摩る。

『お前は修羅には向いていないよ』

『己の体を、態々血に染める必要はない』

「……っ…俺は、どうすれば……」

龍影は、ぐっと己の手を握り締めた。背中を摩る狐火の手に、情け無さが首を絞める。

「……師匠」

呟かれた言葉は、静かに血の海へと沈んだ。

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其の日以来、仕事はしていない。しかし気分は最悪。
落ち着くまでに、一週間という時間を費やしてしまった。

未だに泣いている空の下、龍影は、すっかり定位置になった縁側に座っていた。其の隣には、相変わらず彼の少年がいる。

笑顔を知らないとでも言うように泣く空を、何所か穏やかに見ていた時、不意に足音が聞えてきた。
龍影は、音の主を見て思わず目を見張った。

「……何しに来た」

「言いたいことがあったのです」

龍影の前には、追い払った日から一度も此処に来なかった琴音の姿があった。

「あたし……本当は何と無く気付いていたんです。龍影さんが、修羅だということ。其れと……兄だということも」

龍影は、ぴくりと肩を揺らした。

「気付いていながら、あたしは逃げてしまった。怖かったから」

「其れは俺が修羅「違います!!」……」

修羅だからか?と訊こうとした龍影を、琴音は遮った。

「違うの……。怖かったのは、自分を拒絶されると思ったから。追剥をやっていた奴なんか妹じゃないと言われるのが怖かったから!!」

そう言ってポロポロと涙を溢す琴音に、龍影は押し潰されそうだった。

怖かった?逃げた?
何言っていやがる。逃げたのは俺じゃねェか。
これ程怯えさせ、涙を流させたのは、外でもねェ……


俺じゃねェか!!

龍影は痛いと思う程、己の手を握り締め、奥歯をぐっと噛み締めた。


「あたし、ずっと考えていました。どうすればいいのか。結局は、良い方法が見付からなかったけど……。でも、逃げちゃいけないことだけは分かったんです。だから、これだけは言わせて下さい。一度で良いから……」







「兄上って呼んでも良いですか?」







零れる涙を拭うこともなく微笑んだ琴音を、龍影はぎゅっと抱き締めた。

『狐火。俺は妹を捜しているんだ。きっと一人で泣いているから、早く見付けてあげなくちゃ』

何時からだろう。其の想いが薄れてしまったのは。
何時の間にか、こんなにも視界が狭くなっていた。
ちゃんと光はあったのに、闇の中でもしっかりと輝く光があったのに……。其れを見ようとしなかった。

嗚呼、そうか。視界が狭くなったのではない。視界を狭くしてしまったのだ。
修羅という面を被り、龍影という顔を隠した。其の結果がこれだ。


龍影は抱き締める力を強めて、声を絞り出した。

「拒絶するわけあるめェよ。お前は、大事な妹なんだからよォ。……悪かった」

「兄上って呼んでも良いの?」

「嗚呼……これから先、ずっと呼んでくれ」

「…っ…兄上、兄上!!」

縋り付く琴音の肩に顔を埋め、龍影はそっと其の肩を濡らした。

其の光景を、離れた場所で見詰める者達がいた。悠助達三人と闇鴉、そして狐火だ。

「やっぱり龍影にはあの子が必要なんやね」

そう言って狐火は寂しげに笑った。其れを見た闇鴉は、紫煙を狐火に向けて吐き出すと、呆れたように口を開いた。

「自分は役に立たないとか、必要ないとか思っているんじゃあないだろうね」

じっと見詰めてくる隻眼に、狐火は目を落とした。図星だったからだ。

「馬鹿だねえ。必要ない存在なら、あんなことすると思うかい?」

龍影達の方を煙管で差しながら言う闇鴉に、狐火と悠助達は不思議に思って其方を向いた。
其処には、狐火の名前を呼ぶ龍影の姿。

「さっさと行きな」

狐火は浮かんでいた涙を乱暴に拭って、何時もの笑顔で駆け寄った。

「そないな呼ばんでも聞えとる!!騒がしい!!」

「何度呼んでも出てこなかったのはお前だろうが!!何時もは勝手に出てくるくせに」

「其れは……」

狐火が反論しようと口を開いた刹那、龍影が油揚げを放り投げれば、狐火は其れに瞬時に飛び付く。
其れを見て全員が声を立てて笑った。

笑う龍影の顔に、修羅の顔は無い。其処にあるのは、兄という顔と龍影という男の顔だった。

『お前さんの道は笑って死ねる道かい?琴音も笑える道かい?』

其れは己が答えられなかったもの。でも、今なら答えられる。


俺の道は、笑って死ねる道だ!!


「ちゃんと守ってよね。俺の大事な妹なんだから」

少年はそう言って姿を消した。


――江戸の空は、やっと笑ってくれた。



幕末の生きる道~苦界されど我は笑ふ~


『修羅篇』