通信10-51 頭の上に愛のひとしずくが垂れてきた思い出 | 青藍山研鑽通信

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作曲家太田哲也の創作ノート


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 ようやく梅雨らしい空を見たが、雨はかすかに掠る程度にしか降っていない。このままから梅雨にでもなるのだろうか。それともどんとくるのだろうか。どんときた雨の記憶は多い。数年前の博多駅周辺の浸水はまだ生々しく記憶に残っている。その日は、オーケストラのリハーサルが入っていた。朝、まだ寝床の中だったか、寝床から這い出したところだったか、記憶は定かではない。ともかくその日のリハーサルは中止だという連絡を、オーケストラのインスペクターから受けた。雨?雨なんて降ってないじゃないかと訝しく思いながら四階の窓から外を眺めると、表は池のようになっていた。空は晴れ間が見えていた。私が鼻から提灯を膨らませながら楽しい夢に遊んでいる間に、一体どれだけの雨が降ったんだ?午後になりようやく水が退いた頃、様子を見に外に出た。

 

 氾濫した三笠川あたりの路地に入り込むと、人々がせわしなく働いていた。箪笥だの、机だのと家財道具が玄関から運び出されてる。壁に、濡れた畳が立てかけてある家もあった。時折立ち寄る小料理屋では、いつも愛想の良い女将がスコップで店内に流れ込んだ泥を掻き出していた。私と目が合うと、苦笑いを見せながら首を横に振る。道はすっかりぬかるんでいて私はよたよたと、アニメのペンギンのように情けない足取りで歩き続けた。こんな時、ゴム草履は本当に弱いんだ。路地を抜け、大通りに出たところで、突然足を取られた。あっと思った時には、頭は地面の上にあった。空が眩しかった。傾きかけた太陽がきらきらと輝き、私のゴム草履がその輝かしい空を飛んでゆくのがはっきりと見えた。仰向けに倒れた私の横を、リコーダーを吹きながら三人の小学生が通り過ぎて行った。人が倒れているというのに、こいつらはリコーダーを吹き続けていた。しかも、その演奏が乱れる事はなかった。昔、誰かに聞いた、イギリスの軍楽隊は、行進中に仲間が倒れてもそ知らぬ顔で、その仲間を踏み越えて演奏を続けるという話を思い出していた。

 

 小学生の時に体験した洪水は大きかった。日曜の朝、友人と遊んでいた私は、突然降り出した雨に、友人に別れを告げ、急いで帰途についた。普段なら雨ぐらいで家に帰ることはない。その日の雨に、何か特別な気配でも感じたのだろうか。家は坂の途中にあった。家の前の坂は小川のようになっていて、ずぶ濡れの私は半ば捨て鉢な心地よさを感じながら、流れに逆らって坂を上った。

 

 家に入り、その激しい雨を見ていた。小川のようになった表の道はさらに水嵩を増し、玄関から水が入り込んできた。幸い家は二階建てだった。我々は小動物のように二階の部屋で丸まって外を眺める事しかできなかった。表の道を車が流れていった。それから畳、雨戸、たらい、犬小屋・・・あらゆるものが脈絡なくどんどん流れていった。やがて、平屋住まいの近所の人々が次々と我が家の二階に集まってきた。大人たちの呆然とした虚ろな顔が、子供心に恐ろしかった。

 

 雨が上がり、大人たちは草臥れた様子でのろのろと片づけをしていた。ガキは?もちろん大はしゃぎだ。ずぶ濡れの家の中を走り回る。一変した景色に浮かれる。便器から汚水が溢れていた。まだ、便所は汲み取り式の時代だ。溢れた便器を見ても大喜びだ。

 

 家の前の坂を上ってみた。坂の一番上の家は、当然ながらもろに水の被害を受ける事になる。その家はすっかり持っていかれていた。まるで作り話のようだった。屋根と柱だけがしっかりと残っていた。庭を囲んでいた塀もすっかりなくなっていた。そこには仲のいい女の子が住んでいた。サカモトミホというその子とはよく遊んだ。だが、それ以来、彼女を見る事はなかった。どこかに引っ越して行ったんだ。最後にどうやって別れたのか、どうしても思い出せない。ただ、水が溢れている間、彼女は両親と一緒に私の家の二階に避難していた。

 

 それから数日後、学校で担任の教師から、床上浸水にあった家の生徒は前に出なさいと言われた。教壇の前に並ぶ我々に、教師は一本づつ浸水の見舞いだという鉛筆を渡した。鉛筆には「愛のひとしずく」と金色の文字で書いてあった。何故か私は、その「ひとしずく」という言葉がおかしく、笑いをこらえていた。今も思い出すと、やはりその「愛のひとしずく」という言葉に笑ってしまう。


                                      2013. 6. 10.