武士道≒人の道。 | 俺様の「好きにやらせろ!」 Ⅱ

武士道≒人の道。

先日、雑誌 で見かけた元気くんの受け売りで、昨日より、
今更ながら、「竜馬がゆく」 を読み始めた、俺様です。

それが、ちょうど、コイツを読み終えた直後だったという、
必然の流れに、気持ちよく身を委ねながら、

一晩にして、竜馬の行動に、惹き込まれてしまいました。
来週からの長期休暇を前に、どこまで読破できるか。

5/15 of Books 2008
新渡戸稲造著/岬龍一郎訳 「武士道」


武士道 (PHP文庫)/新渡戸 稲造

かつて、巡礼相棒±0くんの勧めで 「ラストサムライ」 を
観て以来、強く、「日本」 を意識していたりですが、

日本人として日本を知る上で、「武士」 「サムライ」 の
概念を、把握していないわけにはいかないキッカケで、

手にした1冊ですが、一般に良く知られている 「武士道」
が、新渡戸稲造氏によって書かれていたとは露知らず、

ましてや、それが、海外での出版を目的に英文で書かれ、
和訳されて手元にある、という事実に、まず驚愕。

しかしながら、それゆえに、日本人が日本人たる所以やら、
その 「魂」 の根底やらを、俯瞰的に知ることができ、

そして、俺様を含む、「今」 を生きている日本人にも通用し、
欠け始めている 「人としての生き方」 を改めて感じました。

「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」 (八つの徳) を意識しながら、
信念をもって前に進む気持ち、背筋がしゃんとします。

ますます 「日本」 「日本人」を、深く、知りたくなってきて、
俺様自身の 「旅のカタチ」 も、やや見えてきたかも。

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さて、私がおおざっぱに武士道(chilvalry しるばりー)と訳した言葉は、原語の日本語では騎士道よりも、もっと多くの意味合いを含んでいる。「ブシドウ」は字義的には「武士道」である。すなわち武士階級がその職業、および日常生活において守るべき道を意味する。一言でいえば「武士の掟」、すなわち、「高き身分の者に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)」のことである。

(第一章 武士道とはなにかより)
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ある一流の剣術の師匠(柳生但馬守宗矩)は、剣の極意を会得した弟子(徳川家光)に「私が教えられるのはここまで。これより先は禅の教えに譲らねばならない」と告げた。「禅」とはディアーナ(Dhyana)の日本語訳であり、それは「言語による表現範囲を超えた思想の領域へ、瞑想をもって到達しようとする人間の努力を意味する」。
その方法は座禅と瞑想であり、その目的は私の理解するかぎりでいえば、あらゆる現象の根底にある原理について、究極においては「絶対」そのものを悟り、その「絶対」と自分を調和させることである。このように定義すれば、その禅の教えは一宗派の教義を超えている。そしてこの「絶対」を認識し得た者は誰でも、世俗的なことを超越して「新しい天地」を自覚することができるのである。
仏教が武士道にあたえられなかったものは、日本古来の神道がそれを十分に補った。他のいかなる宗教からも教わらないような、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝心などの考え方は、神道の教義によって武士道へ伝えられた。それによってサムライの傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植えつけられたのである。

(第二章 武士道の源はどこにあるかより)
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勇気の精神的側面は沈着、すなわち落ち着いた心の状態となって表れる。大胆な行動が動態的表現であるのに対し、平静さは静止の状態での勇気である。真に果敢な人間は常に穏やかである。決して驚かされず、何物にもその精神の均衡を乱されない。

(第四章 勇―――勇気と忍耐より)
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礼の最高の形態は、ほとんど愛に近づく。それは私たちにとって敬虔な気持ちをもって、「礼は寛容にして慈悲深く、人を憎まず、自慢せず、高ぶらず、相手を不愉快にさせないばかりか、自己の利益を求めず、憤らず、恨みを抱かない」ものであるといえる。ディーン教授(アメリカの動物学者)は人間としての六つの要素を掲げ、その中でも礼に人間関係の最高の地位をあたえてはいるが、これはむしろ当然といえるだろう。

(第六章 礼―――仁・義を型として表すより)
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どんな仕事に対しても報酬を払う今日のやり方は、武士道の信奉者の間では広まらなかった。なぜなら、武士道は無報酬、無償であるところに仕事の価値がありと信じていたからだ。精神的な価値にかかわる仕事は、僧侶にしろ、教師にしろ、その報酬は金銀で支払われるべきものではなかった。それは価値がないからではなく、金銭では計れない価値があったからである。この点においては、武士道の数学では計算できない名誉を重んじる精神は、近代経済学以上に真実の教訓を人々に教えていたのである。すなわち、賃金や俸給というのは、その仕事の結果が明確で、具体的に計測可能な場合にしか支払うことはできない。これに対して、教育における最良の仕事、あえていえば魂の育成(この場合は僧侶の働きも含まれる)などは、明確でも具体的でも計量可能でもない。計測できないものに対して、外面的な価値で計る金銭を用いることは不適当である、としたのである。

(第十章 武士はどのように教育されたのかより)
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新渡戸もいうように、日本人の道徳律は儒教的に負うところが大であるが、孔子はそれを「五常の徳」を主体として、さらには忠・孝・悌を合わせた「八つの徳」で”人の倫”を説いてきた。
五常の徳とは、「仁・義・礼・智・信」のことであり、簡潔にいえば、「仁」とは思いやり、「義」とは正義の心、「礼」とは礼儀・礼節、「智」とは叡智・工夫、「信」とは信用・信頼のことである。そして「忠」とはいつわりのない心、「孝」とは父母を大事にすること、「悌」とは年長者に従順なことをいう。具体的にいうなら、「人にはやさしくあれ」「正直であれ」「嘘をつくな」「卑怯なことをするな」「約束を守れ」「弱い者をいじめるな」「親孝行をしろ」「兄弟仲良く」といったことで、これらの想いを「良心」というのである。それゆえに、われわれはこのモラルを犯すと、良心の呵責に襲われるのである。

(解説より)
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★219頁/累計9,153頁

■始まりは ココ から
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<Books 2008>
1/15 自分自身と付き合う。
2/15 ”役割”をはたすため。
3/15 コーチング 「力」。
4/15 広告の明日(あした)。


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