人生は螺旋階段のようなもの③
私は、「人間学」を学ぶ目的のひとつは、「順逆を超える」ことにある、ということを学びました。
「順境にいても安んじ、逆境にいても安んじ、常に坦蕩蕩として苦しめる処なし。これを真楽というなり。萬の苦を離れて、この真楽を得るを学問のめあてとす。」
中江藤樹
です。
つまり、成功の絶頂にあっても決して傲慢にならず、感謝の心、恩と敬の心を忘れない。逆に逆境にあっても、泰然自若として少しも動じることがない、という心境です。
しかし、これは実に難しいことです。少なくても、私は自分の螺旋階段的人生のかつての周回では、これが中々できていませんでした。「順境」で有頂天になり、うぬぼれていた時もありました。「逆境」では、なんでなんだ!と、何かを怨んですっかり精神が疲れていた時もありました。
しかし、人生は捨てたものではありませんでした。その間でも、天は私にとって必要なことを授けてくれていたということです。そして、そのようななかで、螺旋階段の再チャレンジの周回がまた何度か巡ってきてくれていたのです。
かくて私は、どうやらようやく、「順境」にあっては恩と敬と感謝を忘れることなく、「逆境」にあっては、ひたすら「下学して上達す」と、コツコツと自分が為すことに専念できるようになったように思います。
それは、ずいぶん長い道のりの螺旋階段でした。
論語に
「子曰く、仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯に仁至る」
とあります。
「仁」の思いやりや敬の心は、自分と離れて遠くにあるものではなく、もともと自分の中にあるものであって、それをすっと引き出してその心で日日を過ごそうと思いさえすれば、その「仁」はしっかりとおもてに表われてくるということです。
そのことに気づいて、チャンスをとらえてはその都度それを行う。そして、そうできなかった自分については、「吾日に吾が身を三省す」(論語)という姿勢が、理性をもった人間としての自己修練(修身)ということなのでしょう。
ロープウエイできた人は、登山家と同じ太陽を見ることはできない。
アラン(仏の哲学者)
人生とは、自分だけにしか歩めない、しかもたった一度しか歩めないかけがえのない登山道を、コツコツと上るようなものです。
もちろんその道は自分だけの力で上っているのではありません。様々な人と出会い、その支えを杖にして上っているのです。
そして、その登山道は人それぞれに別であっても、上り切ってしまえば、そこに見える景色(求めてきた心境)は、誰もがきっと同じようなものなのだろうと、私は思うのです。
シリーズでお伝えしてきた 「あと5年だな」の声が聞こえるは、ここでおしまいです。
お読みいただきありがとうございました。